火曜会

火曜会は、言葉が帯びる身体性を押し隠すのではなく、それを多焦点的に押し広げることこそが研究行為ではないか考えています。また研究分野の境界は、分野の前提を再度議論する中で、連結器になるとも考えています。

昭和10―11年「デカダン論争」の問題圏―保田與重郎とポスト・マルクス主義(火曜会通信1)

(火曜会通信については、アーカイブにある火曜会通信(創刊号)をご覧ください。)

 

2014年5月21日(第22期)

福岡弘彬(報告者)

 

本報告では、昭和10―11年、主に文壇を中心に議論されていた「デカダンス」問題について、「日本浪曼派」の中心人物である保田與重郎を焦点として文脈を発掘―再構成し、彼の目論みとその失敗を意義付けた。昭和10年10月、保田は雑誌「日本浪曼派」に「主題の積極性について(又は文学の曖昧さ)」を発表する。彼はこの晦渋な芸術論において、自分たちこそがポスト・マルクス主義を担う者であることを、「デカデンツ」の語に託し宣揚した。この語を符牒とした一枚岩の「僕ら」=「日本浪曼派」を偽装する保田であったが、しかし彼が同グループやその随伴者として想定した共同体〈内〉からも、その〈外〉からも、「デカデンツ」は罅入れられ、解体されてしまう。しかし、保田の想定した範囲とは異なる場所で、「デカダンス」が新たな「モラル」の母胎となり得るという認識が生じ、その力動性は戦後における坂口安吾へと系譜されることを報告した。

報告にあたり、私が意識裡に警戒していたこと、それは、保田が後にウルトラ・ナショナリストとして言論を展開していく、その転換の徴表を、捉え損ねてしまうことにあった。昭和10-11年という時期を対象にする限りそのポイントを捉え損ねてはならない、もしそうすれば、それは彼の戦時中の営為を追認してしまうことにつながる、という思いが、どうやら大きく思考を左右していたことに気付く。報告後の議論の過程で浮かび上がったのは、報告者の如上の懸念と、それによって無自覚に行っていた、保田の言葉に対する過度な牽制、そして、テクストに刻まれた”あり得たかもしれない可能性”の「捉え損ね」であった。討論の中で、保田が「批評家」たちの「文化概念」における「言葉」の不在を憤っていること、また、「キングや流行小説」を批判していることが読み込まれ、「主題の積極性について(又は文学の曖昧さ)」に胚胎する、全体性への、ひいてはファシズムへの対抗論理が開示されていった。また、保田の唱える「僕ら」の問題を、文学を研究している私の問題として考えること、「僕ら」の一人として報告者があり得たかもしれないことを起点に思考を展開する方法が、示唆されたように思う。予期しない方向に開かれ続けた、スリリングな議論によって、私が閉ざしていた、そしてこれから面白く問題化できるような、多くの可能性を発見できた。みなさんありがとうございました。