火曜会

火曜会は、言葉が帯びる身体性を押し隠すのではなく、それを多焦点的に押し広げることこそが研究行為ではないか考えています。また研究分野の境界は、分野の前提を再度議論する中で、連結器になるとも考えています。

共同作業としての日本研究ー「火曜会」という構想(4)

ハノイ国家大学人文社会科学大学講義

第三回 日本研究の現在―共同作業としての日本研究

2010/5/31

冨山一郎

 

 

 

Ⅰはじめに

大阪大学の日本学が、大学院と学部の教育機関として設立されたのは、1986年である。翌年には、京都に国際日本文化研究センターが設立されている。設立時の経緯については、当時日本の国際化ということがさかんに語られ、こうした中で半ば政策的に強引なかたちで、大阪大学に日本学、そして京都に同センターが作られた。こうしたやり方に対し、反発も多かった。また日本の国際化に、かつての植民地支配の忘却、あらたなナショナリズムの構築を見る議論もおこった。この点は、以下に述べる内容とも関連する。

だが、すくなくとも大阪大学の日本学に関しては、設立時の趣旨にまったく縛られることなく、それぞれの教員の考えの中でこれまで展開してきた。現在、私を含めて7名の教員と学部生62名、大学院生45名の大所帯である。以下、私自身の日本学での教育・研究に関わる経験のもとづいて、日本研究が現在かかえる課題や問題点について述べたいと思う。この小論は、あくまでも私自身の考えであり、またかなり乱暴な問題提起のかたちを取っている。議論のきっかけになれば、嬉しい。

まず別紙は、近年の日本学における卒業論文、修士論文ならびに博士論文の題目である。テーマは多岐にわたっている。とりわけ、アニメ、ドラマ、映画、音楽などのポピュラーカルチャーと呼ばれる領域、あるいは若者の失業問題や若者文化(youth culture)、現代社会問題、セクシュアリティやマイノリティーに関わるテーマなどが目に付く。このテーマ群からとりあえずいえることは、学生、院生たちは日本研究というより、自らの生きている場所から課題を発見し、考えているということだ。自分や自分たちを形作っている、制度や文化、あるいは歴史的系譜を検討しようとしているのだ。またこれらの課題は、研究史が検討されたうえで、研究上の意義から導かれているのではない。私は何者なのか、私たちは何者なのか、何を欲しているのかという問いこそが出発点として重要なのである。

いまこうしたテーマ群の背後にある、内省的、課題発見的な問題設定のやりかたに注目しておきたい。結論を先取りしていえば、こうした問題設定は、これまでの「私たち」、すなわち「日本」や「日本人」を、批判的に検討する作業を生み出すだろう。

またこのテーマ群の中で、いまひとつ注目すべきは、在日朝鮮人、あるいは沖縄といった場所や人々に関わるテーマや日本の植民地支配にかかわるテーマである。あるいは歴史というより記憶というべき問題設定がある。これらのテーマは、以下に述べるように、日本研究をめぐる制度的な枠組みに関わる論点を提示しているのであり、この点についてまずは考えよう。

 

Ⅱ日本研究の系譜

何が日本研究の対象となり、何がそうでないのか。こうした日本研究における日本という枠組みをめぐる議論は、決して自明ではない。とりわけ現在の人文学における日本史や日本文学といった枠組みは、戦後、1950年代における国民的歴史学や国民文学をめぐる論争の中で形成されたという経緯がある。この時期の「国民的歴史学運動」、「国民文学論」、「昭和史論争」などは、こうした経緯をあらわしており、そこで登場した国民という表現には、戦争と侵略を担った帝国日本からの脱却の意味がこめられている。侵略を担った日本ではなく、民主化された日本を象徴する国民。だがそこには、ある種の性急さ、あるいは責任の忘却が含まれている。侵略戦争のさなか、熱狂的に戦争を支持した知識人が、今度は平和を愛する国民を唱え、民主化を主張するなかで、戦争体験や侵略戦争に対する責任は、むしろ人文学の淵、あるいは外へと追いやられていく。国民としての歴史、国民としての文学の成立と、植民地支配や侵略、あるいは戦争に関わる体験の忘却は、複雑に絡まりあいながら展開したのである。とりわけ植民地支配に関わる加害、被害の体験は、内省的に検討されることなく、大学における人文学以外の領域へと追いやられていったといえる。また、同時期に展開した「サークル運動」などの在野の研究活動は、こうした視角において検討されなければならないだろう。いま日本研究というとき、こうした日本研究に入り込んでいる戦後日本の系譜を問う必要があるのであり、それはとりもなおさず、誰が国民なのかという問題でもある。

いまひとつ日本研究に関わる系譜がある。それは日本史や日本文学という名称ではなく、日本研究(Japanese Studies)にかかわることである。この名称には、米国で始まった地域研究(Area Studies)の系譜が入り込んでいる。すなわち第二次大戦末期、アメリカ陸軍省は戦後秩序を担う知識の収集と体系化のために人類学者を中心としたグループを組織し、固有な文化を一つの単位として各地域の情報を総合化する地域研究を作り上げる。この地域研究は、そのまま「穏健な民族主義」(M.Shcaller)と接合した戦後米国の、世界へのヘゲモニーの形成と密接にかかわっていくのだ。日本研究も、こうした地域研究のひとつとして開始されたのである。

こうした二つの系譜に注目するならば、とりあえず次のように整理できるかもしれない。すなわち一つは、自らの国民の歴史や文化を構成し、主張しようとするもので、これは戦後の国民的歴史学運動などに典型的に見られる。またそこには、侵略を担った日本からの性急なる脱却とその記憶の忘却が含まれている。今一つは、他者の歴史や文化を描き出すものである。これは戦後における米国の世界戦略と密接に関連したもので、地域研究がこれに該当する。戦後という時間の始まりの中で、自己のこととして、平和な日本を都合よく描き直そうとするものと、他者のこととして日本を発見し、世界戦略の中で描こうとするものが登場したのだ。すべてではないが、現在の日本研究を大きなところで規定している枠組みは、この二つの系譜にあると考える。またこうした系譜は、多くの場合明示的に語られることなく、研究の客観性という名のもとに隠されているようだ。わたしは、日本史の研究者と米国の日本研究者が同席する場にたびたび立ち会っているが、そこで地域研究の日本研究者からの指摘に対する日本史研究者の、「日本語も満足に読めない連中にわかるわけがない」というナショナリスティックな対応に出会ったことがたびたびある。また地域研究者のもつアジアへの人種的偏見が不意に露呈することもある。二つの系譜は、偏狭なナショナリストと「オリエンタリズム」(E・サイード)の心情に、密接に関係があるようだ。

重要なことは、こうした自己と他者に区分された研究の中で何が消去されていったのかということだ。そこにこそ、私が考える日本学のめざすべき方向性がある。またさらにいえば、現在日本研究を担っている諸機関は、米国だけに存在するのではない。ヨーロッパやアジアのさまざまな場所で日本研究が展開している。こうした日本研究を考える時、そこに流れ込んでいる系譜を批判的に検討する必要があり、その大きなポイントが、この自己と他者の区分であると考える。

 

Ⅲ植民地主義と沖縄研究

この区分により消されていった一つに、日本における植民地支配の問題がある。繰り返しになるが、戦後の民主化された国民の創造の中で、植民地支配に関わる歴史と記憶そして責任は、1945年において終止符が打たれたものとして戦後という時間から切り離された。植民地支配や戦争の研究は、戦前の研究とされ、また植民地として支配した場所の戦後における同時代的な歴史は、外国史として切り離されたのである。戦後という時間における国民の中での植民地支配の消去が、そこにはあるだろう。今一つは、植民地支配の歴史にむきあうことなく、自らの世界戦略の中で地域を構成していった地域研究である。地域研究の中では日本の植民地支配が言及されることはあるが、それはあくまでも戦後冷戦を担う米国の戦略にそったものとなり、したがって戦後始まる新たな帝国としての米国の植民地支配に対する一切の批判は封じられている。植民地支配の消去と新たな帝国の始まりが、問題にされなければならないのではないか。

こうした自己と他者の区分の中での消去が如実になされたのが、沖縄研究である。まずたとえば国民的歴史学運動に見られる自己像としての国民には、沖縄は入っていない。武力で併合され、沖縄県として近代を歩いてきた沖縄は、今度はまるで植民地であったかのように他者化されたといえるだろう。そして沖縄を舞台にして次にはじまったのは、地域研究としての沖縄研究である。先にも述べたように、第二次大戦末期、人類学者を中心とした地域研究が始まったが、沖縄に関しても沖縄は日本とは異なる独自な文化を持つ一つの単位として設定された。地域研究の中で沖縄研究は、日本研究から切り離されたのである。沖縄占領直前に米軍は「民事ハンドブック」を作成したが、そこには沖縄における歴史や文化の総合的知識が集積されている。沖縄研究は占領とともに始まったのである。また米国で学んだ戦後日本の地域研究を担う研究者も、この沖縄研究に参入していった。アジアやアフリカにおいて戦後展開する日本の地域研究者にとって、沖縄は「訓練場」とも呼ばれたのである。

そしてこうした沖縄研究の開始はとりもなおさず、あらたな米国による占領の開始でもある。その占領を正当化する範囲で、戦前期日本の沖縄に対する支配も検討され、そこでは沖縄の独自性、すなわち伊波が描いた「個性」が承認されている。しかしその「個性」が国家や主権的な制度に行き着くことは決してない。なぜなら前の講義で述べたように、潜在的な主権はあらかじめ日本にあるとみなされているからだ。沖縄はもっとも「穏健な民族主義」として、米国のヘゲモニーの中に組み込まれたのである。自己像と他者像が交わるところに国民国家を単位とする研究が、すなわち日本研究は始まるのだが、沖縄はその両者のはざまの中で都合よく切りとられ、また消去された。日本研究の方向性を考える時、こうした戦後という時間において消去された痕跡を、具体的に一つ一つ取り上げていく作業がきわめて重要であると考えている。そしてその際、重要なテーマは植民地主義に関わるものであり、たとえば沖縄に関わるものであろう。

こうした自己主張としての国民史と他者構成としての地域研究の構図は、乱暴にいってしまえば、かなり広範に存在する問題である。また他者構成を担うのは、米国の地域研究のみならず、それを内在化した日本における地域研究もそうだ。たとえばそれは、日本における東南アジア研究にも当てはまるのではないか。またそこに、米国の世界戦略と同居しながら、東南アジアに対して独自な展開を画策してきた日本の政策意図も隠されていると考える。

植民地主義や沖縄に関わる課題は、こうした自己と他者の枠組みを問い、植民地支配の消去と新たな帝国の始まりにもとづいた戦後という時間を、批判的に検討する作業である。次にこうした自己と他者という問題領域に密接にかかわる、具体的なテーマを列挙してみよう。

 

Ⅳ感情記憶

学的に承認された歴史の枠組みが上記のような消去や隠蔽を伴ってきたとするなら、消去され隠蔽されてきた領域は、とりあえず学の専門領域の外に追いやられている。そしてそれは、時には感情的な記憶として顔を出す。この感情記憶は、ただの個人的感情でもなければ、既存の学問に吸収してしまう問題でもない。この感情記憶に対しては、これまでの研究枠組みとは異なる、あらたな研究のかたちが模索されるべきではないか。

記憶の領域とは、多くの場合、言葉にすること自身がたえ難い苦痛であり、忘れることによってようやく生き延びることができるような出来事や、あるいは言葉として言及されるたびに、押さえがたい怒りが湧き上る事件に、深くかかわっている。占領や植民地主義に関連して、このような事件は数多く存在するだろう。そしてこうした個々の出来事や事件は、まずもってこうした苦痛や怒りの中で言葉を獲得する。情動と決して切りはすのことの出来ないこうした言葉の領域を前にして、歴史学はいかなる言葉をそこに重ねていくことが出来るのか。問われているのは、まずはこうした問題だ。

「東史郎裁判」とよばれているものがある。日本帝国の中国への侵略の中でおきた南京大虐殺をめぐる元軍人東史郎氏の日記の記述をめぐって、そこに事実に反する部分があるとういことで元上官が提訴し、2000年に日記の記述者である東史郎氏の敗訴が確定した。しかし同時にこの日記は日本軍の残虐行為を証言したものとして、中国では大きな共感をえた。中国で日本思想史を研究する孫歌は、この裁判について次のように述べている。ある事件が想起される際に湧き上る苦痛や怒りよりも、考証によって得られた客観的事実が正しい歴史であるという、「文献考証の考証に満足して、人々の感情記憶を完全に無視したり、果てには敵視したりする」ような、「このような歴史学の絶対的な合法性はどこからくるのだろうか?」。

これは、南京大虐殺に対する中国における人々の感情に対して、感情ではなく歴史的事実の検証が必要だと主張したある日本人歴史家の発言を受けて述べたものである。この感情記憶より客観的事実を語ることが、なぜ歴史学において優位に置かれるのか。結論的にいえば、記憶という設定が引き寄せる問題領域は、歴史学自身のあり方を根本的に変えるものになるのであり、優位を主張することによってこの変化を抑止しようとしているのではないだろうか。たとえば、同じく孫歌は溝口雄三との対談の中で、事実と真実を区別した上で次のように述べる。

 

「議論を必要とするのは、実は事実の客観性の問題ではなくて、事実はいったいどんな状況下で真実たりうるのか、どんな状況下で非真実になるのか、ということ。端的に言えば、議論を必要としているのは状況そのものだ、ということです」。

 

ここでは真実は、分析的に見出される普遍的、客観的真実ではなく、状況的な真実として主張されている。事実の真実性をこうした状況性に設定する彼女の議論は、もはや歴史学ではないといえるかもしれない。だが過去の出来事とされた対象が語りだされる今の状況性や、その状況に密接にかかわる感情を歴史学の外におきつづけることもありうるだろう。だがそこには、語りだした人の口を再度塞ごうとする学の傲慢さがあるのではないか。記憶という問題を設定することは、分析的真実より状況的真実に焦点をあてることであり、またこうした作業においてこそ、日本研究が前提としてきた国民という歴史とを批判的に検討し、歴史を考察することできると考える。

 

Ⅴ移動

次に移動という問題を考えよう。たとえば日本におけるベトナム人の人々である。日本の現代史研究、あるいは現代社会論の中で、ニューカマーと呼ばれるアジアからやってきた人々を対象にする研究が存在する。日本に在住するベトナム人の研究をここに入るだろう。しかし現在のところそれは、どこまでも日本の現代史であり、日本の中のアジア系移民、あるいはマイノリティー研究として論じられている。だがこうした人々の生きてきたプロセスを考えることは、日本と同時にベトナム近現代史が密接にかかわるのであり、またベトナム近現代史の中における日本の位置も問題にしなければならないだろう。またベトナムから移民という問題を考えた場合、米国、カナダ、フランスなどの地域への人の移動もあわせて、日本への移民が検討されなければならない。

またこうした移動にかかわることは、先の講義でも述べた蘇鉄地獄以降の沖縄をどのように考えるのかということとも関連する。講義で述べた「流民としての歴史」の中で、人々の生きる道筋は、決して地域に囲い込まれることなく、大阪、南洋群島にひろがり、また更に台湾、米国、南米にまで広がっている。こうした歴史は、定住先の場所に関わる地域研究においては、消去されるか、せいぜいのところ、国内のマイノリティーとして研究されることになる。逆いえば、「流民としての歴史」を研究するという営みは、こうした地域割りの研究枠組み自体を問題にしていくことでもあるのだ。

移動という問題は、このように国民国家単位に区分された従来の様々な研究分野を縫い合わせていく重要なテーマとなるだろう。更に移動は、国民の中に他者が入り込むとでもいうべき問題である。ナショナリストとしての国民史は、そこではオリエンタリズムと合体するかもしれない。したがって移動という問題は、たんなる地域の横断としてではなく、上述した自己と他者の横断と重なり合いながら検討されなければならないだろう。

 

Ⅵグローバリズム?

地域横断的で共時的な問題として、たとえば近代とは何かといった課題がある。近代は、決して一つの地理的な地域に限定されることではない。あるいはフェミニズムという問題設定にしても、同様である。さらには、これまで述べてきた地域研究という枠組みからもわかるように、個別の地域はそれらを覆う世界的に広がるヘゲモニーの登場でもある。グローバルに拡大するミリタリズムの問題も、決して地域にとどまるものではない。たとえば、沖縄における米軍の軍事基地は、日本と米国の軍事同盟と同時にアジア全体の米軍再編にかかわっており、さらには、基地が日常生活とどのような抑圧的関係を結ぶのかという点については、まさしく国境を越えた共時的な視野が必要である。また、近年の若者をめぐる不安定雇用の問題は、グローバルな資本の運動を動因としているのであり、決して一地域の問題ではない。歴史や文化に関わって存在するこうした地域横断的な共時的問題は、先に述べた自己と他者の横断を伴いながら展開してきた。それは、ある意味で従来の日本研究の枠組みを壊していく大きな力となっているといえる。

ここで、二つの方向があるように思う。一つはこうした横断性をグローバリズムととらえ、そこに含意されているグローバル・スタンダードを研究対象とする方向である。それはある意味で、全ての地域に当てはまる普遍的な理論体系をめざすことになるだろう。またこうしたグローバリゼーションに対して、地域の固有性とりわけ国民国家を単位とした地域研究は、再編を余儀なくされている。たとえば、アジア地域を研究する地域研究者を最も多く組織している国際学会であるAAS(Associaton for Asian Studies)の1996年の年次総会(シカゴ)においてもこの問題は、中心議題として取り上げられた。そこでは、地域の固有性を追求する地域研究が、普遍的な社会理論や経済学に代わりつつある現状が、危機感を持って討議された。地域横断的なグローバリズムは、統一基準を分析する普遍理論の拡大として登場しているのである。

だが他方でこうしたグローバル・スタンダードへの注目や普遍理論の構築は、最初に述べた自己と他者の区分にかかわる問題を曇らせることになる。すなわちこの区分により消去された領域は普遍理論により一気に議論されることになるのではない。初発に登場するのは、たとえば感情記憶であったり、ナショナリスティックな反発であったりするのであり、こうした領域にしっかりと向き合う中であらたな学知の可能性を模索する作業こそ、重要であると考えている。

たとえば、今日の若者の不安定雇用の問題に関して、現在日本の中では、プレカリウス(precarious)という不安定性を示す用語から派生した「プレカリアート」という表現が登場してきている。この不安定性は、「プレカリアート」という用語が日本以外の様々な地域でも登場していることからもわかるように、一方では確かにグローバルな現象である。だが、他方ではその不安定性は、それぞれの場において独自の形態や自己主張をとっている。とりわけ若者文化にかかわっていえば、次に述べるポピュラーカルチャーがきわめて重要になるだろう。また、たとえばインターネットを媒介にしながら高速で拡大するこうしたポピュラーカルチャーは、日本研究のありかたそのものを大きく変えようとしている。だがそれは、普遍的理論やグローバル・スタンダードにすぐさま向かうわけではない。

 

Ⅶポピュラーカルチャーという問題

最初にも述べたように、近年の学生や院生の研究テーマは、アニメ、ドラマ、映画、音楽などのポピュラーカルチャーと呼ばれる領域に集中してきている。こうした傾向を背景にして、私は、ポピュラーカルチャーを日本研究としてどのように受け止めるのかということを、いくつかの場で検討してきた。たとえば、日本学講座と社会学のコミュニケーション論やマンガ研究を担うメンバーで、2002年から5年間にわたって「イメージとしての<日本>」という研究プロジェクトを行ってきた。また現在、ほぼ同様のメンバーで「横断するポピュラーカルチャー」というプロジェクトを行っている。そこでの成果をふまえながら、以下に述べる。

「イメージとしての<日本>」では、二つの方向性が検討された。すなわちポピュラーカルチャーの分野においていかに「日本」的なるものが表現されているのか。そこには自己表象と他者表象という区分はとりあえず想定できるだろう。だがたとえば、よく引き合いに出されるハリウッド映画の「ブレードランナー」や、あるいは日本アニメの「攻殻機動隊」などが描く「日本的」なる風景は、近未来やハイテク技術の中で表現されるどこにもない日本であり、こうした日本イメージがポピュラーカルチャーとして、これまでの自己像や他者像を横断しながら拡大している。

今ひとつの方向性は、こうした拡大する日本イメージを受容する論理である。日本のポピュラーカルチャーとされるものが、海外においてどのように受容されているのか。たとえばフランスにおける日本アニメの受容は、いくつかの傾向があり、そこには若者のアメリカへの反発、移民たちのフランスへの反発が複雑にいりこんでいる。

こうしたポピュラーカルチャーがこれまでの自己像や他者像を変容、解体させながらひろがっているといえるが、さらにある意味厄介な問題は、イメージという問題である。今ここで詳述することは避けるが、イメージは人々の無意識の淵にある欲望に直接連動し、自分たちは何を欲しているのか、自分たちは何者なのかという問に働きかける。こうしたイメージをアカデミアの分析的な知でどのように表現するのかという問題は、感情記憶にかかわる歴史学と同じ論点を含むだろう。またイメージと共に噴出す感情を別の言葉で表現し直していく作業は、大学の外の在野の研究者によってこれまで担われ、大学の研究組織とは異なるネットワーク型の組織形態を形成してきた。たとえば、大衆文化を扱った「思想の科学研究会」や「現代風俗研究会」などが存在する。ポピュラーカルチャーを研究対象とする時、こうした大学の外に存在する研究領域を研究の系譜として受け止める必要がある。

またこうしたポピュラーカルチャーは、上述した感情記憶という問題とも関わっている。これまで歴史学において承認されてこなかった感情記憶がこうした漫画や映画などを媒介にして政治的に登場することがあるのであり、たとえば日本の場合、侵略戦争における加害の経験が漫画と結びつき植民地支配を肯定的に受け止める新たなナショナリズムを生み出している。小林よしのりの漫画はその一つの典型だろう。

また同様の問題は、近年のカルチュラル・スタディーズとよばれる研究領域においても極めて明確に現れている。この研究分野は単なる分野ではない。1993年ハワイの東西センターで「Internationalizing Cultural Studies」という国際会議が開かれ、その後、各地で同様の会議や研究団体が形成されていくが、たとえばアジアにおいてはInter-Asia Cultural Studies Conferenceという形で、台北、東京、ソウル、上海などでこれまで会議やコンファレンスが開かれ、その合間には頻繁に研究会が行なわれている。こうした研究活動には、研究テーマだけではなく、新しい研究組織を自覚的に検討するという目的意識が一貫して存在しており、そこではネットワーク型の研究組織が追及されている。

またこうしたネットワーク型研究組織は、当該社会の社会運動における文化表現の形式とも深く関連している。すなわちカルチュラル・スタディーズとよばれる研究領域の一つの側面として重要な点は、それがマイノリティーや上述した若者文化における表現運動と密接に関わっているということである。とりわけ、東アジアにおけるカルチュラル・スタディーズの浸透・拡大は、80年代をへて90年代に一気に登場した社会運動が国家の境界を超えた文化表現を獲得していくプロセスでもあった。統一の運動方針や既存の政治団体の綱領にかわり、文化表現がある種のゆるやかな連帯をつくりあげていく動きが、そこにはあるだろう。

このようなポピュラーカルチャーをめぐる研究の形態あるいはテーマは、日本研究の外にあるのだろうか。人によってはこのような研究や系譜は、研究や研究史とはみなさないかもしれない。また漫画を研究することなど思いも及ばないかもしれない。しかし私は、そこに可能性と必要性を感じている。

 

Ⅷ共同作業としての日本研究

以上のことから見えてくるのは、研究テーマと同時に研究の形態の問題である。感情、記憶、移動、移民、近代、フェミニズム、グローバルミリタリズム、資本と労働、若者文化、ポピュラーカルチャー・・・。今述べた中でも多くのテーマが含まれている。と同時にそこでは、これまでの自国の国民史でもなければ地域研究でもない日本研究が求められているのではないか。また研究形態として、対話型知性、あるいは課題牽引型研究を担うネットワーク型の組織が求められているのではないだろうか。

大阪大学の日本学のスタッフは、従来の研究分野で言えば歴史学、民俗学、宗教学、思想史、文学などに分類される。しかし最初に示した学生・院生の研究テーマを見てもわかるように、課題に牽引されるかたちで諸学問分野が具体的に融合し、総合されるという点である。またそのためには、課題に含まれる問題意識や経験、あるいは感情的な思いと、研究の方法がぶつかり合いながら、ゆっくりと展開し、課題に応じてフレキシブルに構成されるような、息の長い討議空間が必要となる。困難な作業ではあるが、こうした研究形態こそ、研究テーマと共に、日本研究の一つのあり方なのではないか。

またそこでは、日本人だからとか、たとえばベトナム人だからとかということではなく、とりあえず課題の前で自分が何を考えるのか、何を感じているのか、どのような自分の経験と触れ合うのかということこそが重要なのであり、繰り返し述べたように、重要なのはあらかじめ決められた自己と他者の区分ではない。ベトナムにおける日本研究の姿は、個々の課題にベトナムという場に関わる経験や思いが問題意識としてしっかりと確保され、研究方法をフレキシブルに構成していく中で、おのずと生成するのではないかと思う。またそのためにも、課題をどのように発見するのかということが重要になるだろう。