火曜会

火曜会は、言葉が帯びる身体性を押し隠すのではなく、それを多焦点的に押し広げることこそが研究行為ではないか考えています。また研究分野の境界は、分野の前提を再度議論する中で、連結器になるとも考えています。

論文についてー「火曜会」という構想(1)

「火曜会」という場にかかわる文章を、これから掲載していきます。

これまで書いたもの、新たに書くものなど、さまざまです。

これらを「『火曜会』という構想」というシリーズとしてまとめていきます。

最初は、中島梓さんの「あなたへの手紙」という文章がとても気に入り、その文章をまねながら、論文ついて少し前に書いたものです。

いわば全くの模写です。ただ中島さんの文章は、「論文」についてではなく、「やおい小説」についてです。

 

論文について-中島梓「あなたへの手紙」に倣って―

2012/04/10

冨山一郎

 

 

一般に論文を指導するということは、「どういう論文が正しい」「こう書くべきである」とリードしてゆくということです。それをするためにはそれをする人の中に、「論文の理想像」というべきものがなくてはならないでしょう。しかし、私の中にはそういうものはありません。最初ですから思い切っていってしまいますが、文章を書くという事に関して私には、基本的に「こうあるべきである」という考えがありません。もしそのような考えがむくむくと起こってきたら、それを極力排除するように気をつけています。

しかし文章に出会って、「こうあってはいけない」「こうあったら困る」ということはあります。しかし出会う前に、先に「かくあるべきである」という考えを持つことは非常に人の思考を限定します。それは危険なことだとも思う。非常に下手糞だけれどもきわめてエキサイティングな論文もあれば、大変上手だし形式も素晴らしいけれどもまったくおもろくない論文もあります。私には「これはいけない」「これは素晴らしい」「これは面白い」ということは言えるけれども、それはあくまでも個々の作品ひとつひとつに添いながらでてくる上でのことで、論文という世界の頂点を極める「理想の論文」というものは、私にはありません。またもし「理想の論文」というものが登場してきたとしたら、それ以降あるいはそれ以外の論文というのはすべて序列化され、ある意味で存在意義を失うということになる。また私にとっては、そういう事態というのはあってはならないのです。最高に素晴らしい食事をしたからもう二度とまずいものは食べられない、だから一生食事をしないでおこう、というのとそれは同じことになってしまう。あるいは美味しいフレンチを食べたからといって、中華料理が嫌いになるわけでもありません。個々の食事に対しては、きわめて具体的にそして生き生きと、「これは美味しい」「これは不味い」あるいは「こうすればよい」ということはいえます。しかしそれはピラミッド型の順列を形成するわけではないのです。

だから私は、いわゆる理想を知るものが行う指導ということはしたくないと思ってきました。ただこの数十年間、多くの査読や論文指導で私が感じていたのは、寄せられた論文を私が読んでいるうちに、私という、論文を読む上ではまったくある意味で自我のない存在が鏡となっていって、そこに寄せられた論文を作者が書かなくてはならなかった必然、その内面、その深いこだわりといったものが、すべてまざまざと怖いように浮かび上がってくる、ということの恐ろしさでした。ですから論文というのがどういうものであるのかということについて、むしろ私は指導をやっていて私自身のほうが学んでいたように思います。これほどにじっさい、論文というのが、精神医療でいう転移あるいはフロイトが晩年に考えた分析の関係生成的な役割をはたすとは思わなかった。またこうした他者の論文と出会う事態に驚くと同時に、「ということは、私の論文というものもまさしくそれなのだな」という一種の恐怖感を覚えたこともあります。自分の本を半年かけて研究会での議論の対象にした時がそうでした。そこには、書いている時でさえ気づかなかった自分がいたのです。

論文をかくというのはその当人の内面の希求、欲求、傷、暗黒、人柄から現在の状態まですべてが明らかに、顕在化していってしまう行為なのだということ。これは論文指導を続けていくにつれて恐ろしいまでに、まざまざとしてきた事実でした。書き手の書き手自身さえも知らなかった姿が、その作品を通じて異常なまでにまざまざとたちあらわれる。そのような事態に出会ってしまったということも恐ろしかったし、またそれが論文というかたちで浄化されたりたちのぼっていったり、あるいはかえって深刻化したり、転移してゆくさまもよくわかりました。

いずれにせよ、そうやって一種の精神分析的実践のように論文指導がなってゆくのを私は戸惑いながら、結構感動しています。そして今考えているのは、こうした実践がどこに向かうのかということです。そこで多分重要なことは、この実践を何かに使うことはこれまでしなかったということです。すなわちそれは、合目的な組織化といったことです。ただそのようにできうることは、よくわかっていました。そしてこうした何ものかになりうる可能性を、たえず論文をめぐる議論の場に閉じ込めておこうとしたのです。そうするとそのような場の力にひかれるようにして、たくさんの人たちがあつまり、作品を寄せ、その作品が持つ力によってさらに場ができていく。この場の生成は、合目的な組織化とは違います。今考えているのは、合目的な集団ではなく、こうした多焦点的に拡張してく展開です。

論文指導は、結局のところこうした場そのもののパワーだったのだ、と思います。それはアナーキズムだったのかもしれません。極楽とんぼの「相互の合意」だとかうわべのコミュニケーションの上の関係では、推し量ることのできない魅力やこだわりこそ、場そのもの力の近傍にあるように思います。論文を書き、読み、討議するというプロセスにおいて確保したいのはこうした力です。(中島梓『新版・小説道場 4』の最終章「最終回・あなたへの手紙」の模写と横領)