「戦後沖縄・歴史認識アピール」への賛同メッセージ
2015年末より、歴史研究者の鹿野政直・戸邉秀明・冨山一郎・森宣雄の連名で「沖縄と日本の戦後史をめぐる菅義偉官房長官の発言に抗議し、公正な歴史認識をともにつくることを呼びかける声明」を発表し、雑誌・インターネット上で賛同署名を呼びかけて参りました。
多くの方々から賛同の声をいただきつつ、4月23日には早稲田大学にて『沖縄の民衆運動史からいかに学ぶか―「戦後沖縄・歴史認識アピール」の集い』を持つに至りました。
その場に配布された「賛同者メッセージ」について、より多くの方々とこれを共有できるよう、本ホームページ上に公開することに致しました。
こちらから、賛同頂いた方々からのメッセージ(2016年4月21日現在)をご覧いただけます。
また以下に、オンライン署名サービス「Change.org」(https://goo.gl/HUO5iM)に掲載されました声明文本文を再掲致します。
—–以下、声明本文—–
戦後沖縄・歴史認識アピール
沖縄と日本の戦後史をめぐる菅義偉官房長官の発言に抗議し、
公正な歴史認識をともにつくることを呼びかける声明
2015年11月24日
2015年夏、米軍普天間飛行場の代替施設として沖縄県名護市辺野古に新基地を建設する問題の是非をめぐって、沖縄県と日本政府のあいだで1カ月 にわたる集中協議がおこなわれました。しかし議論はほとんどかみ合うことなく、9月7日に決裂しました。その翌日、菅義偉官房長官は閣議後の記者会見で、 普天間飛行場が戦後に強制接収されて建設されたことが現在の普天間問題の原点だとする沖縄県側の主張に対して、「賛同できない。日本全国、悲惨な中で皆さ んがたいへんご苦労されて今日の豊かで平和で自由な国を築き上げてきた」と反論しました。
この発言にみられる歴史認識は、沖縄と日本の戦後史、あるいは現在にいたる日米両国の対沖縄政策の歴史を、主観的な思いこみを頼りに自己流に解釈 した無責任なものです。日本政府の国務大臣が公式の場でこのような歴史認識を表明したことに対し、私たちは、沖縄と日本の戦後史の研究に携わる者として抗 議し、発言の撤回を求めます。
言及された「日本全国」の「悲惨」「苦労」がなにを指しているのか必ずしも明確ではありませんが、その言葉からイメージされる戦争被害、人権蹂 躙、生命・身体・財産の安全に対する脅威などの諸点で、日本と沖縄の戦後史は同列に扱える性質のものではありません。日本本土(沖縄県以外の都道府県)も 1945年の敗戦から52年の講和条約の発効までの7年弱の期間、アメリカを中心とする連合国の占領下に置かれました。しかしその形態は、日本政府に指 示・命令を与える間接占領であり、地上戦で「血を流して得た」征服地を米軍が直接統治した沖縄の軍事占領とは、一口に占領といっても性格がまったく異なり ます。
また講和条約の発効後も、沖縄だけは住民の意向をなんら聴くことなく日本と切り離され、さらに20年もの長期にわたりアメリカの軍事占領下に置か れました。その間、沖縄戦の開始と同時に出された「戦時刑法」などの戦時法令が引きつづき施行され、住民自治や言論の自由などの基本的人権が否定されるな か、「銃剣とブルドーザー」による軍用地の強制接収が伊佐浜・伊江島、現在の那覇市などでくり返されました。その結果、沖縄の米軍基地面積は1950年代 後半にほぼ倍増しましたが、そこに岐阜県や山梨県に展開していた第三海兵師団(約5000人)などが移駐し、米軍の地上戦闘部隊や核兵器部隊は日本本土か ら姿を消していきました。こうして日本本土は、冷戦下の厳しい緊張状態にあった近隣諸国とは対照的に、いわば低コストの安全保障環境のもとで「奇跡の経済 成長」(1955~73年)に邁進する有利な条件を得ました。それは沖縄に軍事的負担を押しつける構造なしにはありえなかったのです。
しかも沖縄と日本のこの境遇の違いは、日本政府の積極的な協力や黙認のもと日米両国政府の合作で作りだされたものであったことが、近年進んだ史料 公開や研究によってますます明らかになっています。アメリカで公開された公文書には、1956年に沖縄で軍用地問題に抗議する全住民規模の「島ぐるみの土 地闘争」が起こったのに対し、日本政府は土地問題について「明確な行動はとらない」ことを即座に閣議決定し、沖縄側からの陳情を受けつけないよう那覇の日 本政府出張機関に訓令を発したことが記録されています。ところが反対に、アメリカ政府はこれ以降沖縄返還の準備に取り組むようになりました。そのなかで 57年には、沖縄の統治体制の転換にあたって日本政府も関与するよう打診しましたが、当時の岸信介首相は占領継続の責任を問われたくないとこれを拒み、そ の一方で国会答弁(衆院安保特別委員会、60年4月13日)では、「返せ、返せと」「耳にタコができるほど繰り返し」ても「アメリカが施政権を持っておる ことが、この極東の平和を維持する上に必要」だと「向こうは返さないといってがんばっている」と、手出しできない不可抗力性をよそおい、実態的にはアメリ カの沖縄占領がつづくことを期待し、施政権返還後も沖縄への軍事負担の押しつけを継続しました。
菅官房長官の発言にあるように、仮に現在、「豊かで平和で自由な国」が日本に築き上げられているとしても、その裏側で、沖縄では、はかり知れない 犠牲を今日まで余儀なくされてきました。米軍占領下では、アジア・太平洋地域で最多の、瞬時に島全体を消滅させうる千発以上の核兵器が配備され、また公式 の統計には記録されない無数の米軍犯罪事件・事故の発生に人びとは日々苦しめられました。県の統計が残る1972年の沖縄返還(日本復帰)以降の米軍犯罪 の摘発件数は、2014年までの42年間で5862件に上ります。米軍兵士は基地内に逃げこんでしまえば摘発を容易に逃れられるため、実態は氷山の一角だ といわれていますが、この数字だけを見ても、沖縄が日本の他地域とはまったく比較にならないほど人権および平和的生存権が抑圧された状態に置かれてきたこ とは明白です。
集中協議の場で菅官房長官は、「私は戦後生まれなので沖縄の歴史はなかなか分からない」、そのため日米両政府間の19年前の「辺野古合意がすべて だ」と語り、これに対し翁長雄志知事は「お互い70年間も別々に生きてきたような感じがしますね」と返したといいます(後の翁長知事の講演による)。とて も抑えた言い方ですが、このやり取りには、自分が継承する政府の行為を「戦後生まれ」といった個人的理由で否認する、驚くほどの無責任さが露呈していま す。
しかし菅官房長官の発言は、単にひとりの国務大臣の認識不足と無責任さを露呈させただけなのでしょうか。私たちは、この発言に抗議し撤回を求める ことは必要不可欠だと考えていますが、同時に、それだけでは前向きで建設的な解決には結びつかないと受けとめています。沖縄の基地問題にあたる政府当局者 に、歴史の事実や、その歴史のなかで犠牲を強いられたひとの痛みを省みない発言をしてもかまわないと思わせている日本の政治・言論状況や歴史認識の現状に こそ、問題の根はあるのだと考えられるからです。この歴史認識の不十分さについて、私たち沖縄と日本の戦後史を研究する者は、これまで十分に社会的な務め をはたすことができていたのか、力不足であったことの責任を感じます。
日本の首都からもっとも遠く離れた県庁所在地は沖縄県の那覇市です。そのことが象徴するかのように、沖縄をめぐる政治は、安保法制をめぐる論議で もつねに枠外に忘れられがちです。しかし、その心理的な距離感や無関心をも利用するかたちで米軍基地はこれまで沖縄に集中させられてきたのであり、中国・ 東南アジアと隣り合うその場所に軍事基地――しかも直接の管理統制が及ばない外国軍を集中させてきたという戦後日本のいびつさは、国内外における信頼醸成 をはばむ棘となっています。
いま「日本の政治の堕落」、「民主主義の価値観の共有」、そして「日本の安全保障を日本国民全体で考えること」が、何度となく沖縄から問いかけら れています。現知事のみならず前知事も、新基地建設容認へと転じ自らの選挙公約を捨て去る直前まで、そう訴えつづけていました。だれが追いつめたのでしょ う。問われているのは政府だけではありません。また、問うているのは沖縄だけではありません。その背後には中国や朝鮮半島、そしてアメリカもふくむアジ ア・太平洋地域の人びとからの視線がひろがっています。沖縄の基地建設の発端ともなったアジア・太平洋戦争の歴史を本当に克服できているのか、沖縄への差 別は戦前の植民地主義とつながりがあるのではないか、それらを克服する歴史認識を築きえているのか――。沖縄からの問いは、戦後70年の歴史的な問いであ り、まずもってそれに答えるべきは、政治家や専門家もそのうちにふくむ日本本土社会の人間以外にはいません。
私たち4人は歴史の研究をしてきた者であるにすぎませんが、この声明を発表することで、まず私たち自身、力不足をおぎない合い、沖縄と日本の戦後 史のさらなる解明を進め公正な歴史認識をつくる課題にむけていっそう努力する意志を表明するとともに、関連する幅ひろい分野の研究者やジャーナリスト・作 家・市民の方々に対して、この課題に共同してとりくむ緊急の必要性があることを訴えたいと思います。
沖縄では、戦後70年にわたり「基地の島」とされ軍事的緊張と対立のただ中に置かれつづけてきたからこそ、この島で平和と人権、自治を打ち立てる ことがすなわちアジア・太平洋に真の戦後、平和をもたらすことになるという思想が、草の根のレベルからじつに数多くの人びとによって分け合われ、訴えら れ、語り継がれてきました。辺野古新基地建設に反対する大きな理由もそこにあります。その平和への夢と希望を日本国内はもちろん、ひろく世界の人びとに 知っていただきたいと願っています。このことは沖縄のためというだけではありません。日本がこれからアジアの平和と繁栄に貢献する道は、沖縄の住民世論に 即したかたちで基地問題の解決をはかり、「基地の島」から平和を発信するその先にこそ、ひらけてくると確信いたします。
鹿野政直 戸邉秀明 冨山一郎 森 宣雄
付記 私たちの立場、声明発表の経緯、これからについて
歴史認識は社会のものですから、それぞれの暮らしや、さまざまなつどいの場で話し合われることこそ、その公正さにとってもっとも肝要なのだと考えています。私たちが、ただの研究者仲間の4人という立場でこの声明を発表した理由もそこにあります。
私たちは、日本本土に暮らしながら沖縄と日本の戦後史について研究してきた人間です。歴史研究者は、社会の歴史認識を事実にもとづいた公正なもの にしていくことを主な職務の一つとしています。それゆえ、とりわけ今年に入ってから、日沖関係の歴史に対する日本本土社会の理解と関心の浅さをあてこむか たちで、政府が埋め立て工事の再開をさまざまに自己正当化しながら強行してきたことに対し、市民としてのみならず専門の研究者として、責任を感じるべき立 場にあることを痛切に感じてきました。
戦後沖縄と日本の歴史は、より少数の弱い立場のところに矛盾や負担を集中させる分断支配の構図のもとに進んできました。この歴史の上に立ち、安倍 政権は沖縄に対してもっとも正直に自らの政治姿勢を露わにしています。歴史を否認し、法の精神や行政ルールも省みず、警察権力と利益供与で力ずくの支配を 行なうというのがそれです。
沖縄の人びとの平和を求めるねばり強い取り組みがその本質をさらけ出させたともいえますが、露わにされた現実は、沖縄と本土、立場や専門などをこ えて、いまを生きる多くの人びとの意識を、未来への危機感と歴史の反省――なぜこんなことになったのか、この先どうなるのか――へと向かわせるものでし た。世論調査での政権運営に対する批判的意見の多さからも、こうした憂慮はうかがえます。
このような状況のなか、沖縄県内のみならず日本本土でも、多くの市民や団体、専門の研究者グループなどから抗議や連帯の意思を表わすさまざまな活 動がなされ、私たちもそれによって強く勇気づけられてきました。その上で、いま沖縄県と政府の間で法廷闘争が始められる局面を迎えています。この機会にあ たって、私たちは自分たちに何ができるか、何をなすべきか話し合いを重ねました。
思い至ったのは、無力さと責任を感じる(本土の沖縄戦後史研究者という)自分たちの立場を正面から受け止め、そこに立脚して声を発することが、結果はどうあれ必要なのではないかということです。
そこから歩みを始めるかたちで、憂慮する市民の方々や、すでに声明を発表されている各方面の研究者やジャーナリスト・作家のみなさんと、たがいの 知識や経験、思いを寄せ合い、沖縄に対する積年の差別の克服をめぐって連携しあうことができないか、提案したいと考え、この声明を発表するにいたりまし た。それを政治の力ずくのありように対して抵抗しうる、ひとつの(信頼を結びあう)思想的回路にしたいと望みます。
こうして日本本土の歴史と現在に向き合うことで、ようやく沖縄からの問いかけに応答することが可能になり、沖縄と日本本土の壁をこえて話し合う場が築けないか、呼びかけを返してゆくことができるのではないかと考えました。
この声明は菅官房長官・安倍政権の歴史認識に対し、専門の歴史研究者としての立場で私たち4人が抗議するとともに、市民の立場で、ひろく歴史認識 をめぐる話し合いと出会いの場づくりができないか、呼びかけるものです。この声明に賛同する方々の考えをたがいに知りあうことを可能にするため、参考まで に、オンライン署名サービス「Change.org」(チェンジ・ドット・オーグ)に本声明を掲載しました。次の短縮URLをインターネット検索サイトに 入力して、掲載ページにアクセスし「賛同」をクリックすると、コメントを寄せていただくことが可能になります。
私たち4人にこれから何ができるかは、寄せられたコメントも参考にしながら適切な方法を検討し、「Change.org」の本声明ページ、および同志社大学〈奄美-沖縄-琉球〉研究センターのホームページなどで公表していきたいと思います。