火曜会

火曜会は、言葉が帯びる身体性を押し隠すのではなく、それを多焦点的に押し広げることこそが研究行為ではないか考えています。また研究分野の境界は、分野の前提を再度議論する中で、連結器になるとも考えています。

「研究の視点」(2003~2011)ー「火曜会」という構想(9)

冨山一郎「研究の視点」(2003~2011)『待兼山論叢』所収

 

自然史博物館に勤める友人は、院生の時から博物学を志し、山を歩きながら半径10m以内の生物を瞬時にして分類できた。今ではその技にも磨きがかかり、文字通り達人になりつつある。先日、共通の師匠の退官パーティで10年ぶりに会い、なじみの場所で酒を飲んだ。私達が行くと店の方が、「もう無理なのはわかっているけれど」と呟きながら、反戦を求めるハガキをくれた。その時の彼女の硬い表情を忘れまい。3月9日、深夜のことだ。(2003年)

 

1972年に拘禁されて以降、監獄内特別区の完全隔離監視房の中で拷問を受け続け、1976年5月、何者かによる性的暴行の後、絞殺、だが「自殺」として処理されたウルリーケ・マインホーフの為に編まれた評論集を、久しぶりに読み返しながら、すばらしい言葉に出会った。「Multifokaler Expansionismus(多焦点的拡張主義)」。彼女と共に抹殺された「社会主義患者集団」が、消ゆく直前に遺した闘いの言葉。今、脳裏に滲み入る。(2004年)

 

二階にはカフェ、上の階には本が読める大きなテーブル、地下には食事をしながら話が出来る、ほどよい広さの食堂がある。得意料理を作りあった毎夕のバイキングは、まさに絶品。別の階には、研究会を複数おこなえる十分なスペースと、仮眠の為の場所が用意されている。気持ちのよい屋上には、素敵なテーブルと灰皿、子供のための遊戯施設が配置されている。それは院生と市民が共同で出資し運営している議論のための場所。本当の話。(2005年)

 

15歳で予科練に入隊、1945年5月11日、8名の乗員とともに沖縄に上陸した米軍へ爆撃特攻、そして撃墜の後、沖縄、グアム、ハワイの捕虜収容所ですごした彼は、弾幕で真っ黒になった空中に、ただ突入するしかなかった死の瞬間を何度も語りながら、自分達の死をそして生を、「しったか」で語る小泉らに激しく憤る。彼は今年、生き延びた同期に対し靖国をめぐるアンケートを行った。私はその結果を大学で討議することを約束した。(2006年)

 

名瀬で古本屋を営むM氏は、黒糖酒を飲むほどに、シンポを持ち込み札束で棚買いをして去っていく研究者たちに激しく憤り、発端をつくった島尾を罵りながら、「俺はヤンチュの末裔だ」と繰り返した。ヤンチュとは薩摩の黒糖支配における債務奴隷である。人として扱われず、ただ労働力としてのみ処遇された存在が、日本史であれ奄美史であれ、あるいは琉球史であれ、収まりよい「史」に全身で抗っている。私も酔い、そのまま海は白んだ。(2007年)

 

右翼の凶弾に倒れた山岡強一はいった。やられたらやりかえせ。それは、オトシマエをつけること、そして体をはって繋がること。主張するために構内に入った学生を、待機させた私服に「建造物不法侵入」で全員パクらせる某大学の近傍で、そんなことを考えていると、とうとう寝込んでしまった。とびきり暑い今年の夏、一日中横になりながら、河上秀の『留守日記』と大塚有章の『未完の旅路(全六巻)』を読む。言葉がストンと腑に落ちた。過去が今を勇気づける。(2008年)

 

軍に殺された人々の前で献歌をした彼の唄声は、不思議なことに二重の音程をもっていた。本人の声に答えるように、降りてきた別の声が重なるのだ。石油備蓄基地反対闘争をにない、公安と右翼から信じられない攻撃を受けてきたその彼は、夜、名瀬の居酒屋で黒糖酒にまみれながら、吼えた。「俺は自分のために闘ったのではない」。その声にも、他者の声が舌語のように介入する。うるさいので誰かが注意した。「声の出し方ぐらい俺の自由にさせろ」。今年出会った素敵な言葉。密かに私も声の練習をしている。(2009年)

 

以前日本学にいらした中村生雄さんが、7月4日の朝、他界された。直前まで書き込まれていた彼のブログには、中村さんにピッタリと寄り添い離れようとしない自身の死が、苦痛として、また日々の喜びとともに綴られている。「生きることへの単純な貪欲さ」。緊急手術直後の四月初めには、このような言葉が記されている。それはまた、言葉を遺すことへの執念かもしれない。そして読む者には、凛とした爽快感が伝わってくる。あの、はにかんだとびきりの笑顔が、そこにある。(2010年)

 

お気に入りの、フレーズがある。生物学者の彼は、自らの研究を省みて、次のように記した。「大切なのは、答えよりも問いであり、その問いをどう表現するかということだった」。また議論とは、立てられた問いが次なる問いに連鎖していくことに他ならない。議論がロンブン指導に置き換えられることがよくあるが、両者は別物なのだ。そして、問いにまみれていく中で世界は暫定的となり、未来に開かれていく。「未来をつくりだす機械」。彼は研究行為をこう表現した。その通りだと思う。どうか、忘れないで。(2011年)