火曜会

火曜会は、言葉が帯びる身体性を押し隠すのではなく、それを多焦点的に押し広げることこそが研究行為ではないか考えています。また研究分野の境界は、分野の前提を再度議論する中で、連結器になるとも考えています。

接続せよ!研究機械ー「火曜会」という構想(5)

 

接続せよ!研究機械―研究アクティヴィズムのために

(『インパクション』153号 2006年)                                                        冨山一郎

 

Ⅰ研究機械

研究会と呼ばれている活動で生じていることは、何かしらのテーマにかかわる正しい解説を手に入れたり、参加者個人の知識量を蓄積したりすることというよりも、討議することによりその場で新たな関係が生み出され、その関係が空間を生み、制度を批判していくといった生成的な展開なのではないか。これまで会話もしたこともない者同士が、限られた時間であったとしても言葉を交わすことが出来るということ自身(それは合意することではない)、じつはとてもすばらしいことなのではないか。それは研究課題や研究成果といった文脈からはなかなか見えてこない、討議空間を生み出す力とでもいうべき研究会の側面であり、その空間は物理的な場所というより、限定された時間の中で生まれる一過性の空間や、あるいは同時に複数生じるようなものではないだろうか。研究会とは、人に声をかけ、関係を見出し、議論の為の場所を確保する様々な行為も含めて存在しているのであり、こうした空間を作るという活動の側面を強調することは、研究会に演劇性やパフォーマンスのような意味を見出すことかもしれない。あるいは演劇的な行為も含めて研究会を構想することかもしれない。そしてこうした側面の可能性は、研究という文脈においては、どちらかというと軽視されてきた。

こうした軽視は、知識の獲得を「社会のニーズ」の名のもとに自らを高く売るためのスキルアップに純化させてしまった、いや正確に言えば、スキルアップにさえなりえていないのに自己実現の幻想をふりまいている、後述するような現在の大学をめぐる状況とも重なるだろう。個人のスキルアップと紙一重にある知識量の競いあいではなく、討議の瞬間に生じた関係性に焦点を移してみよう。そして研究なる言葉を大学という制度から引き離そう。たとえば本号の中で「フリーターの社会学者」である渡邊太さんが、「社会学がコミュニケーション・ツールとして使える」というとき、そこには、いつ訪れるかわからない未来のためのスキルアップや学的成果からその場における関係性の生成への、決定的な転回が含意されている。

あるいはこうした転回は、私たちの生きる未来を議論するということにもかかわる。正しい状況の分析と目指すべき未来像の確定。それは運動的にいえば情勢分析と戦略にかかわることなのだが、後述するように渡邊さんのいう「ツール」という道具的な転回は、研究会をより戦術的領域に設定し、情勢分析から演繹される戦術とは異なる運動形態を促すだろう。本号において、活動家、編集者、不安定労働者という雑多な人たちによる「ベーシック・インカム研究会」の実践について報告した堅田香緒里さんは、ベーシック・インカムが目指すよりラディカルな平等と複数性が、ベーシック・インカムをめぐる討議の場において先取りされていくことを指摘している。望むべき未来を討議することが、その未来を呼び込んでくるような実践でもあるとしたら、それは運動形態の問題でもあるだろう。またさらにそれは、ベーシック・インカムという未来にかかわる個々人が抱く不安や欲望が、討議という空間において社会化されていくことでもあるだろう。いわば研究会は、自分たちが何者であるかを問い、自らの生きるべき場所はどこにあるかを模索し、それを言葉にし、生きるべき未来をその場において作り上げていく実践なのだ。

様々な内容を持つ言葉として流通しているカルチュラル・スタディーズも、私にとってはこうした自らの生きる場所を見出し、状況を切り開いていくような活動としてある。私が台湾で出会ったカルチュラル・スタディーズと称されていた動きは、研究テーマとしての文化を示す用語ではなかった。それは1987年の戒厳令解除に象徴される民主化の中で、自分たちが何を求めていたのかを内省し、それを表現していく作業だったと思う。すなわちそれは、フェミニズムや性的マイノリティの運動からセックスワーカーたちの運動、台湾先住民運動などが一挙に顕在化し、入り乱れながら、自たちが何者で、いかなる欲望を持ち、いかなる場を求めているのかを言葉していく実践であったように思う。あえていえばそれは、民主化を戒厳令解除や政党政治といった制度的文脈において収拾させない為の雑多な活動なのであり、友人の陳光興につれられて参加したセックスワーカーとその支援者たちの討議の場は、いわば労働学校のような雰囲気だったことを覚えている。研究といえば、テーマとか、どのような研究分野かといった問いがすぐさま出てくるが、この台湾で出会ったカルチュラル・ステディーズは、研究テーマや研究成果の問題というより、状況を生み出す集団的な行為としてあった。

本号に収録した若者三人による鼎談の最後に、金友子(きむうぢゃ)さんがやや唐突に、「勉強すればみんな左翼なると思っていた」と発言した時、のけぞるとともにナルホドと思ってしまった。資本主義社会の矛盾を勉強しても左翼にならない。何かを知り、考えることが、自分自身が変わることに結びつかないというわけである。そして問われているのは、知ることと変わることがむすびつくような知のありようである。先取りしていえば、資本主義の矛盾を研究すること自身が運動に繋がるとしたら、そこには何を研究とみなし何を運動というのかといった双方の前提自身を問い直す契機があるのではないか。ここではそれを、安直に、マルクスを読んでマルクスに感化されるというような知の注入の理屈では解決しないでおこう。そこで立てられるべき論点は、討議するということが生み出す集団性であり、討議自身に潜在する自らが生きている現実を別の状況へと織り直していく力である。そしてこのときの左翼は、資本論にかかわる知識量のことでも、集団を指導する前衛のエリートでもないはずだ。言葉を交わし、場所を作ることに秘められた力を解放したいと思う。そして問題は、この力をいかに引き出し、世界を変える力へとつなげていくのかだ。

本号の特集において研究という言葉で表そうとしていることは、言葉を交わし、新たな言葉を共に発明していく集団的な行為である。また機械という言葉で表そうとしていることは、固定的な秩序集団とは異なる動的な人と人との関係にかかわっている(本号所収の杉村「『研究機械』から『言表行為の動的編成』へ」を参照されたい)。そして討議するということそれ自身が、既存の秩序とは異なる関係を生み出し、秩序を支える制度を批判する動きにつながるとき、それを運動と呼んでもいいと思う。研究機械ということは、大学やいわゆる学問というアカデミアにおいて制度化された領域と深くかかわってはいるが、ここで問題にしたいことは大学論や学問論ではなく、この運動という水脈だ。特集ではこの水脈の持つ力を、大学や研究にかかわる秩序から解き放つことを考えてみたいと思う。

また制度を批判し続けるこの運動は、アカデミアだけではなく運動組織の問題にも直結するだろう。研究機械のポイントは何を議論するかというよりいかに議論するかという点にある。重要な課題を列挙し正解をみつけることというよりも、その課題にかかわる討議空間がいかなる人と人の編成を生み出すのかという問題だ。本号の他のところでも言及されているソウルで生まれた研究空間=機械(research machine)「スユ+ノモ」が作成したパンフ『Welcome to the Machine』(近日中に再編集してインパクト出版会より刊行予定)で、その中心メンバーの一人である高秉權(こびょんぐぉん)さんは、「人々は組織を発展させることが、運動を発展させることだと考えています。組織を運動の主体であり単位であると考えるからです。しかしながら、ある組織が一心不乱な体系を備えたとき、すなわち完成の瞬間に近づいたとき、私たちはその組織の敗北を予感するのです。組織は運動の基礎ではありません」と記しているが、いいかえればそれは政治課題をめぐる党派性という問題とも重なるだろう。

この特集では研究という行為の持つ運動の領域、いわば研究アクティヴィズムとでも呼ぶべき領域と射程の輪郭を、可能な限り描いてみたいと思う。またそれは、研究あるいは運動ということの双方がこれまで前提にしていた内容、あるいは大学の内と外、研究者と活動家という区分を再検討し、ズラらしていくことでもあるだろう。したがってまた、研究アクティヴィズムの輪郭を描く作業は、既に知っていたこと、既にどこかで議論されていたことを確認し、それを別の言葉で言い換えていくことなのかもしれない。だから逆に、最も警戒すべきは、そんなことはもう知っているという態度である。それはまた、別の場所で登場している新たな展開を、たんなる紹介や輸入におわらせないためでもある。すでに知っていたことが別のこととして話されたり、あるいは自分と関係ないと思っていた事が既に知っていたことと重なるとしたら、どちらもわくわくするような議論の始まりのはずなのだ。

 

Ⅱプレカリアートと大学

ごまかしてはいけないことは、既に大学は労働力の再生産機構として機能不全に陥っているということである。もちろん個別で見れば偏差はある。とりわけブランド大学とそうでないもの、あるいは大都市圏に位置する大学と地方大学、また分野においても様々だろう。だが必要なのは、一部の場所をとりあげ、そこにあるべき大学の理想像を見出すことでも、自分の場所は大丈夫だという意味のない開き直りをすることでもない。はっきりしているのは、これまでの大学に連結して制度化されていた高賃金労働市場と大学との関係が、総体として既に崩壊し始めているということなのだ。またそれは、大学が独占してきブレイン・ワーカーの労働市場において、より顕著に現れているといってよい。

大学院も含め、大学は既にこれまでのような労働市場との接続を失っているのである。そしてそれは、単に定員が増えたとか入学志願者の減少という問題ではなく、あらゆる職種において見られる非正規雇用の拡大、不安定就労の拡大、不当な労務管理の拡大にかかわっている。すなわち高速に移動する資本の拡大により、これまで労働市場の分割を維持してきた諸制度が無効になり、これまでの制度が労働力に与えていた資格やキャリアにかかわる命名が喪失し、無名性の拡大と総流動化状況の中で、大学が機能不全になっているのである。資本と労働力の結合は、大学をはじめとする旧来の制度を乗り越えて(時には利用もするだろうが)、もっとすばやく遂行され、自在に解除されるようになってきた。一部の大学で取りざたされている外国語教員の派遣労働者化は、もっとも大学が制度化してきたブレイン・ワーカーの労働市場におけるこうした流動化と不安定化の顕著な例だろう。

不安定性が拡大しているのだ。もちろんそれは一様の拡大ではなく、不安定性が様々な既存の規範や制度と重なりながら現実化しているのであり、「女性」、「障害者」、「外国人」といったカテゴリーはこの不安定性の中でもう一度意味を獲得するだろう。だがこの不安定性の拡大は、従来のような階層化された労働市場を前提にして理解すべきではなく、繰り返すが事態は総体として生じているのだ。したがって不安定性は客観的に定義される一部の労働形態の問題というより、多様な具現形態を持ちながらも総体として存在する未来への不安として蔓延しているといってもよい。151号で特集した「プレカリアート」とは、労働市場の階層性を意味しているというより、総じて蔓延するこうした不安や生きにくさを、前向きに言い換えようとした言葉なのだ。そして今の大学をめぐる諸現象も、大学だけの問題ではなく、こうしたプレカリアートの中にある。

その結果、大学はただ通り過ぎるだけの場所になる。それは職という目的地にただ移動する通勤電車であり、さらに目的地に到達しない幽霊列車になりつつある。だからこそ、あたかも目的地があるかのような様々なごまかしが今生み出されているのだ。自己実現とはこうしたなかで準備された言葉だ。今最も読まれるべき本の一つである平井玄の『ミッキーマウスのプロレタリア宣言』(大田出版)には、教育関係の出版社で受験雑誌の記事のチェックをするN君の話が出てくる。あなたの夢をかなえます。多くの大学が、国際交流、時代のニーズにあった教育プログラム、最先端の研究といった砂糖菓子のような言葉を受験生にふりまく。そしてその記事をチェックしていたN君は、激しく苛立つ。海老がないのに衣だけが膨れ上がっているエビ天。それは彼がこうした砂糖菓子のような言葉につけた名だ。そしてこのくだりを読んだ私は、この数年間、エビ天満載の業務書類を大学の中で書き続けてきたことを思い出し、自分自身に吐き気を催した。

このようなことを、大学に職を持っている者がいうことは反感を招くかもしれない。そしてその反感は当然だ。そしてだからこそ、もうごまかすのは、やめておかなければならないのだ。くりかえすが、市場との接続を保っている一部の部分を称揚するのは、もうやめよう。売れる研究や社会のニーズにあった教育システムを開発することが重要なのではない。流動化の中でそのような場所は新しく生み出されるだろうが、それは総体としての崩壊の徴候に他ならない。ここで、職などいらないということをいっているのでは断じてない。すべての人が生きていけなければならないということを強調したいのだ。大学は今、ごまかしきれない臨界点に達しつつあるように思う。そしてそれは、この国のことだけではない。

ごまかしきれないとしたら残されている道は、鎮圧しかない。幽霊列車には鎮圧部隊が潜んでいる。そしてその鎮圧は大学固有の問題ではない。たとえば早稲田、大阪経済大、法政大でおきているビラや盾看への弾圧は、決して一部の大学におけるかつての学生運動の最終局面なのではなく、すでに他大学でもおきていることであると同時に、大学のプレカリアート抑圧機構としての登場として理解すべき事態である。だからこそ、この抑圧機構化は、教育制度という旧来の制度的枠組みの中での新展開というより、従来の法的手続きを乗り越えて近年展開している治安弾圧、とりわけ「異常者」、「不審者」、「テロリスト」といった言葉を根拠に行使される問答無用の予防拘禁の展開と軌を同じくするものだといえよう。2001年9月11日の直後、人権侵害を告発する悲鳴のようなメールが世界を駆け巡り、その中でFBIが何の法的根拠もなく留学生の個人情報を大学から持ち去っていくことが伝えられた。この事態は今も続いているが、近年の日本に滞在する留学生に対して生活指導の名の下になされている締め付けと監視も、教育問題というよりも、今年の入管法の改「正」に象徴される「外国人=犯罪者予備軍、テロリスト」という予防弾圧の中にあるだろう。

既存の制度自身が変容し、従来の法的手続きが次々と無効にされてきている現在、大学をめぐっておきていることを他の事態と重ね合わせて考えることは極めて重要である。総じて進む大学の機能不全と抑圧機構化。重要なのは、永遠につかない目的地を夢想することではなく、電車の中から別の未来を作り出すことだ。いいかえればこの幽霊列車は、大学が取り仕切っていた学をめぐる制度から研究機械が解放され、運動として作動し始めるチャンスなのだ。

 

「スユ+ノモ」から

「今から5年前、私は30代後半の博士失業者だった。当時わたしの目の前にあった次のコースは大学に進出すること。しかしながら希望はなかった。・・・(中略)・・・経済的自立と学びの場―わたしは初心に帰って、教授になろうとしていたのはこの二つを確保するためにであったことを思い返した。だとするなら教授採用に必死になって『精力を使いはたす(!)』くらいなら、いっそこの二つが可能な新たな領域をかいたくするほうがましではなかろうか。水踰(スユ)里の勉強部屋はこのようにして始まった」(高美淑「ノマディズムと知識人共同体のビジョン」『Welcome to the Machine』)。研究空間=機械「スユ+ノモ」を始めた一人である高美淑さんは、その初発の状況をこのように記している。「スユ+ノモ」(スユは地名、ノモは超えるという意味)については本誌149号にある金友子さんの文章を見ていただきたいが、その系譜の一つには、こうしたいわば高学歴失業問題が存在する。そしてそこに前述したような国境を越えて拡大する不安定性を確認することは、極めて重要である。韓国だけの問題ではない。乱暴に見えるかもしれないこうした同一化は、いま絶対に必要なことだ。

その上で、この「スユ+ノモ」に内在する系譜をもう少し丁寧に考えたいと思う。本号にインタヴューならびに「マルクス主義とコミュー主義」という論文が所収されている、「スユ+ノモ」のもう一人の立役者である李珍景さんが体現している系譜は、高学歴失業問題とは少し異なるものだ。それはいわば先に述べた研究と運動の位置関係にかかわる問題である。詳しくはインタヴューならびに論文を読んでいただきたいが、1980年代、最も戦闘的な学生運動の中心的存在であった李珍景さんにとって、研究とはまずもって資本主義社会をどのように理解し、そこから生じる矛盾をどのようなものとして設定し、それに対する路線をどのように打ち出すのかという作業に他ならなかった。いわば資本主義の現状を分析し革命の為の正しい戦略を確定する作業こそが運動における研究の位置だったのである。そしてこのような研究活動は、すぐさま路線闘争へと結果した。「社会構成体論をめぐっての論争は、そうして政治路線と戦略をめぐる論戦へと変換されていき、組織的な諸差異はそういった理論的差異を徐々に拡大させつつ、それぞれが固有な立地点へと変換されていった」のである(李珍景「マルクス主義とコミューン主義」)。

これはきわめて了解しやすい話である。運動の中で研究活動をどのように位置づけるのかということは、同時に運動の形態をどのように想定するのかということと深くかかわっているのであり、ここで李珍景の述べていることは、理論的正しさにおいて補強された党派性の問題なのだ。またこうした普遍的な政治的正しさは、正しさを独占する前衛組織による「命をかけた」闘争形態とも重なった(「インタヴュー」を参照)。ラディカルさが正しさの証明になるという転倒を生んだのである。そして李珍景さんが運動の敗北を、マルクス主義の放棄ではなくまた従来の前衛組織による運動の肯定でもない地点、彼の言葉を借りれば、「留まることも去ることも出来ない」地点においてうけとめ、依然としてマルクス主義者として生きようとしたとき、自らがおこなってきた理論的作業と運動形態の関係を根本的に捉えなおそうとしたのである。ここにおいて彼は、高美淑さんと出会う。この出会いの中で李珍景さんにおける研究活動は、遠い未来の正しさを確保することではなく、今において自らの生きる場所をいかに生み出していくのか、つまり「生と密接に結びついた知識を生産すること」へと転回していく。

重要なことは、この研究をめぐる転回は、単に研究テーマや研究スタイルの問題ではなく、前衛をめぐる党派性と武装の問題に密接に結びついているということだ。正しい綱領のためではなく、討議においていかなる場所を生み出していくのかということがきわめて重要な論点になるのであり、それはまた、正しい綱領を打ち立てる前衛組織とは異なる運動形態の生成を要請し続けるのである。資本と労働の再結合の中で引き起こされるプレカリアートの拡大という共時性とともに、私が「スユ+ノモ」の活動に強く魅かれるのは、まさしくこの運動形態にかかわる系譜である。そしてかかる運動形態の問題として研究を考えたとき、自分がいかなる回路において「スユ+ノモ」とかかわりうるのかということを発見することが出来る。それは、党派闘争の拡大した1970年代の新左翼運動の経験であり、たとえば天野恵一さんが『「無党派」という党派性』(インパクト出版会)で述べた、「あたりまえの人間が普通に悩むという場所を共有しながら進む」(139頁)ことでもある。いまここで、日本の運動が韓国の運動に先んじていたなどということをいおうとしているのではない。そうではなく、ある魅力ある運動に出会ったときの受容の作法の問題であり、たんなる政治効果ではなく、受け入れる場所にかかわる歴史性の想起とともに運動を考えたいからである。かかる作法を欠如したところでは、魅力ある運動もたんなる紹介か、表面的な模倣に終わることだろう。

 

1970年代

新左翼における党派闘争の激化の一方で、1970年代においては個別課題が登場し地域闘争が拡大した。1968年をことさら持ち上げる議論や、1970年7月7日の華僑青年闘争委員会(華青闘)の新左翼諸党派への決別宣言を持って運動を総括してしまう乱暴でかつ東京中心の議論に出会うたびに、1970年代各地域で展開した個別具体的な運動が視野に入っていないと感じてしまう。たとえば杉原達さんがこうした乱暴な議論への怒りを込めながら的確に指摘しているように、華青闘の告発は1970年代、たとえば大阪においては民族差別の撤廃、在日外国人への排外主義と戦う具体的な運動として継承され、1980年代の指紋押捺拒否運動に繋がっていくのである(杉原達「帝国という経験」『アジア・太平洋戦争1』岩波書店)。1970年代、反公害、反開発闘争、反原発闘争あるいは反差別闘争やリブの運動、寄せ場での闘いなど、個別具体的な課題をめぐって運動は各地域に拡大し、また拡散した。そして党派性あるいは前衛組織の問題は、まさしくこの個別具体的な地域闘争の中で再審にかけられる。いいかえれば綱領的あるいはドグマ的「普遍性」ではなく、「具体的な個別課題を多様に交流・媒介させることで明かにされる「普遍性」への通路」(天野、同、273頁)こそが、求められたのである。そして、まさしくこの個別課題との具体的関係において、研究なる行為も問われることになる。

1977年に私が大学に入学した時、様々な自主的研究グループが存在した。とりわけ農学部に入学したせいもあってか、反開発、反公害、反原発の地域闘争とのかかわりをもつ多くの研究会に出会った。その一つに1972年に石田紀郎さんたちがたちあげた災害研グループがある。石田さんは1969年9月の京都大学農学部封鎖解除の際逮捕された教官10人の中の1人である。24時間研究室や実験室にいることの多い農学部の学生や院生、教員にとって、占拠は日常空間そのものの占拠であり、したがってそれは占拠というよりも、いつもの場所に居座ることであり、同時に占拠した空間の中で何を研究するのかということが問題になった。そして暴圧された後、多くの者が同じ研究には戻らなかったのである。災害研もそうした中で出来たのであり、大学内に独自な場所を確保し、反開発、反公害闘争とのかかわりを作り上げていった。1972年10月24日の日付がある石田さんが書いた、「なぜ災害研究グループを結成したか」というビラには、反公害闘争とのかかわりの中で、「すでに『科学者』として出発してしまった我々はどうすればよいのか」と問い、「新たに人間を根底においた学問技術論を、我々が自己の中に染みついている『科学者』であることを解体しつつ(告発しつつ)、模索し、作り上げていく運動が我々の課題であり、災害研活動の基調である」としている。そして末尾は「我々は、このような作業を通じて、自然を分断し、分断化された自然を対象化し、さらには人間をも分断対象化した『物』としてしか扱わない現代科学の状況から、我々も含めて、人間の解放が可能になると考える」と結ばれている。

個別闘争、地域闘争の拡大と拡散は、党派性に結びつく研究とは異なる研究の運動における位置が求められる状況でもあった。災害研だけではなく、様々な研究グループがこうした状況にかかわっていった。そして自らの生きる場所自身を問う中で、まさしく天野さんがいうように、個別具体的な課題を媒介させていくような回路をどのように見出すのかということが問題になったのである。こうしたことは、反開発、反公害闘争や反原発闘争における自然科学系の研究に限ることではない。たとえば○○解放運動における○○解放研の位置も、同様だろう。ただ自然科学系の研究分野についていいえることは、たとえば有害物質の分析といったようにすぐさま運動の役に立ってしまうという問題があった。そしてこの「運動の役に立つ」が、ある種の運動と研究の関係を固定化してしまったと、当時あまり役に立たなかった私は思っている。いいかえれば、応用先の変更がすぐさま「我々」も含めた「人間の解放」であるわけはない。そういう意味では自然科学は、使い勝手の悪い道具だった。だがそこても、科学というツールを使ってアカデミアにおいて統制することの出来ない関係が作り上げられた。大学で実験室を一時的に占拠し、ガスクロマトグラフィーの分析機械を(こっそり)奪取し、大型コンピューターにデータを内緒で入力するというゲリラ活動が、日常的に展開されたのだ。それはやはり、研究活動において新たな関係を構築し、自らの生きる場所を作り上げる営みであったと思う。そしてここであえてつけ加えるべきは、こうした研究活動に、前衛組織や党派性とは異なる運動形態が内在していたということだ。それは「スユ+ノモ」に出会うことにより、私の中でから引き出された今に繋がる研究アクティヴィズムの系譜である。

あるいは人によっては、そこに1950年代のサークル運動を想起する人もいるかもしれない。鶴見俊輔さんは前衛政党との対比においてこのサークル運動を論じたうえで、そこに関心に応じて次々と増殖する「つつみこみ学風」という研究のありようを見出している(鶴見俊輔「サークルと学問」『日常的思想の可能性』筑摩書房)。それは、関心を媒介する為に次から次へと導入される道具としての学問の形態であり、その様々な道具は、理論でも分野でもなく問題関心においてつつみこまれている。それは、先に述べた渡邊太さんいう「コミュニケーション・ツール」に近いように思う。あえていいかえれば、理論的に確保された未来に向けた綱領から導かれる戦術が、その場に居合わせた人々を党派闘争に巻き込むとしたら、その場に居合わせた者たちの問題関心にもとづく「つつみこみ学風」は、不確かなそして決して安易には一つにならない未来像を予兆として措定し続けることになる。道具としての研究は、この綱領なき戦術にかかわるのである。

もちろんここでも、サークル運動に研究アクティヴィズムのすばらしい理想像があるということをいおうとしているのではない。重要なのは、たとえば小倉虫太郎さんのように組織としての左翼ではない運動として、「もう一度サークル運動の『旗』を拾いなおすことがそのように可能であるのか」という問いを立ててみることだ(小倉虫太郎「大学の廃墟で」『ネオリベ化する公共圏』明石書店)。運動の形態を考えることは、終ったとされる過去の出来事にもう一度別の意味を吹き込み、まだ終っていない運動として今に繋げていくことなのだ。

 

妄想―謀議

現在世界各地で起きている反グローバリズムの運動には、様々な運動の系譜が流れ込み、化学反応をおこしている。労働運動や農民運動、マイノリティの運動、あるいは反原発闘争や環境保護運動、そしてデヴィッド・グレーバーが『ニューレフト・レヴュー』(2002年1,2月号)で論じた「新しいアナーキストたち」もそこに登場している(翻訳、安藤丈将&栗原康『現代思想』32-6、2004年)。グレーバーのいうこの「新しいアナーキスト」は、必ずしも自称するアナーキズムを指しているわけではない。それは、国家や党をめぐる綱領的な認識の問題ではなく、極めて具体的で戦術的な運動形態にかかわる問題系を意味している。いいかえれば、綱領的認識から演繹される戦術ではなく、たまたま居合わせてしまった者たちが、とりあえず今の現実を変えるべき状況として現前に浮き上がらせ、その状況の中で自分たちが何者かを確認し、自らの生きている場所を変えていくという運動形態である。それはシチュアシオニストやアウトノミアなどの流れを受け継ぎながらヨーロッパを中心に発生したプレカリアートたちの運動にみられる戦術にも重なるだろう(151号櫻田和也さんの「プレカリアート共謀ノート」を見よ)。こうした運動形態は綱領的未来において保護されているのではなく、それ自身が様々な未来への予兆でもあるだろう。

そしてグレーバーにも共通している認識は、こうした運動形態においては、正しさを確保する「完璧な分析」作業とは異なる、自らの生きる日常を別の社会へと描き直していくような新しい理論的あるいは分析的活動の再創造、いいかえれば研究アクティヴィズムが求められているということだ。ここでも重要なことは、たとえばマンハッタンの運動を理想化し模倣することではない。そこには、特定の場所に運動の中心を見出すある種の前衛主義が存在する。先にふれた若者三人の鼎談の中で最後に小野俊彦さんは、地方にこだわることを宣言しているが、それと通じる問題である。

現在「スユ+ノモ」は、韓米FTA(自由貿易協定)阻止闘争、平澤基地拡張反大運動、セマングム反干拓闘争、移住労働者支援闘争などに取り組みだした。5月には各地の闘争を繋ぐように400キロの工程を歩く「大長征」という行動に出た。こうした政治課題に対して、彼ら、彼女らがどのような運動形態を作り上げるのかについては、現在進行形である(本号所収の今政肇さんの報告を参照)。先日この「大長征」の経験をめぐって行われたワークショップで、高秉權(こびょんぐぉん)さんは、非正規雇用の拡大、セマングンの干拓や平澤にみられるような土地の収奪、移住労働者の労働状態に言及し、治外法権の拡大という表現を使いながら、自分たちの生がたまたま生かされている生でありいつでも剥脱しうる状態になりつつあること、その剥脱が従来の法的手続きさえ無効にする問答無用の暴力として登場していること、そしてそうであるがゆえに社会の外へと放逐されるという恐怖が、社会全体に蔓延していることを指摘した。そしてその上で、放逐されるのではなく積極的に逃亡しようと呼びかけた。このやや理念的なアジテーションには、個人が抱え込んでいる不安や恐怖を、問答無用の暴力の承認ではなく別の方向へいかに社会化していくのかという問いがあるだろう。

このアジテーションを聞きながら平井玄さんが『ミッキーマウスのプロレタリア宣言』の中で、現在のフレキシブルで不安定な雇用状況を、「煮て食おうと焼いて食おうと勝手」と翻訳したことを思い出した。今求められている運動形態は、いつ放逐されるかわからない、いつ食われてしまうかわからない現実、「『階級社会』の底知れない谷間、ひんやりとした空気の流れる深い谷底の空間」(平井)から始まらなければならず、そしてその空間は、そこかしこに遍在しているのであり、またそのひんやりとした空気は、一人一人の体の中に流れている。だからこそ、放逐されるかもしれないという自らの不安や恐怖にかかわる情動を、別の方向へと織り直していく共同作業が、すなわち討議空間が重要なのだ。そしてそれが生み出す運動形態は、やはり前衛組織ではなく、個人の内面に隠しこまれている不安を集団の妄想として拡張し、別の言葉として感染させていくような機械としての運動である。そして共謀罪は、まさしくこの謀議空間に向けられている。たしかにマルクス主義は理論化された「狂気」なのであり、多焦点的に拡張していく共謀活動として、研究機械はある。妄想を語り、謀議し続けよう。