火曜会

火曜会は、言葉が帯びる身体性を押し隠すのではなく、それを多焦点的に押し広げることこそが研究行為ではないか考えています。また研究分野の境界は、分野の前提を再度議論する中で、連結器になるとも考えています。

ナショナリズムと臆病者たちの未来ー「火曜会」という構想(6)

 

 

ナショナリズムと臆病者たちの未来

『ハンギョレ新聞』発行『LE MONDE diplomatiqe』(韓国語版)2011年6月号に掲載

冨山一郎

 

地震が起きた3月11日から2週間たった3月の下旬だったか、私の大学で、教員の年度末の懇親会があった際、その場を主催した教員の一人がこう言い放った。「こんな状況ですから、最初の乾杯は取りやめます」。乾杯を取りやめることと、地震あるいは原発災害とは、一体何の関係があるというのか。「こんな状況」を「時局」といいかえれば、アジア太平洋戦争中、日本においてさまざまな行事で語られたフレーズそのものではないか。一体何が、「こんな」なのか。関係がないことを関係があるように語るその善意の語り口に、胡散臭さを越えて、怒りに近いものを感じてしまった。また1995年の阪神淡路大震災のときは、どこまでも「がんばろう神戸」だったのだが、どうして今、「がんばろうニッポン」なのか。一体、誰が誰に対して「がんばろう」と呼びかけているのか。そして、何をがんばるというのか。

3月11日から始まる日本社会の言論状況は、驚愕と不安が錯綜しながら、「大変だ」あるいは「がんばろう」という身振りを表明し続けないといけないような圧迫感の中にある。それは、正当な構成員であるという証を立てることを、一人ひとりに強要する機制であると同時に、ある種の思考停止の蔓延であるようにも思える。この思考停止においては、時局あるいは「いまは大変な時ですから」という空虚なことばを頭につけることにより、なされるべき議論や違和を封じ込めながら、問答無用で話を前に進めることが出来るのだ。他方で、今進行中の事態は、突然の大地震と大災害、そして復興という単線的な動きではない。原子力発電所の事故、それをめぐる東京電力という巨大資本の動き、国の対応、地域社会の問題、またさらに大学が占有してきた学知への問いや、3月11日以前の社会への内省的な問いも含みこみながら進む、重層的な事態である。そして、この事態を一つの側面に還元してわかりやすく説明するのではなく、こうした重層的な動きが総体としてどこに向かおうとしているのかということを考えることが、いま極めて重要であると思う。

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新聞が死者たちを毎日数え上げているさなか、4月10日の東京都知事選で石原慎太郎が、次点に対し圧倒的な大差をつけて再選された。彼が勝つということは予想されてはいたが、それでも開票時間に選挙速報をみようとテレビをつけると、既に当選していた。このタイミングで、石原なのか。暗然たる思いがする。石原はかねてより地震に対する防災を掲げてきた。いや正確に言えば、防災を政治として練り上げてきたといった方がよい。彼が都知事になってすぐに始めた大規模な防災訓練は、未来の地震への備えというより今のテロ対策を名目にした治安出動の訓練であった。この訓練の中で、警察や消防のみならず自衛隊、米軍を、緊急出動という形で一体化していったのである。それはまた、グローバルな文脈で進む警察の軍事化、あるいは軍事の警察化の具現化でもあるだろう。

またその中で石原は治安対策の必要性を、かつて日本が植民地支配をしたアジアの人々への排外主義の文脈で、たびたび表明していた。「災害が起きれば○○人が騒擾を起こすだろう」。石原は、日本の敗戦直後、在日朝鮮人や在日中国人対して投げかけられた「三国人」という言葉で、この「○○人」を表現した。こうした彼の発言は、1923年の関東大震災における朝鮮人、中国人、社会主義者に対する、一般市民と軍、警察が一体となって引き起こした虐殺事件を人々に想起させると同時に、彼のいう治安対策に対して、同様の暴力の可能性を不断に予感させることになる。石原の防災訓練は、したがって、既に非常事態宣言であり、それはいま学校や地域住民をボランティアとして動員しながら、全国に広がっている。

立川自衛隊基地で反基地闘争をになう井上森は、この石原の防災訓練を「防災の共同体」という言葉を使って表現している(井上森「『防災』の共同体を越えて」『インパクション』126号)。この共同体を形作っているのは、敵を設定しそこへの憎悪を掻き立てることにより構成される排外主義的なナショナリズムである。そしてこうした敵探しの背後には、一人ひとりに抱え込まれた不安があるだろう。一人ひとりに抱え込まれた不安を、共通の敵への憎悪において一つに纏め上げていくのだ。と同時に重要なことは、この共同体が、緊急事態という名の下に問答無用で日常に浸透する軍事力により、共同体からは外れる者たちを摘発し鎮圧する、あの「テロとの戦い」を髣髴させる社会状態であるということだ。

不安が蔓延する中でこの「防災の共同体」こそが、今度の選挙で圧倒的な支持を石原に与えたのだ。そしていま、この「防災の共同体」は復興と重なりながら、空虚な「がんばろうニッポン」の内実として全国に登場しているように思える。自衛隊の活躍は英雄伝として語られ、朝鮮半島にかかわる軍事行動を想定した日米防衛協力の指針に基づく米軍の災害支援(「トモダチ作戦」)は、善意として何の議論もなく無条件で受入れられた。大阪府の橋下知事が、君が代斉唱で起立をすることを拒否した学校教員に罰則を設けようとしているのも、時局の空気をキャッチしているように思える。時局をかたりながら、あるいは便乗しながら、問答無用で話を進めようとする者たちが、いまあちらこちらに顔を出し始めている。

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奇妙な言葉の感覚に襲われている。声を発する時なのだが、他方で今は話してはいけないとどこかでそう思っている自分がいる。支援や復興、あるいは原発をめぐる是非など、いま多くの言葉が飛びかっているのだが、注意ぶかく言葉の在り処を確かめないといけないという思いがどうしてもまとわりつくのだ。また1970年代後半からの反原発闘争を知る者として、福島原子力発電所の崩壊をめぐる、東京電力、国家、マスコミ、研究者の、保身と欺瞞に満ちた発言には、自責の入り混じった激しい怒りを感じる。「わかっていたはずなのに」。しかし今回の原発事故がエネルギー政策の転換やライフスタイルの見直しという文脈で語られるとき、そうした議論も必要だと思いながら、「がんばろうニッポン」と同じ感触をもってしまうのだ。

それは阪神淡路大震災のときの記憶でもある。言葉を失う圧倒的な廃墟を前にして、被害を饒舌に語るマスコミは、東京でオウム真理教にかかわる事件がおこると、一斉にそちらへと流れていった。また現代思想を扱うある雑誌は、地震後に東京で地震が起きた場合を想定した災害の特集を組み、多くの人文学者がこぞって近未来について論じた。だが、震災は既におき、まだ何も終わっておらず、未来は始まってはいなかった。しばしば愛読していたその雑誌だが、その後あまり読まなくなった。

今語るべきは、性急な復興でもなければ、また次の災害への防災でもない。復興にしろ「がんばろうニッポン」にしろ、そこには何かをなかったことにして前に進みたいという欲望が、やはり帯電している。善意に満ちた饒舌な未来志向は、否認の構図でもあるのだ。問われているのは、何を語るのかということだけではなく、どの場所で語るのかという問題なのかもしれない。

3月11日以降を、戦後と表現する人たちがいる。こうした安易な命名自体、到底受入れられるものではないが、いま言葉の在り処を考えるとき、たしかに戦後という設定から見えてくることはあるかもしれない。戦後日本において、戦争体験をどのように語るのかということが、大きな思想的課題として存在した。丸山真男をはじめ、そこには広い意味での戦争体験の思想化とでもいうべき営みがあったといえる。また同時にこうした戦後日本の知識人の登場は、「新しいニッポン」、「がんばろうニッポン」という未来志向のスローガンの下で、帝国がアジア全域に刻印した痛みを、記憶する前になかったものにしながら、復興という戦後を歩みだそうという否認の構図にもかかわっているだろう。結果的に、廃墟を前にして饒舌に語りだされた戦後なるものは、戦争体験を都合よく切り取り、また地下深く埋葬していった。早くから戦争体験がもつ国家と知識人への批判力を指摘していた鶴見俊輔は、「1945年8月15日、敗戦を終戦とよんですりぬけてとおろうとしたころから、戦争体験の上に手ばやく布をかぶせてそれを底辺化してしまった」と記している(鶴見俊輔『日常的発想の可能性』)。

まだ終わっていないし、始まってもいないのだ。そしてなによりもまず重要なのは、危機は進行中であり、かかる進行形を「がんばろうニッポン」への違和として見出す必要があるように思う。最初にも述べたように、反原発闘争に少しでもかかわった者は、原発がいかに容認しがたいものであるかということを、既に知っていた。それはまた、日常生活の近傍に原発を受入れた人々も同じである。わかっていたのだ。わかっていたのに、それ地下深く埋葬して過ごしてきた責任。そして、だからこそ強く思うのは、これまで通りの状態に復帰しては断じてならないということだ。そして今、わかっていたはずのことが、そして深く埋葬し押し隠していたことが、圧倒的な現実として、顔を出し始めている。

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進行中の事態を前にして、改めて思うことは、原発とは巨大な抑圧装置であるということだ。そしてこの装置は、抑圧自体を不可視化する。放射性物質を怖れず活動をする警察や消防、自衛隊、あるは東京電力の正社員が、決死隊という言葉で英雄的に語られている。しかし、原発はその稼動から一貫して、被曝労働者を生み出し続けてきた。この被曝は事故ではない。原発労働者について記述した、今もっとも読まれるべき書の一つである『原発ジプシー』を書いた堀江邦夫は、次のように述べている。「原発内の労働が、作業量ではなく、放射線を浴びることがノルマになっているという事実からすれば、労働者を『被ばく者』とすることは、むしろ前提条件でさえあるのだ」(「あとがき」『同書』)。この労働は、不可避的に身体を、修復不可能な形で死に追いやる。労働力を売る賃労働というより、いわば命を削り続けることを暗黙の前提として要求される被曝労働の存在が、未来社会をになうとされた原発存立の前提条件なのだ。

人間である以上、この労働は許されない。そうであるがゆえにこの労働の領域は、幾重もの下請けの深部に確保され、またその存在自体が不可視化される。原発労働の現場監督に従事し、本人も被曝し続けた平井憲夫は、「作業員全員が毎日被曝する。それをいかに本人や外部に知られないように処理するかが責任者の仕事です」と述べている(『くまもり通信』67号、日本熊森協会)。そして多くの人が被曝し、死んでいる。繰り返すがそれは、思っても見ない災害でも、予想できない事故でもない。原発そのものの常態が、棄民とでもいうべき労働の領域を前提にしているのだ。

この棄民領域を、なかったことにしてやり過ごしてきたのだ。それは、企業や国家の問題というだけではなく、この深部に隠された秘密が顔を出すのを監視し、かつ不可視化ながらやり過ごしてきた者たちすべての問題である。そして被曝を怖れず決死の覚悟で突入する軍人的英雄伝は、それ自体この社会全体を覆う抑圧の構造を追認し補強しているのだ。問題は、エネルギー政策の転換ではない。津波の高さの予想値の再検討でもない。原発という抑圧装置を容認し、被曝労働をやり過ごしてきたこの社会自体が問題なのだ。怖いと感じながら、それを文句のいえない立場の人に押し付け、安全だといい張ってきた社会のマジョリティたちが、問題なのだ。それは、東北という地域個別の問題では断じてなく、また東京電力という一つの巨大資本の問題でもない。

そして今、劣化ウラン弾が敷き詰められたのと同じ状態の小学校の校庭を安全だといいはり、進行する被害を風評被害といいかえてあたかも騒いでいる人間が問題なのだとし、東京電力に抗議する者たちを、公安警察を使って逮捕していく事態が、次第に浮かび上がらすこの国の相貌は、蔓延する不安を復興に纏め上げ、それに従わない者たちを問答無用で鎮圧するまさしく「防災の共同体」なのではないのか。既に始まっていた「防災の共同体」は、「がんばろうニッポン」の唱和の中で、更に飛躍を遂げようとしている。

だがしかし、大量に流れ出し続ける放射性物質により、深部に不可視化されていた棄民領域は、今、地表に顔を出し始めている。被曝の拡大は、それ自体危機であると同時に、その危機が既に存在していたこと、そして危機はまだ終わっていないし、危機後という時間はまだ始まっていないのだということを、示し続けている。不可視化されてきたこの領域は、復興の名においてやり過ごそうとするすべての動きを、全力で阻止しようとしている。蔓延する不安は、かかる棄民領域に対する最初の反応に他ならない。分岐はここにある。

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原発事故が起きた直後から事故処理の作業のために派遣されていたある自衛官は、3月14日の夜、駐屯地から逃走した。彼はやはり、怖かったのだ。そして自衛隊はすぐさま彼を懲戒免職に処し、ネット上には「敵前逃亡!」「軍法会議にかけろ!」という言葉が飛び交った。軍隊における軍律が死への動員であり死刑宣告を含むことは容易に想像がつく。そして原発にかかわっていま日本社会に浸透し始めているのは、命をなげうって果敢に行動することが、英雄であり、逃亡することを「敵前逃亡」と見なす心性だ。原発は戦場になったのだろうか。

次第に被曝の実態が明らかになる中で、60歳以上の技術者たちが「暴発阻止行動隊」を結成したという新聞報道があった(『朝日新聞』2011年5月23日夕刊)。それは、被曝の影響と自らの寿命を天秤にかけての判断である。いま、被曝の影響が大きい若い人を守りたいというこの技術者たちの思いや、一人ひとりの判断が問題なのではない。問題は、自らの生命を犠牲にして尽くすことが、善意に満ちた美しい物語として受容されていく社会全体の心性なのだ。空虚な「がんばろうニッポン」は、アジア太平洋戦争時の「お国の為に」と結びつきつつある。そしてその結合は、生き延びることを指弾する「敵前逃亡!」の近傍に間違いなくあるだろう。戦場に登場する死刑宣告を含みこむ軍事的論理が、日常を支配し始めている。拡散し続ける放射性物質を前にして、その場に留まることが被曝を意味する以上、逃げてはダメだという論理は軍事的論理として、膨大な人々を巻き込みつつある。

だがしかし、蔓延する不安、埋めようのない悲しみを抱え込んだ人々が、それぞれの故郷から避難をはじめている。やはり怖いのだ。また自分の愛する人々の未来が奪われるのが、怖いのだ。そしてこの避難する人々に対し、あの「逃げるな」という言葉が投げかけられている。

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いま、復興と避難は明確に対立し始めている。そして必要なことは、声高に復興を叫ぶことではなく、留まる者たちと共に脱出を考え、それを言葉にしていくことではないだろうか。不安を押し殺しながら、それを誰かに仮託して排撃し、自らは決死の覚悟を表明し、大丈夫だといい張ることではなく、共に脱出を構想すること。そしてこの脱出において最も重要なのは、脱出した者たちと留まる者たちとが、臆病者として出会うことだ。分岐は、逃げるか留まるかの間にはない。留まる者も次の瞬間には逃げ出すかも知れず、脱出する者も場合によっては留まる決意をするかもしれないのであり、不安は両者に通底している。考えるということは、この分断を横断することなのだ。

「逃げ出すのは外国人ばかり、東京は大丈夫」。原発事故が表面化する中で登場したこの発言では、脱出は外国人とされている。脱出と留まることは、軍事的論理において分断され、そこに排外主義的ナショナリズムが打ち立てられているのだ。それは、「三国人」を語る石原の論理でもあるだろう。私はこの言葉に全力で抗う。くりかえすが分岐というのは、逃げるか留まるかにあるのではなく、この軍事的論理に対してこそ引かなければならない。そして軍事的論理が日本という国家なるものとして動き出すのなら、臆病者たちはそこに留まり、留まりながら脱出する別の論理を作り上げなければならないと思う。

生にかかわる不安の拡大が、他方で死刑宣告を伴う軍事的論理に向かうのだとしたら、重要なのはこの論理から身を引き剥がし、臆病者同士の関係を作ることであり、別の世界を生み出すことだ。留まりながら脱出する者としての作業は、軍事的論理に絡みついた自らの住まう日常性を丁寧に批判していくことであり、生にかかわる不安や恐怖を、他者に仮託することなく、臆病者として受け入れながら、他者との関係として再構成し、別の日常空間を創出していくことである。それは、臆病を追放し死の覚悟を誓うのではなく、臆病ゆえに傷つくことを恐れ、そうであるがゆえに人を殺すことを恐れる者たちが社会を構成していく、そんな可能性にかけるような作業である。

またそれは、事故にかかわる政策的転換や補償問題のことではなく、常態として存在し続け、隠され続けた被曝労働者たちから、社会を描くことでもあるだろう。臆病者たちは、この労働者たちの身体に日常的に行使され続ける暴力を、傍らにいながら既に他人事ではない事態として感知するだろう。このとき、棄民とされた人々の領域とその傍らにおいて生まれる臆病者たちの不安は、言葉を獲得し、別の未来の始まりとなるに違いない。(2011/05/28)