火曜会

火曜会は、言葉が帯びる身体性を押し隠すのではなく、それを多焦点的に押し広げることこそが研究行為ではないか考えています。また研究分野の境界は、分野の前提を再度議論する中で、連結器になるとも考えています。

火曜会の中に、精読会の増築を提起するー「火曜会」という構想(8)

7年前、火曜会のなかに精読会が生まれた際の文章です。この時から、いまの「火曜会-精読会」と「火曜会-討議空間」が始まりました。

 

 

 

火曜会の中に、精読会の増築を提起する

2007年8月5日

冨山一郎

 

Ⅰ対面関係の継続性という問題

一つの本を、時間を気にせず、体力だけを制約にして一気に討議したり、映画や音楽を題材にして考えたり、あるいは自由な議論をすることが、これまでとても豊かな場を作ってきたと思う。またその中で、空間の工夫や討議の作法など多くのことが、火曜会という場の習性として培われ蓄積されてきたようにも思う。共に食べ、飲みそして議論することが、かくも豊かなことなのか。それはよくある研究会のあとのコンパとはまったく異なる豊かさであり、私には驚きであった(火曜会で最近なぜコンパがないのかは面白い問題のように前から思っている)。私にとっては、そんな毎回わくわくするスリリングな場として火曜会がある。

そこでは、無関係に見えた思考や出来事が、共に言葉を交わすということにより連動していくという関係生成を、何度も目撃した。それは、直感といった個人的要因を暗黙のうちに求めている認識とは異なる、言葉において紡がれていく人と人の間にかかわることである。そして会の記録をどうするのかということがなかなか進まなかったのも、この目撃した事態を、目撃しなかった人たちへ言葉において伝えることの困難さでもあったと考えている。この問題は依然として残っている。すなわちどのように豊かな瞬間を記録するのか。

だがここで提起したいのは、参加できなかった人との火曜会の共有ということではない。考えたいのは対面関係における議論の継続性ということである。参加できなかった人たちとも議論が共有できる環境を考えるということと、対面関係においてこそなしうる討議の継続性は、関係はあるが異なる問題である。問題にしたいのは、継続する対面関係において議論を積み上げていくことをどうやって確保するのかということであり、それはネットでの連絡やブログでの記録といったこととは違う。実際に参加し討議することを、中期長期にわたってどのように構想するのかということだ。またここでいう継続とは単に続けることではない。そこにどのような目的意識性を見出していくのかということを、考えたいのである。結論的にいえば、これまでの火曜会において決定的に欠けていたのは、対面関係による討議によって見出されるべき目的意識性であり、この目的意識性において成立する継続という時間である。

毎回の関係の生成の他方で、いわゆる研究会ということにおいて確保されるべき討議の継続性、すなわち繰り返すが、対面関係においてのみ維持される継続性は、失われていった。前回の討議を偶然や自然発生ではなく、より意識的に継続するための努力を担う空間が失われていったのであり、この空間が確保されないがゆえに、継続という時間が失われた。多くの論点が、ある意味散乱したまま放置され、毎回ごとに違う顔を持って進んでいく火曜会は豊かな可能性でもあるが、私にはこうした意味での継続性の喪失という危機でもあった。研究会とよばれる行為が得意としてきた議論の継続性と目的意識性を、この豊かな火曜会の中でどのようにつくるのかという問題を、この間、ずっと考えていた。

 

Ⅱ目的意識性

目的意識性とはきわめて重要で、かつ厄介な論点である。あらかじめそれを前提にすると、行為は目的合理に拘束される。すなわちそれは、集団あるいは組織の問題でもある。そこでは、誰がこの目的合理を占有するのかということが重要なるだろう。すなわち占有者は目的を与え、他の者はその目的に拘束される。これは、まずは組織の問題であり、極めて単純化された前衛主義の問題である。ちなみにここでいう前衛主義は、狭い意味での政治党派だけを意味しているのではない。知の優劣や評価を下すことを旨とする組織のことでもあるのだ。知的実践を拘束する目的合理という問題は、誰がこの学術の目的を担うのかという問いでもあるのだ。

だが自然発生という領域は、「ために・・」という目的合理の裏返しであり共犯関係にあり、ただ自然発生性に価値を付与すればよい、といことではない。「もっと自由に」、だけではだめなのである。これまで何度となく火曜会の期のはじめに私が提起しようとし、失敗してきたのも、この目的意識性、そしてそこにかかわる集団性にかかわっている。目的合理において計画され、拘束され、抑圧された領域を、自然発生性に投げ出すことではなく、別の目的意識性に変態させていくこと。それは私にとって、たびたび紹介した<スユ+ノモ>が課題としてきたことでもあり、今期読んだグレーバーのアナーキズム的学知に共感した部分でもあり、またサークル村が党から身を剥がそうとした実践でもあり、またレーニンにおける見いだされるべき可能性もあり、そしてしばしば引用するフェリックス・ガタリが5月革命にこころみた新たな集団性のことでもあり、彼とドゥルーズが構造に対して機械とよんだ集団性でもある。以前配った「接続せよ! 研究機械」(『インパクション153号』)も、こうしたことを考えて書いた。この10年ぐらいこうした機械としての研究会(研究機械)を考え、さまざまな場所で試み、失敗もしてきたのである。

この集団性にかかわる論点は、ちゃんと展開しなければならないが、とりあえず添付した「ユートピアたち」の論文を参照していただければと思う。時には落ちていたお金を掴み、横領(ネコババ)してこうした場をつくろうともしたし、これからもそうするつもりだが、この添付した論文は、先のあの「21世紀COE」の中でうまれた研究集団の一つの報告として編まれた本ために書いた、やや総括めいた文章である。文章を書きながら火曜会のことを、第一に念頭においていた(読みにくいでしょうが、時間があればよんでください)。ただこの本には、人類学というある制約がまずもって存在したのであり、それを出発点にするにしろ解体する対象として掲げるにしろ、様々な意味で共通の言葉が、既に準備されていた。かかる意味で火曜会のほうが明かにより豊であり、また同時に目的意識性を見出すのにはより一層の努力が必要になる。また今期(第8期)のはじめにおこなった、本を作ろうという提起は、火曜会においてこうした変態を表現したいとおもったからである。さらにそのために、論文とは何かというようなことも、話したつもりである。だが、一回話すだけでは、やはり無理なのだ。この目的意識性という厄介な問題を正面から受け止める必要が、やはりある。だからこの、これまで考え、火曜会においてたえず模索してきた目的意識性を、すなわち構造を機械において溶解させ続ける力としての目的意識性を、また懲りずに提起しようと思う。

 

Ⅲ精読会を増築する

精読会を行ないたいと思う。議論を継続させまたそこにある方向性を見出す作業において私が責任を持って提起できるのは、依然としてテキストの精読である。精読とは、他者の言葉に徹底的にこだわることであり、注、参考文献に至るまでまずキッチリ読み、そこから見出される参照すべき他の文章を発見し、文章と文章の関係を発見していく作業である。またこの作業を構造化し、見出されるべき関係をあらかじめ制度化し、規範化したものが、学問分野ということになる。それはある意味この作業を容易にするだろう。だが火曜会の精読会では、基本的には構造を目的として前提にすることなく(より正確にいえば、既に出発点として前提にされてしまっている中でということ)、関係を見出していく作業、すなわち関係すべき他者はどこにいるのかを厳密に見出していく作業を、キッチリと遂行していきたいとおもう。

こうした作業においてこそ、構造は別物へと融解するだろう。またこの融解の中で、構造化された学問分野が押し隠してきた情動が、はっきりと言葉にされ、この作業と共にあらわれる情動と、これまでの火曜会の場に行き交い、散乱し、増殖した思いや希望とが、化学反応を起こすものと確信している。またこの精読会には、添付した文章でいう「具体に差し戻す」ということが念頭におかれている(「ユートピアたち―具体に差し戻すということ」石塚道子・田沼幸子・冨山一郎共編『ポスト・ユートピアの人類学』)。分かりにくいが、もし時間があればよんでみていただきたい。またこの点は、文字どおり対面関係の場において説明したいが、スローガン的に言えば、「理念あるいは理論を具体に差し戻す」ということを考えている。そこからは、単に色々あるといことではない、「理念たち」「理論たち」が、具体において見出されるのではないかと思っている。また火曜会の場に充満している思いや希望こそ、この具体である。

またこの精読会では、一回ごとの参加ではない継続参加と、テキストを事前に読んでくることとを、参加の基本的な必須条件としたい。参加できない人との議論の共有も考えたいが、くりかえすがそれは、とりあえず異なる問題である。模索してみたいことが、対面関係においてこそ維持できる継続する討議の可能性である以上、この条件は、やはり必須である。具体的には、火曜会を基本的に隔週から毎週にし、半分を精読会、後の半分を従来の自由な対話空間にしたいと思う。また前者の提起者、コーディネイターは私が行い、後者については、従来どおり同様に毎回ごとの提起者においてアナウンスされ、開催され、運営され、私は教室やカギの管理といった教務的なことのみを行うことになる。すなわち基本的にはこれまでの流れに、精読会という新たな場を増築するということである。

それは豊に広がった今の火曜会を打ち消すことでは断じてない。そうではなく、私が責任を持ってなしうる問題提起を、火曜会において行ないたいのである。さまざまな理由で対面関係がもてなかった人をも巻き込み、毎回ごとの参加において増殖していく自由な討議空間としての火曜会(討議空間―火曜会)と、継続する対面関係の可能性を追求する精読会(精読―火曜会)をあわせておこなうことにより、火曜会の次の展開を模索してみたいと思っている。