火曜会

火曜会は、言葉が帯びる身体性を押し隠すのではなく、それを多焦点的に押し広げることこそが研究行為ではないか考えています。また研究分野の境界は、分野の前提を再度議論する中で、連結器になるとも考えています。

ポピュラーカルチャー研究宣言ー「火曜会」という構想(3)

ポピュラーカルチャー研究宣言

2008/5/16

冨山一郎

 

0「研究報告会」(2008年4月5日)

ポピュラーカルチャー研究を、ポピュラーカルチャーとよばれる対象の研究といってしまう前に、またコンフリクトをあらかじめ構造化された集団間の対立と決めてしまう前に、また横断をあらかじめ決められた境界をただ超えることだと規定してしまう前に、考えておきたいことがありました。またそれは、国境を越えれば越境だとか、ジェンダーを超えればフリーだとか、紛争があるからコンフリクトだとかという同義反復的思考停止を、先日4月5日の「研究報告会」で感じてしまったからでもあります。またさらにいうなら、極めて雑多なわたしたちの集団においてこそ行なえることを、明示化しておく必要性もあります。雑多のままであり続ける集団性において、とりあえず研究プロジェクトという目的意識性をどのように想定していくのかということが、私たち自身の組織論として考えたかったのです。私たちのグループには、乱暴にいえば運動と研究という二つの軸があります。ポピュラーカルチャーとは研究対象である前にこの二つの軸の間を漂う複数の関係性の束のように思えるのです。だからこそこの二つの軸のそれぞれがすぐさまその間を飛び越えようとすることではなく、違いを徹底しながらそれぞれが融解し始める事態において関係を発見することが重要であるように思うのです。安易な運動化や研究化で両者を重ねる作法は、運動自身あるいは研究自身への問いを曇らせるでしょう。以下、今年の3月8日に行なわれたワーク・ショップならびに翌日のドキュメンタリー映画『地下広場』をめぐる研究会に触れながら、私の個人的意見と方向性を記します。

 

Ⅰポピュラリティ<と>研究

当初から抱いてきたことは、ポピュラーカルチャーにおいて研究と社会運動の関係は、どのように想定できるのかという疑問だ。もちろん研究対象としてのポピュラーカルチャーと、運動の政治表現あるいは運動の道具としての表現としてのポピュラーカルチャーということが、とりあえずいえるのだが、研究としての対象化と道具としての対象化のどちらからもはみだすところに、ポピュラーカルチャーのポピュラリティがあるのではないかと思う。また逆にいいかえれば、ポピュラリティを運動として使いこなすには研究が必要になり、研究することが新たな運動を生み出す近傍にあるということもいえるかもしれない。

田中東子さんのファン、真鍋昌賢さんの聴衆、吉村和真さんの読者、どの領域の人間の存在形態も、目的意識性や構造化された集団におさまることなく、集団間の境界を身体的にまた無意識的に横断してしまう。目的識的政治性を帯びたフェミニズムからの距離が新たなフェミニズムになったり、セレモニーを執り行わんとする時に芸に引かれて不意に「まねかざる客」が強烈な正当儀式への批判になったり、いつ覚えたかわからないマンガの読みを教育的に指導しようとした時の失敗であったりするこの領域の極めて厄介な人間の存在形態。

そしてこうした存在形態がフェミニズムや翼賛文化運動や差別表現の流布といった政治性を帯びる時、その政治を批判したり、その政治の拡張をおしすすめたりする目的意識性的行為を、そこにどのように接合させていけばよいのか。たとえば、マンガの影響力をマンガ研究は掌握できるのか。あるいは、コスプレ・パーティに潜む強烈な社会への批判力をこれまでのフェミニズムは理解していたか。偽者を享受するものたちの快楽を、芸能史は描いてきたか。それはワーク・ショップ翌日のドキュメンタリー「地下広場」にもかかわる。歌が機動隊との対峙の中で政治化していくように見えるとき、歌がやはり貧しくなっていったのではないか。また歌が政治を裏切る時、あるいは政治が歌を占有する時、その瞬間に研究なる行為はどのような意味を見出すのか。

ポピュラリティにおける研究と運動は、ともにこのとらえどころのない人々の身体や存在形態を手中に収めようと試みる点において、極めて近傍にあり、また気がつけば対立も含めて共闘しているのではないか。そしてこうした共闘の磁場の中にこそ、ポピュラーカルチャー研究の系譜があるのであり、もし私たちがポピュラーカルチャーを研究すると標榜するなら、この系譜を明示化し、その中に自分たちの行為を批判的に意味づけていく必要があるのではないか。いわゆる、研究史ということだ。

こうした学の系譜は既存の学のなかにあるだろう。いわば無意識や身体性を記述しようとした精神分析学的あるいは人類学的な系譜にはとくにそうだ。またその集団性はファシズムや全体主義にかかわる群集論にもかかわるだろう。こうした系譜に目配りをすることも必要である。だが同時に、学の系譜としては放り出されたものや亜流とされたものを再評価していくことも必要だろう。鶴見俊輔が音楽や演劇マンガ紙芝居に関わる1950年代のサークル運動にかかわってのべた「つつみこみ学風」なんかもその一つだ。そしてやはりこうした学は、運動の近傍にある。前衛組織からはみでるポピュラーカルチャーを何とか手中に収めんとする時、既存の政治のヘゲモニーの拡張と新しい運動の始まりが開始されるのであり、「つつみこみ学風」とはそんな磁場の中にある。あるいはパリ5月革命の時のF・ガタリらの集団性への注視が機械という概念を生み出したように、あるいは普遍主義的政治とアイデンティティポリティクスの間にあってダナ・ハラウェイが状況的知ということを主張したように、あるいはベル・フックスが教室の場を討議空間として政治化したように、また反グローバリズムの中でとりあえず居合わせてしまった多様な政治の坩堝から何かを始めようとしたときに、D・グレーバーが、「完璧な分析」や政治綱領にはなりえない、とりあえず自分たちの日常を描き直すための学知の重要性を見出したように、きちんとした学からは亜流と見なされる領域への批判的検討が、私たちには必要である。

 

Ⅱ目的意識性とポピュラリティ

こうしたことを考える格好の事例を、鳥山淳さんと成定洋子さんは提示してくれた。沖縄における歴史研究は、そのまままるごと沖縄における社会運動の渦中に間違いなくある。だがそれは目的意識性に収まらない領域においてこそ重要だ。すなわち、沖縄戦の教科書記述をめぐる裁判闘争において真実性を担う大学の近代史研究の意義ではなく、研究活動が沖縄戦における感情記憶の生成と密接に連関してしまっているという点こそ重要なのだ。鳥山さんが提示された非正規の研究者によって行われてきた沖縄戦の聞き取り作業こそ、集団的な感情記憶の生成と密接にかかわっているのである。その生成は、史実の正しさや、正しい教科書作りに還元されないポピュラリティを持つ。またこの感情記憶と研究活動の関係は目的意識的には定義できない。鳥山氏自身がユニオンの書記長として関与している非正規雇用研究者の問題は、労働問題であると同時にたとえば昨年9月29日の沖縄戦の教科書記述をめぐる12万人県民集会とは何かという問いでもある。また労働問題だというときも、研究活動が期せずして引き受けてしまった感情記憶にかかわる感情労働を、どう評価するのかという問題もうかびあがるのだ。

同じことは成定氏の報告にもいえる。沖縄における男女共同参画という目的意識的な文化政策において広範に存在する感情労働が、いかに住民のジェンダー・コンシャスネスをめぐるポピュラリティと関わっているのか、そしてそのかかわりが感情労働にかかわるがゆえに、無償化されるという点が、そこでは指摘されたと思う。かかる点において、ポピュラリティとは、まさしくエンパワメントの政治の問題であり、文化政策の軸である。そして現在の福祉国家の後退、解体の中で、このポピュラリティは個人の自発性へと放置され、またポピュラリティに関わる感情労働は、切り捨てられ無償化されてきている。

そこには二つの論点が見えるだろう。ひとつはなぜ運動の近傍にある研究が正当な系譜からこぼれ落ちてしまうのかという問題であり、そこには明かにかかる感情労働としての研究労働が賃金労働として評価されない、すなわちそんなことを重視していては食えないということが間違いなくある。あえていえば、研究の遂行的側面は研究成果として評価されないということに他ならない。これは研究という就業構造を牛耳っている大学の問題である。そして第二に、目的意識的なエンパワメントが後退する中で、目的意識的な政治に還元できないポピュラリティがうかびあがり、流れ出すのであり、この目的意識性において想定される政治のコンフリクトにおいて想定されていたエンパワメントを別物に置き換え、新たに政治化するという作業がそこには課題として浮かびあがるだろう。たとえば12万人は何の政治なのか。それは教科書検定や裁判において掌握される者ではないだろう。また具体的に文化政策の後退の中でそれを肩代わりさせられるNPOやNGOは、こうした置き換えや新たな政治の発見を担う可能性に満ちているともいえる。こうした研究に賃金を!そして新たな政治を!これがスローガンになるのではないか。

 

Ⅲそして大学

そしてわたしたちの集まりは、とりあえず大学の中にある。なにをなすべきか。金友子さんの<スユ+ノモ>の報告は、まさしく感情労働としての研究行為を、そして研究の遂行的側面を、最大限評価する研究形態の追求である。研究において人は集団をつくり、社会をつくる。こうした知の遂行的に関係を生み出す力をきちんと確保し評価する場が、韓国ソウルに生まれたのだ。そこでは研究と運動は本当に近傍にある。彼ら/彼女らは反FTAの数週間におよぶ長距離デモの行進の中で、研究会を遂行し、滞在した住民との関係をつむいでいたのだ。そしてこうした可能性を確保しなければならないからこそ、まさしく久保田美生さんの報告で具体的に指摘されたように、学内と学外の権威化された分業体制が問題なのだ。それはあるべき可能性をあらかじめ回避すると同時に、うまれつつある新たな展開を再度埋葬することになる。また逆にいえば、権威化された普遍的な大学の知に現場の知識を対峙させるだけでは、圧倒的に不十分なのだ。久保田さんが学知の持っている権威性を問題にする時、そこではまさしく大学の学知と大学内の研究労働の設定において権威という問題が提示されているのであり、かかる焦点からはじまる新しい関係性をどのように構築していくのかということこそが重要なのだろう。かかる点で<スユ+ノモ>は一つの提示ではあっても、学外に同じ施設をつくっていけばよいということではないのだろう。

社会の現象を簡単に対象化し、普遍的に語れると思い込み、普遍において整理された学知を占有してきた大学。文教行政という文化政策後退の中で、この占有集団を維持するために感情労働を非正規化し無償化し外部化し下請け化する大学。それはまた運動の近傍にある学の系譜を亜流化させてきた大学でもあるだろう。かかる中で登場する自己責任という個人の自発性へのごまかしと、大学内の階層化の進展。そしてこの階層間コンフリクトは、目的意識的に戦われると同時にあきらかに別の政治への好機なのではないか。そしてその好機は、たんなる労働運動の始まりだけではない。この好機において、学はすなわちポピュラーカルチャー研究は、生まれる。

またこうした好機を好機として確保することを考える際、研究行為の関係を生み出す遂行的な側面が一つ重要になる。田中東子さんの報告にもあったように、研究者自身がコスプレを纏い、文化の生産に関与していくとき、正しい研究ということではなく、研究者自身のこだわりや欲望こそが、研究対象との遂行的な関係性を継続的に生成させていくことになる。私たちは研究に徹底的にこだわりながら、それが生み出す関係性にもっと敏感になってもいい。それは行為の萎縮ではなく、自らの欲望の解放の方向としてある。そしてそのときの研究なる行為は、整理された学問分野や理屈における単純一致において統合されることはないだろう。またこうした理屈における統合ではない、欲望にかかわる身体的で無意識的な関係性を大切にしようとする時、吉村和真さんの報告の中で最後に述べられた「関係を割る」ということが、きわめて、きわめて、重要であると思う。頭の中だけでは決して一致しないということは、頭の世界における違いを、体をはってキッチリと提示することでもある。決して安易に同意しない、が議論を続けるという関係性に身をおきつづけること。この身振りこそ、研究の遂行的な側面を具体的に維持する術であり、好機を好機として確保するコツなのではないか。そしてそれはすでに、私たちのものである。ポピュラーカルチャー研究宣言。