『「原爆の絵」と出会う』と出会うー「火曜会」という構想(10)
特集についてー『「原爆の絵」と出会う』と出会う
(『日本学報』27号、2008年3月に掲載)
冨山一郎
Ⅰシンポジウム
「記憶ということが、いろいろな場でよく問題にされる。このシンポジウムで行ないたいのは、いわゆる記憶論ではない。だが同時に、ただ経験を語り合うことでも、それを聞くということでもない。記憶と呼ばれる領域を、聞き、記すことにおいてこそ、なしうることを、徹底的に考えたいのである。そのためには、理論と呼ばれるもの、論文とよばれるものも重要だし、また感情や直感も同様だ。そのような言葉の分類表の領分を守ることが重要なのではない。考えるためには、言葉の全てが大切なのだ。記憶を記すこと、この一点において何がなしうるのか、なしえないのか、このことについて直野章子さんの『「原爆の絵」と出会う』(岩波書店)を手がかりに、共に考えたいと思う。」
昨年の八月二日、このような呼びかけ文とともに、直野章子さんの『「原爆の絵」と出会う』(岩波書店 二〇〇四年)をめぐってシンポジウムを開いた。田中菜穂子さん、門野里栄子さん、張紋絹さん、鄭柚鎮さんの4人が、それぞれ事前にペーパーを作成し、直野さんに読んでもらった後、直野さんも含めて討議をするという形をとった。当日の討議は錯綜し、どちらかというと仕切ることに自信のあった司会の私も、中途からその役を放棄し、議論は重層的に散乱したまま懇親会に継続していった。そして数日後、この散乱したまま拡張し続ける議論とそこで生まれた関係こそが、文字どおりこの本のもつ力にかかわっているということに、気づいたのである。
このシンポジウムを軸として、本号の特集を設定した。その冒頭に当たり、所収の個々の論考の説明は、まったく不要だと考える。なぜなら、この特集に所収した論考は、ある結論を目指しているわけではなく、むしろこれからも継続する討議を担う媒介だからである。ここでは、こうした討議をめぐる経緯を説明すると共に、私にとって同書の力をどのように受け止め考えるのかというということについて、言及しておきたいと思う。
東京でのある会議で、直野章子さんから『「原爆の絵」と出会う』をいただいたのは、もう四年近く前のことだった。帰りの新幹線の中で、一気に読んだ。原爆投下の出来事は、世界中の人々が知っている。だが、知っていると同時に、何が起きたのか想像すらできないということも、多くの人がうすうす感じている。何も知らないということを押し隠して、知っていると語る欺瞞。そしてこの本の中の言葉たちは、欺瞞を抱えた私を崩壊させ、こうした崩壊感の中で浮かび上がる不安に駆られた私の輪郭を、丁寧に縁取っていった。だが、そのときはまだ、この本の力を十分には分かっていなかった。
七一頁の同書が、ただならぬ力を持つことを思い知らされたのは、この本を演習などのテキストとして取り上げ始めてからである。四八〇円という価格的なことも手伝って、一回生を中心とした演習でまず読み始めたのだが、そこで生じたことは、あえていえば、正しい原爆についての知識を得るということとは対極にあるような事態である。ほんの数行の記述をめぐって延々と議論が続き、その終わりのない道程の中で、多くの人がこの本に魅かれ、また激しく反発しながら、それぞれの言葉のありかをさぐるように語りだした。その言葉たちは、感情的でもあり、また理屈っぽくもあった。しかしいずれにしても、想像しがたい出来事を前にして、それぞれの身体のありかを演習という集団的な行為において確保しようとしているように見えた。一体何が起きているのだろうか。このパンフレットのような冊子は、何を生み出しているのか。
Ⅱ「状況に置かれた知」
ところで、演習という場が、正しい知識の伝達の場ではないことは、かなり以前から感じていたことだ。共に討議をするということにおいて生じる「共に」という集団性に、学知なる領域において分割され整理され統括されている「知る」という行為を解放できないか。集団性を生成さす行為として、「知る」という行為を確保することはできないのか[1]。こんなことを考え始めたのは、多分、この国のアカデミアにおいて、「構築主義/本質主義」などという対になったアホな言葉が流通し始めて以降かもしれない。普遍的な真実性に裏打ちされた学知や科学的事実は歴史的、社会的に作り上げられたものであり、こうした真実や科学への系譜学的批判を遂行することは、極めて重要である。だが、それぞれが構築された真実だと、ただ言い換えることに、何の意味があるのだろうか。もちろんそれは普遍を擁護することではない。真実性の形成を系譜学的に再検討する営みに対し、この構築主義という言葉をレッテルとして貼りつけ排撃することにも、ただの保身しか嗅ぎとれなかった。
こうしたある種の危機感は、たとえばこの特集で鄭柚鎮さんが言及しているダナ・ハラウェイのいう「状況に置かれた知(situated knowledges)」においても共有されているように思える。ハラウェイは一九八八年に『フェミニスト・スタディーズ』(Feminist Studies 14, 1988)に「状況に置かれた知:フェミニズムにおける科学という問題と、部分的視覚が有する特権」という論文を掲載した。この二〇年前の論考においてハラウェイは、普遍的科学に対する批判として登場したフェミニズムにおける、構築主義と呼ばれた潮流への批判的介入をおこなっているのだが、その内容は、いまだにきわめて重要であると考える[2]。
科学的客観性が客観性という記号に関わる言説的秩序であることを明かにし、この秩序が全ての知識を体系化しながら、同時にそれらを監視するという権力的作用を持つことを批判していく作業の重要性を、ハラウェイも否定しない。だがそれは、「ある種の認識論的電気ショック」でしかなく[3]、逆にこうした暴露の流行は、個々の具体的な秩序にかかわる実践的問題を見失わせていく。その結果、実践の根拠は経験という領域に向かうことになる[4]。真実性を構築物だと暴露して幕を引く傾向と経験への陥没が重なり合いながら、さらにこの傾向は、それぞれの経験の尊重という相対主義的な態度を生むことになるだろう。あるいは、実践において重要な根拠として使える経験とそうでないものを決定する経験の序列化。経験をめぐる相対主義と利用主義的な序列化に対し、ハラウェイは、暴露において批判した気になっていた客観性に対する再検討を主張する。この地点におけるハラウェイの介入は、経験主義批判としての客観性の擁護と、権力的な普遍的科学への批判を同時に遂行するものだ。「状況に置かれた知」とは、こうした科学的客観性とそれへの批判として登場した構築主義が共犯的に絡まりあった状況への介入として、提起されている。
「相対主義に代わりうるのは、可能性としての関係性の網の目―政治では連帯と称され、認識論では共有された会話と称されるような関係性―を持続させるような、部分的で、位置を確定することができ、批判的な知である。相対主義とは、あらゆる位置に等しくいるのだと主張しつつ、どこにもいないというやり方である。」[5]
普遍主義と相対主義は、何かでいることを徹底的に消し去るか、全てでいることにおいて何かでいることをごまかすか、の違いでしかない。そしてハラウェイは、絡まりあった共犯的状況から抜け出し、正しさの伝達でもなければ、真実性を暴くメタレベルの解説でもない、関係生成を担う知に向かう。また経験を関係の生成に変えていく知として、「実践としての客観性」[6]を構想するのである。ハラウェイがいうように、このような「状況に置かれた知」は、学知の系譜の中にすでに存在するのであり、それらをいかに抽出し、再構成していくのかという作業を放棄してはならないのである。またこうした問題意識は、前述したように一貫して私の中にもあった。試行錯誤のなかで大学のゼミを「火曜会」という名称として動き始めだしたのも、正しさの奪い合いでもメタレベルでの解説的暴露でもなく、こうした関係生成的な知にこそ、討議の軸をおきたかったからである。そしてこの『「原爆の絵」と出会う』を読み、討議していく中で浮かび上がってきたのも、こうした知のありようだったのである。
この特集は、二〇〇七年七月から八月にかけて、日本学の集中講義にいらっしゃった直野さんと共になされた様々なやりとりの中で生まれた。それは講義の場であったり、シンポジウムの場であったり、飲み屋の場であったりした。また直野さんにも、こうした様々な場での継続中のやりとりをふまえながら、長い論考を寄せてもらった。そうした関係が生まれていく場を特徴付けるのは、共感や賛同ばかりではなく、強烈な違和や反発も含まれている。またそれは、鄭柚鎮さんの論考が示すように、多くの場合アカデミックな討議の場では禁止される、「吐き気・つぶやき・めまい・頭痛・ためいき・涙という身体の合図」を、言葉が生み出す関係の中にしっかりと確保することでもある。そのときの言葉は、決して一つの結論に帰着することなく、関係を媒介し続けるだろう。「状況に置かれた知」にとって、一つ考えをマスターすることやそこに正しさを付与することが問題なのではないのだ[7]。関係性をその知識が担うことこそが重要なのであり、その関係性とは仲良しクラブの賛同サークルでもなければ、真実性において序列化された知の序列構造でもなく、違和や反発、吐き気やめまいを含みながら、それでも共に言葉を交わし続けるという、未来に投企された継続中のプロセスとしてある。
それは、私が新幹線の中で味わったような崩壊感と共に、自らの身体を討議という場において再度確保していくような営みである。たとえば、特集に所収されている田中菜穂子さんの論考がとりあげた、不意に訪れる涙の到来という身体変容の合図。討議の場は、こうした予期せぬ身体の合図に、いつもさらされている。多くの場合その到来は、議論にふさわしくないこととして禁止されるか、個人の症状として解読されるか、だろう。だが、そこで言葉は停止しない。その身体をめがけて押し寄せる禁止と解読が入り混じった過剰な意味付与に、その身体の合図を委ねてしまうことに抗いながら、依然として言葉を捜し続けるのである。
田中さんが見事に示したように、自分ではどうすることもできない涙は、依然としてどうしようもないのだが、同時にそのどうしようもなさは、他称として押し寄せる意味付与に抗しながら、どうしようもない身体をもつ自分の経験として確保されていくだろう。それは張紋絹さんが、同書を読み、想像すらできない断絶を前にして無力感と焦りに襲われながら、にもかかわらず「そのとき感じた恐怖、切なさ、哀しみ、涙、自分の全ての情動と身体感覚は確かなものであった」と言い切ることでもあるだろう。それぞれの身体が、同書を起点とした関係において再確保され続けているのだ。
「<涙>の意味が変わった」。それは、感傷やお涙頂戴とは全くもって別の展開である。討議の場にあるのは、あえていえば、涙の到来にさらされながら、涙それ自身には一切の意味を固着させないという硬質な意思だ。変容を禁止したり、個人の症状として過剰な意味付与と共に定着させるのではなく、言葉として引き継ぐこと。涙は、変わりつづけるのだ。もし私たちという言葉を使いうるとしたら、それは均質な共通認識や真実性への同意においてではなく、あるいは前提とされる共通の経験でも断じてなく、この身体の合図に対する強固な意思なのかもしれない。そして私たちは、こうした意思の中で、『「原爆の絵」と出会う』に出会い、読み、討議をしたのである。この特集は、共同討議とそれぞれの身体が交差した地点において生まれた。それは個人でもなければ個人を合わせた集団でもない討議空間である。表面的には散乱したシンポジウムでの討議とは、この討議空間における集団性の徴候に他ならないということに、ようやく気がついたのである[8]。
Ⅲ能動的に経験するということ
「パット剥トッテシマッタ アトノセカイ」。原民喜のこの一文に、直野さんは原爆が引き起こした事態に対する決定的な意味を見出す。だがそれは、「意味を見出すことができない」という意味である。「言葉とその意味との関係が崩れてしまったのかもしれない」[9]。言葉は何かを指示することなく漂い、指示されるべき存在は言葉との関係を喪失したまま、ただモノとしてたたずんでいる。そこで示されているのは、悲しむべき対象としての悲惨さということではなく、あえていえばそうした悲惨ということさえ剥脱された状態、悲しむことさえ不可能な状態である。それは最も経験しているはずとされている人々が抱え込んだ、経験の崩壊である。そしてこうした人々は、「アトノセカイ」に散乱する意味を持たないモノたちとともにいるのだ。「モノとしての死」[10]。この言葉からは、圧倒的存在としての死と、それが剥脱されたあとであるというが、同時に表現されているのだ。
こうした「アトノセカイ」の絵を描くということは、いかなる行為なのだろうか。この本で取り上げてられている「原爆の絵」は、一九七四年と翌年の七五年、NHK広島放送局の呼びかけで集められたものである。「広島市とその周辺での被爆後の状況をあらわす絵」の募集がなされ、二千二百枚もの絵があつまった。それから三〇年余り経た後、直野さんは、絵とともに絵の作者を訪れた。この『「原爆の絵」と出会う』は、直野さんと、絵の作者、そして絵という三者の出会いにおいて構成されているといえる。そしてこの出会いの始まりとして、「アトノセカイ」を描くという行為が存在する。
それは言葉にはできないが、映像として記憶しているということなのだろうか。だが、本書からは映像としても記憶できない、視覚の混乱とでもいうべき事態が浮かび上がる。どんなに眼を凝らしても、死者たちが、小鯵や大根にしか見えない。視覚的記憶という言葉をとりあえず使えば、視覚においても何を見ているのか分からない経験の崩壊が起きている。分からないのだ。しかしそれは、何もないということではない。「絵でも言葉でも表現しきれない焼きついた記憶」[11]。それは、あるのだ。そして直野さんが行なった、この「焼きついた記憶」という存在論的規定は、極めて重要だ。
ここで都合のよい経験者(あるいは非経験者)とか当事者(あるいは非当事者)といった言葉を持ち込んで、この「焼きついた記憶」を納得しないでおこう(特集所収の、直野さんの論考を参照されたい)。経験を、経験をした当事者である個人の経験とすることも、経験内容の表面的アナロジーや代数的同一性において経験を集団の経験とすることも、「焼きついた記憶」が経験の限界に位置していることを看過している。あるいはあえて看過することにより、個人や集団を経験において根拠付けている。そしてこうした個人と集団に関わる思い込みこそ、モノたちの傍らにいるものに対し、経験者は経験しているはずだというトートロジー的な強要を生むのである。またそれは、戦争の悲惨さということで、「ヒロシマ」を他の殺戮と並置させていく歴史認識にも共通するだろう。だがしかし、アイロニカルにいうならば、経験者こそ経験していない。そして同時に、モノたちの傍らにとどまり続けるのである。
今ひとつ重要な論点は、こうした経験の崩壊が、経験すべき経験の欠如ではないということである。経験すべきだった経験内容をあらかじめ想定した欠如規定は、経験者という言葉の延長線上にある。そして「焼きついた記憶」は、欠如ではない。それは、あるのだ。欠如、あるいは廃墟というメタファーを、そしてそれに伴って構成される欠如の補填、あるいは廃墟の回復という時間を、この「焼きついた記憶」は拒否しているのである。廃墟が、しばしば、回復すべき価値の根拠となり、そこからは閉じた内部性が登場するだろう。米山リサが、共感できる犠牲者とそうでない犠牲者を区分していく共感共苦の境界線と述べるのも、この内部性の問題だ。排外的なナショナリズムはその典型だろう[12]。だが埋めるべき欠如ではなく、圧倒的な「焼きついた記憶」からは、補填や回復とは異なる別の道程と内部性に帰着しない集団性が生み出されているのではないだろうか。
「アトノセカイ」のモノたちが、何であるかは分からない。と同時に圧倒的な存在として焼きついている。では誰に焼き付いているのだろうか。モノたちの傍らにいるのは、はたして誰なのか。このモノたちの傍らにいるのは誰なのかという問いは、経験を根拠にした個人や集団とは異なる集団性の問題であると同時に、補填や回復とは別の道程に関わっているだろう。ところで直野さんは、この本の最初の章で次のように記している。
「描ききれないもどかしさ、伝わらないだろうと虚しさと格闘しながらも、絵の作者たちは、原爆が落とされた『アトノセカイ』の一端を私たちの前に差し出してくれた。」[13]
これは、なんでもない文章に思える。だが、ここで「描ききれない」のは、あまりにも悲惨だからではなく、「伝わらない」のは経験しなかった者たちには想像できないということでもなく、さらに「差し出」す行為は、経験者の悲惨な経験の非経験者への伝達でも断じてない。描くことができず、また伝えることができないのは、経験を伝えることが強要されている者たちの経験が、すでに剥脱されているからであり、にもかかわらず差し出されたのは、「焼きついた記憶」なのである。そこでは、経験者が非経験者に経験を伝達するという方向性を持った行為とは決定的に異なる行為の連鎖を想定しなければならないのだ。そしてこの連鎖こそ、絵を描くという行為に関わっているのではないだろうか。
大根に見えた死者を大根として描く時、この描くという行為において獲得されるのは、経験するという能動性ではないだろうか。またこの時、モノはすでにモノではなく、大根はすでに大根ではない。モノ化された異常な事態に抗う営みとして、この能動性があるのではないだろうか。それは、異常事態を欠如としてとらえ、補填していくこととは違う道程である。あえていえば、描けない記憶を描こうとする時、描けないということが経験として獲得されるのであり、欠如を埋めるのではなく、経験の崩壊を経験として獲得するという能動性こそが、すなわち描けないという圧倒的な受動性を前提にした能動性こそが、描くという行為において確保されているのではないだろうか。この能動性においては、「焼きついた記憶」は、決して個人や集団を根拠付ける経験にはなりえない。この経験していくという継続的行為において、所有物となった経験の伝達とは異なる関係性や集団性を考えることはできないだろうか。モノたちの傍らとは、この能動性において生まれ続ける関係性のことなのではないか。描くという営みが確保したのは、モノたちの傍らから始まる関係性であり、その生成が予感させる未来なのではないだろうか[14]。
経験として提示された悲惨の救済が、反戦や平和にかかわる社会運動の組織性を大きく規定していることはいうまでもない。その際、被害経験あるいは被害者という領域が動かしがたい運動の根拠として据えられている。だがくりかえすが「焼きついた記憶」を描くという行為において重要なのは、どのような被害経験を据えるか、あるいはその経験を非経験者としてどのように受け止めるのか、ではない。いいかえれば記憶を経験者の所有物であること前提にした上での伝達ではなく、経験の崩壊を崩壊として経験しようとする、すなわち大根を大根として書くという能動性にこそ、「焼きついた記憶」を描くという行為において始まった端緒があるのではないか。そしてこうした経験の能動性にかかわって、社会運動の組織性を検討し、その可能性を想像することはできないだろうか。
Ⅳ警句としての記憶
ところで「パット剥ギトッテシマッタ アトノセカイ」が記された原民喜の「夏の花」には、読むものの体を凍りつかせる箇所がある。「スベテアッタコトカ アリエタコトナノカ」[15]。あったかもしれないこと。あったかどうか不確かならば、そのことを過去の出来事にしてしまうわけにはいかないのだ。この混乱した時制は、日常の潜在的位置におかれた異常事態が、いまだに世界にとりついているということを、感知させる。すなわち原民喜のこの一文は、「焼きついた記憶」が日常世界に潜在する警句として存在していることを、示しているように私には思えるのだ。あるいは黙示録[16]。またこうした警句において、同書に登場するデパートのマネキンが全身火傷の死体にみえるという石川文恵さんの話を受け止める時、やはり私は凍りつく身体を感じる。「焼きついた記憶」としてある異常な事態は、「アリエタコト」として、そして依然としてあり得ることとして、世界に潜在しているのだ。特集所収の論考で門野さんが「トレース」という言葉で掴み取っているのも、想像しがたい「出来事と日常が接続しようとする場」が開示する未来への警句的な予兆である。かかる予兆の中で、私の体は凍りつく。だが凍りつく身体は、やはり、別の身体に向けて動き出す合図なのかもしれない。またそこにこそ、言葉がなしうる領域があるのではないか。
私にとってモノたちの傍らということが重要なのは、「焼きついた記憶」としてある異常事態が、あり得ることとして常に待機しているということにかかわっている。今に続く戦争状態の中で、原爆の暴力は執行可能な待機中の暴力としてある。世界は、常態として「アトノセカイ」であるかもしれない。そしてこの常態として待機している暴力は、マネキンが突然死体に見えてしまうといった圧倒的な受動性において感知されているのではないだろうか。それは想像力の外から不意に到来する脅威でもあるだろう。だが描くことにおいて獲得されるのは、この暴力を暴力として経験するという能動性、「アトノセカイ」を「アリエタコト」として、そして、あり得ることとして経験するという能動性ではないのだろうか。そしてそこに、別の未来を獲得する道程を考えることはできないのだろうか。
もう十年以上前に刊行した『戦場の記憶』でも、広島の原爆について考えた[17]。そこでは、原爆にかかわる記憶を、総力戦の中で形成されていく日常性と戦場が重なり合った社会への抵抗の拠点として、極めて理念的に取り上げてしまった。総力戦は、量においてしか意味を持たない人間の生と死を構成していく。原爆は総力戦の最も純化した暴力の形態であり、こうした暴力が強いる生と死に抗うこととして、記憶の想起を設定したのである。
たとえば、原爆ドームを中心とした同心円が幾重にも重ねられたあの地図と、その面に埋め込まれた死者たち。またその同心円は、生き残った者たちに対し、「どの程度の」被爆なのかを判定する法の規準としても、いまだに作動している。この同心円に示されるような、死者と生者が等しく単一の代数的平面に埋め込まれていく事態として原爆を考えていたのであり、それは戦争状態が継続する今にまで続いている。こうした今も続いている代数的平面に埋め込まれてしまった生と死に対し、たとえば勤労動員を休んでいたがゆえに死をまぬがれた関千恵子は、その地図の上に、死んだ級友たちのそれぞれの死の地点を、一人ひとりの記憶とともに記していく[18]。こうした関の記憶の想起を、量においてしか意味を持たない対数平面に対峙させて考えたのである。
だが私は、『戦場の記憶』を書いた時には、この地図に級友を記す関の行為を、代数的平面への抵抗として理念的あるいは図式的に想定していたと思う。総力戦を理念的に想定し、それを前提にして関の記憶を対抗物として想定した。そしてこうした枠組みは、直野さんのこの本により崩れだし、何も分かっていないということ、想像することすらできない事態であることを、思い知らされるのである。また直野さんが集中講義で取り上げ、特集所収の論考でも検討されているデュラスとレネによる「ヒロシマ・モナムール」も、私が行なった原爆の暴力と総力戦の理念的な重ね方への根本的な批判に他ならない。アナロジーや理念的共通性ではなく、想像すらできない出来事に関わる経験が個人と個人を媒介にし、個人を越えて広がっていくプロセスにおいて、ヒロシマとナチズムのかかわりは理解しなければならないのである。私が『戦場の記憶』で描いた原爆は、経験の崩壊がこうした全体と部分あるいは集団と個人にかかわる想定を根本的に問題化するということに、あまりにも無頓着であった。
そしてこの本に出会って、何よりも、想像できない出来事をそれでも描こうとする行為の圧倒的な力に、たじろいだのである。それは、同心円に支配された地図に級友の名前を刻み込む関千恵子の行為がもつ力に、気付くことでもあるだろう。力は理念的な対立図式にあるのではなく、この記すという遂行的行為の中にある。この点を見過ごすならば、関の行為から戦争状態に対する抵抗の根拠を考えようとした私は、再び図式的な代数平面に、死者や生者を埋め込むことになるだろう。
「佐藤=ニクソン会談の共同声明を待つ一九六九年十一月二二日の深夜、沖縄は四分の一世紀にわたって蓄積された〝言うに言われぬ屈辱〟をのんで、すでに裏切られた夢の断片からわずかな希望でも見つけられはしないかと、あたかも藁をつかむ溺死者のように、不眠のもがきを続けた」[19]
川満信一が「わが沖縄・遺恨二十四年」において記したこの一九六九年十一月二二日の深夜は、私は何度も引用し、そしてそれでもいまだ想像できない状況である。それは、「これは自分の狂気が、かろうじて精神病院の鉄格子の中へぼくを引きずりこまないように抑制するためのカタルシスなのだと思う」という、この文章の異様な書き出しにもかかわっているが[20]、この引用文の書かれた状況をとりあえず説明するならば、一九七二年における沖縄の施政権の日本への返還を決定した「佐藤=ニクソン会談」がある。それは、復帰に何かしらの望むべき未来を賭けていた人々を、決定的に裏切る内容だった。この会談において、基地そして核兵器が沖縄の地にとどまり続けることが、明確になったのである。川満はその中で、自らの住まう日常を、核攻撃を念頭におきながら批判していくのである。
ところで沖縄への核配備は1950年代から密かに始まり、この川満の文章が書かれたときには、約1200発の核爆弾が配備されている。それはアジア太平洋地域の核配備の実に三分の一に当たる。またその実態は、この時点では状況的な徴候としてしてのみ流布されていた。そして今もなお、嘉手納基地には核貯蔵庫はある。
「沖縄にはこれからも核基地があるだけで、そこに居住する百万人の人間は、後にも先にも、生きたままで死亡者台帳の中の頭数とみなされているに過ぎない」[21]
生きたまま、死亡者台帳に計量されているという日常性を、川満は言葉にしようとしている。そして、毎日の日常を死亡者台帳の中で理解する川満の驚愕すべき想像力に、継続中の戦争状態に抗する可能性を考えたいと思う。くりかえすが、「アトノセカイ」は想像することができない。と同時にその想像できない事態が日常の中で潜在的に継続していることを、どのように経験するのかということこそが、重要なのではないだろうか。想像できないことに、自ら住まう世界は、依然としてさらされている。そしてこの自らの日常を、「アトノセカイ」とは別の日常としてではなく、想像し得ない事態にさらされている日常として生きること。能動的に経験すること。そこに、「過去の過ちを繰り返すな」ということとは異なる、戦争状態への感知や抗いがあるのではないか。
こうした問いの中で私は、『「原爆の絵」と出会う』に出会ったのだ。そしてこの出会いの中で抵抗にかかわるこうした問いは、モノたちの傍らにいるということを能動的な経験として獲得していく道程においていかなる関係性や集団性がうみだされていくのか、またこうした関係性や集団性が経験者と被経験者が分断された関係や内部的価値を基盤にした集団に帰着することなく生成し続けることを、いかに確保するのか、という問いとして再設定されることになる。
Ⅴ分析的関係の生成、あるいは研究者の身体について
あらゆる回路を駆使して、この「アトノセカイ」に散乱するモノたちを知覚することから始めなければならない。この始まりについていえば、「散乱するモノたち」と表現したのは超然たる観察者だが、それを拾い集めているのは誰なのかという問題であり、それは、解釈として「意味を剥脱されたモノたち」として表現されたモノと、それを拾い集めるという行為において発見されるモノの違いにもかかわる。いいかえればモノたちは、解釈を行なう分析者を拾い集める実践者へと転轍させるのだ[22]。あるいはこういってもよい。このモノたちを、修辞学的な解釈学、あるいは言葉の外を分析的に言葉にする精神分析学的知のすれすれのところで、行為のなかに確保しなくてはならないのだ。それは同時に、特集に所収されている直野さんの論考にも示されているように、こうした学的な知が、モノを前にした受動と能動が錯綜する関係の生成にとって、依然として重要であるということでもある。またそれは、学術用語を登場させることなく書き進められているこの本が、学知とのヒリヒリする接近戦の中で遂行されていることにもかかわる。
最後に、圧倒的な受動性において受け止めざるを得ない「焼きついた記憶」を能動的に経験するということが、行為の連鎖として拡張し拡散していくプロセスを、法則的にではなく実践的に維持するために、分析者ということ、あるいは作者ということについて、同書ならびにこの特集に現れた直野さんと五人の報告者によるシンポジウムという場に言及しながら、四つの論点に整理して考えてみたいと思う。
①第一の論点、分析者の受動性について。
シンポジウムの場において、ある参加者から、同書における直野さんの分析基準が一定ではないことが指摘された。この質問は、極めて重要である。重要だというのは、一つの立場から分析を行うべきだという教訓をそこから引き出せるからでは、ない。この質問では、「原爆の絵」とその作者の語りから、原爆にかかわる記憶を分析するという、分析対象と分析という行為、そしてその行為者である分析者が想定されているが、この構図を確認しておくことは、同書が何を遂行しているのかということを考える上で重要なのだ。こうした構図の中では、分析視座や分析方法をまず確定することが要求されるのだが、同書においては、それは固定されていない。「原爆の絵」、絵の作者、直野さんの三者がおりなす即興的なやりとりに、分析が振り回されているのであり、そこから浮かびあがるのは、分析という行為における分析者の受動性である。あるいはこういってもよい。分析行為は分析者に何をもたらすのか[23]。
このような問いは、アカデミアにおいては問い自身が抹消される場合が多い。なぜならこの問いからは、超越した観察者であるべき研究者が被傷性をおびた身体を持つことが、浮かび上がるからである。またそこでは、結論を求めてしまう学的営みが、遂行的な意味を帯びだすだろう。こうした研究者の身体は、分析行為が分析対象を支配し、操作するというポピュラーな問いとも深く連関するが、異なる。問題はまずもって行為者の受動性にかかわることであり、その上で分析対象を操作する力が、認識論に閉じた言説空間ではなく、身体という物質性に関わることを示唆している。分析が分析対象への働きかけであると同時に、分析者自身への働きかけであるということが、行為において浮かび上がるのである。分析においてこそなしうる関係の生成が、そこにはあるだろう[24]。
②第二の論点、作者という問題。
これは、作者の真意というテキストの意味作用を決定的支配する統制的な位置を占めるという問題である。それはまた、「作者とは何か」という問いの中でM・フーコーが問題化した点でもあるだろう。作者とは「文章記述の始原的な場」であり、「言説の世界を取りかこみ、限定し、分節する法的制度的システムに結びつく」のだ。こうした統制的な作者の位置は、経験を描いたとされる絵においても決定的だ。だがしかし、同書ではこの絵の作者という立場が放棄されているのが分かる。いわば「焼きついた記憶」の前で、絵の作者の統制的位置は失われ、かわって登場するのが分析者である直野さんとの関係性である。そして第一の論点で述べたように、この分析者は被傷性を帯びた身体を持ち、受動的である。統制的な位置を失った作者と、受動的な分析者が関係を作るのだ。このどちらの主体も、がんらいの能動性を喪失した上での関係性を担う行為者である。それは、①で述べた分析的関係の生成ということでもあるだろう。
③第三の論点、能動的経験。
こうした分析的関係の生成において何がなされているのか。描くということが能動的な経験であることは、描くという行為に全ての根拠があるわけではない。同書から見えてくるのは、描いた絵を前にしながら、直野さんと作者がやりとりをしていく中で、描けない「焼きついた記憶」が経験として確保されていくという事態である。そこでは、②でのべたように、絵の作者という統制的位置は消失しているが、同時に経験を確保するという能動性を帯びるのは、分析者である直野さんとのやりとりの中である。すなわち本書の基本的な形は、三十年前に描かれた「原爆の絵」を前にしながら、直野さんと絵の作者がやりとりをするという構図になっているが、とりあえず乱暴にいってしまえば、絵を前にして作者も直野さんも絵の内容が何であるのかをめぐって分析的立場にある。自分が何を描いたのか、そして目の前にいる人が何を描いたのかという重なり合う二つの問いかけの中で、「焼きついた記憶」が能動的経験として確保されていくのである。もちろんその経験が、作者が絵を描いた時点で確保されていたという理解もあるだろう。しかし私には、描くということが能動的経験として確保されていくのは、まさしく直野さんとのやりとりの中であるように思える。直野さんが訪れることにより、描かれた絵は「焼きついた記憶」と言葉の媒介として作動し始め、そこにおいて始めて言葉が生みだされているのではないか。それは、統制的な作者が絵の背景を語る行為とは、まったく異なる。
④第四の論点、シンポジウムという場。
それは、もう一人の作者である直野さんに関わることである。あるテキストをその作者と共に討議するということは、多くの場合その討議空間の性格を方向付ける。すなわちそれは前述した統制的位置にいるテキストの作者ということである。この位置については、一つには一般的なテキストと作者の関係であるが、もう一つは、分析者ということにもかかわっている。前述したように、分析者である直野さんは、一般に想定されている固定的な位置をとろうとはしない。分析者によって書かれたテキストが、作者によって統制される時、分析の一貫性という科学の立場が分析者である作者を援護する。だが①で述べたように、同書ではこの援護はない。それはあえて放棄されているのであり、その分、作者という存在が統制的な存在として際立って浮かび上がることになる。その結果、同書の記述は直野章子という存在によって根拠付けられるのであり、同書の記述をめぐる問いへの回答は、作者である直野さんの言葉において説明されることになるのかもしれない。
だが、そうはならなかった。ここにシンポジウムという討議空間の重要性がある。作者と共に討議する場において作者の統制的位置を報告者が壊していき、その中で複数の直野さんが浮かび上がっていったように思う。統制的位置からおりることは、原理的に直野さん一人では不可能なことであるが、その作業を担ったのが、この特集の論考も含めた討議空間なのだ。報告者は、分析的客観性でもなく、また作者である直野さんからの言葉を根拠するわけでもなく、自らの身体に到来する違和や吐き気や涙を受け入れながら、かつそこに押し寄せる禁止と解釈の個人化に抗いながら、思考を続けた。それは、独りよがりの感想を吐露することとは全く異なる行為なのであり、いいかえれば、「焼きついた経験」にかかわる能動的経験のさらなる拡張なのではないか。またそれぞれの身体性において作者である直野さんが浮かび上がるのだ。言葉の統制的位置からおりた直野さんは、討議空間において複数の身体を獲得したのだ。それこそ「学術ライブ」の醍醐味かもしれない[25]。また、統制的位置や分析的客観性に従属するのではなく、モノと身体に受動的であり続けながら、分析を遂行することが、集団性を獲得していくプロセスなのだろう。
いま四点にわたって整理してしまったが、これらは入り乱れ、しかも連鎖している。またこのような説明自身は、結論でもなんでもなく、ノリの悪い私のただのライブ報告である。重要なのは、「焼きついた記憶」という全ての人にとって受動的にしか感知できない起点から、描く、話す、分析する、討議するといった動詞において示される複数の行為が、反発や違和、めまいを伴いながら連鎖し、関係性が生成しているということであり、そこに新たな関係を接合さすことである。分析的知性とは、秩序化された言語の分類表に収まっているのではなく、こうした関係性の重要な一翼を媒介しているのであり、だからこそ「言葉の全てが必要なのだ」[26]。そしてまず同書を手にとってもらいたい。また特集の論考を読んでもらいたい。そして討議すること。言葉は連鎖の中で意味を持つのである。始まりは、そこにある。
[1]こうしたことを考えながら、すこし前に「研究機械」ということを提起した(「接続せよ!研究機械―研究アクティヴィズムのために」『インパクション』一五三号、二〇〇六年)。また関連して、冨山一郎「ユートピアたちー具体に差し戻すということ」石塚道子・田沼幸子・冨山一郎編『ポスト・ユートピアの人類学』(人文書院、二〇〇八年)も参照されたい。
[2]ダナ・ハラウェイ『猿と女とサイボーグ』高橋さきの訳、青土社、二〇〇〇年。
[3]同、三五五頁。
[4]ハラウェイは、こうした暴露の流行の先に、経験主義と同時にマルクス主義の再評価を掲げる。「マルクス主義という出発点は、我々なりの各種の立場論に到達するためのツールの数々、たゆみない具体化作業、実証主義や相対主義によって力をそがれていない豊饒なヘゲモニー批判の伝統、そして媒介行為についての陰影のある理論を提供したのである」(ハラウェイ『前掲書』、三五七頁)。ここではこの重要な論点を検討することはしないが、それは関係生成的な知が、まさしく運動における組織論の問題であり、ハラウェイのいう「状況に置かれた知」が何をなそうとして提起したのかということにかかわっている。
[5]ハラウェイ『前掲書』三六六-三七七頁。
[6]同、三六七頁。
[7]知識を獲得する者は、学的正しさを手に入れた研究者としての自己を手に入れるのではなく、「常に構築途上であり、不完全に縫い合わされていて、であればこそ、他者であることをことさらに主張することもなく、他者と結合したり、ともに見たりすることが可能なのである。ここに、客観性が保障される」のである(ハラウェイ『前掲』三七〇)。完成された分析者が客観性を確保するのではなく、不完全さが他者との関係を生み、そこにこそ客観性があるのだ。
[8]この集団性ということこそが、場や関係性を考える上で極めて重要な要点になる。注1を参照。またフェリックス・ガタリのいう「隷属集団」と「主体集団」という概念的区分を、研究組織において実践的に設定をしていくことこそが必要であると考える(フェリックス・ガタリ『精神分析と横断性』杉村昌昭・毬藻充訳、法政大学出版会、一九九四年)。
[9]直野章子『「原爆の絵」と出会う』岩波書店、二〇〇四年、十一頁。
[10]同、二一頁。
[11]同、七頁。
[12]米山リサ「二つの廃墟を越えてー広島、世界貿易センター、日本軍『慰安所』をめぐる記憶のポリティクス」(小沢祥子・小田島勝浩訳)冨山一郎編『記憶が語りはじめる』東京大学出版会、二〇〇六年。
[13]直野『前掲』二十頁。
[14]それはこの『「原爆の絵」と出会う』が、祈りや、継続する喪中に包まれていることとも関連するだろう。川村邦光は、ルネ・シェールのいう「歓待」に言及しながら、こうした喪の生み出す集団性が、「予想だにしない者の到来」に開かれているのであり、弔われる存在としては受動的な位置に据え置かれた死者が、圧倒的な能動的主体として、人々を「歓待」することを指摘している。さらに川村はこうした喪が、主/客、自己/他者という二項ではなく、両者を媒介する存在としての遺族により、「円環的な流動性」をもつとする。弔いについてのこうした川村の議論は、閉塞することなく生成する関係性を考える上で、極めて重要である。とりわけ死者の最も近い位置から死者を代弁することを当然のこととして自明視される遺族を、到来する他者への媒介と位置づけた点は、「モノの傍らにいる」ということを、位置にかかわる問題ではなく、関係媒介的な作用として考えるべきであるこことを示唆している。川村邦光「誰が死者を弔うかー弔い論序説」『岩波講座 宗教 第九巻―宗教の挑戦』岩波書店、二〇〇四年。
[15]「夏の花」より、詩の全文を記す。『原民喜戦後全小説 上』講談社、一九九五年、二七-二八頁。
ギラギラノ破片ヤ
灰白色ノ燃エガラガ
ヒロビロトシタ パノラマノヨウニ
アカクヤケタダレタ ニンゲンノ死体ノキミョウナリズム
スベテアッタコトカ アリエタコトナノカ
パット剥ギトッテシマッタ アトノセカイ
テンプクシタ電車ノワキノ
馬ノ胴ナンカノ フクラミカタハ
ブスブストケムル電線ノニオイ
[16]ウイリアム・ヘイバーが、広島第一高女時代に被爆した竹西寛子の短編集『儀式』と、同じく疎開先で被爆した大田洋子の『屍の街』を「黙示(apocalypse)」としてとりあげとき、それは、絶対的に証言できないことを証言することが作りあげる歴史性(historicity)と社会性(sociality)が、すでに全壊滅(the utter annihilation)をかかえもった歴史と社会の、極めてラディカルな歴史性であり社会性であることを意味している。ヘイバーにおいてこの全壊滅は、概念化や真実性など認識を決して受付けることのない、ただ存在論的に待機している状態であり、そこでは相同の顔を持つ全体主義的なモノとしての人間存在が想定されている。ヘイバーの議論については、エルンスト・ユンガーの『総動員』(一九三〇年)ならびに大著『労働者』(一九三二年)から、経験の外部にテロス(telos)として存在し続け、テロスであるがゆえにすでに歴史と社会を制御不能の目的因として決定付けている全体主義を、夢として抽出し、すでに開始されている歴史の道程を、夢を見続けながらただ前に進むしかない回廊して描こうとした奥野路介とともに、稿をかえて検討したいと思う。William Haver, The Body of This Death: Historicity and Sociality in the Time of AIDS, Stanford University Press, 1996. とくにchap.3を参照。奥野路介「機械と純系―『全体主義』の回廊とは何かーヨハンセン・ユンガー・アーレント」『現代思想』vol.21-2、一九九三年二月。
[17]冨山一郎『戦場の記憶』日本経済評論社、一九九五年。同書は『増補 戦場の記憶』日本経済評論社、二〇〇六年となっている。
[18]関千枝子『広島第二県女二年西組』筑摩書房、一九八五年。
[19]川満信一「わが沖縄・遺恨二十四年―死亡台帳からの異議申し立て」『展望』一九七〇年一月号、『沖縄文学全集一八』(国書刊行会、一九九七年)所収、一一九頁(頁数は全集による)。
[20]この書き出しから始まり、「那覇市近郊の精神病院の鉄窓でうつろな目を空中に泳がせながら、なにものかに突き動かされるように壁を殴り、怒鳴り暴れ狂」っているH氏、「自殺してはてた」M氏、「いよいよ自らの狂気を増長させている」K君とつづき、彼らと共にこの引用部分に入っていく。この川満の文章については、冨山一郎「言葉の在処と記憶における病の問題」冨山編『前掲』を参照。
[21]川満「前掲」、一二三頁(頁数は全集による)。
[22]それはハラウェイのいう、「これまで受動的なカテゴリーであった知の対象が『能動化/活性化』してきている状況」(ハラウェイ『前掲』三八三頁)と密接にかかわるだろう。そこでは対象を分析し、描き出す行為は、対象を縁取る境界が移動し、分析を分析対象が裏切っていく「リスクをはらんだ実践となる」。そしてまさしくこうした分析者を巻き込みながら、対象が能動的に境界を横断していく事態こそ、ハラウェイのいう客観性に他ならない(同、三八六頁)。いいかえれば、ゆるぎない境界に縁取られた対象を分析することが、客観性に結びつくのではないのだ。またこの縁取る境界にかかわって、郡司ペギオー幸夫『生きていることの科学―生命・意識のマテリアル』(講談社、二〇〇六年)を参照。郡司が明快に述べるように、分析の精度が上がると対象がより鮮明になるのではなく、対象を縁取る境界が、それ自身世界を主張し始め、対象と対象外を共に別の次元へと引きずり込む媒介へと変化し始めるのだ。ハラウェイが、自らの視覚に何の疑いも挟まない、軍事的で指令好きで、一方的に対象を世界地図や歴史年表にマッピングできると思い込んでいる連中の、「ナショナル・ジオグラフィック」のような分析を批判するのはこのためだ。連中の鈍感な分析と去勢恐怖に駆られた保身が、対象の能動性を抑圧しているのである。
[23]この文は、真島一郎の表現を真似ている。「はたして翻訳は翻訳者にたいし何をはたらきかけていることになるのだろうか」(真島一郎「翻訳論―喩の権利づけをめぐって」真島一郎編『だれが世界を翻訳するのかーアジア・アフリカの未来から』人文書院、二〇〇五年、四三頁)。真島は人類学において文化翻訳という実践を行なう人類学者を、「能動=受動の分裂を生き抜く実践者」(同、四二頁)として位置づける。また真島はこうした実践者を人類学の系譜から浮かび上がらすのだが、こうした実践者は、党や国家に簒奪された夢(ユートピア)の痕跡に出会った人類学者たちでもある。彼ら/彼女らの実践については、石塚・田沼・冨山編『前掲』所収の論文を参照されたい。
[24]こうした関係性を構想する上で、ジュディス・バトラーが、被傷性において言語の行為遂行性が伝染していくと考える点は、極めて重要である(ジュディス・バトラー『触発する言葉―言語・権力・行為体』竹村和子訳、青土社、二〇〇四年)。ただバトラーの議論でいつも引っかかるのは、そこに見え隠れするある種の個人主義である。行為遂行性が、いつも個人と個人の間において想定されているかのようだ。あなたと私という、息のつまる閉塞感が、いつもバトラーの文体に漂っているのも、そのためなのかもしれない。またそれは、批判すべき制度自体が、行為遂行性においていつも外在化されているように思えることとも無縁ではない。そしてこうしたことは、バトラーが出発点の一つとしてすえたジョン・オースチンの言語行為論から由来する問題なのかもしれない。こうした点については改めて検討したいが、レーニンの政治言語の持つ行為遂行性を論じたジャン=ジャック・ルセルクルがオースチン流の言語行為論を、「方法論的個人主義」と「志向主義」に「絶望的にまで囚われている」と批判したことは重要であると思われる(ジャン=ジャック・ルセルクル「レーニン、正しくも的確な者―あるいはリサイクルされないマルクス主義」長原豊訳『別冊情況』二〇〇五年九月)。個人と個人が遂行的に関係を結んでいくその合計が集団なのではなく、また言葉は、私からあなたに向けられているわけでもない。ただその一方で、個人ということが行為体として問題になるとしたら、それは、フェリックス・ガタリの次の指摘が重要である。「個人をつらぬき引き裂くあらゆる種類のシニフィアンの連鎖の交差の結果を、その肉体性の次元において引き受ける。人間存在は機械と構造の交差の中にとらわれているのである」(ガタリ『前掲』三八三頁)。この機械と構造についての説明は省略するが、集団は一気に到来するのである。ガタリにとって批判されるべき国家や党組織は、すなわち構造は、この到来する集団性を自らの根拠として打ち立てられる。だがこうした構造化の中で、「肉体性の次元において引き受ける」個人からは別の機械状の集団性が開始される。そしてその集団性は、個人と個人の関係性の束には還元できない。
[25]ここでいう「学術ライブ」は、ソウルで研究空間<スユ+ノモ>を実践する高美淑さんの議論を念頭においている。「学術ライブは一つの社会的形式として広く流布されなければならない。音楽を専攻しなければ音楽を楽しむことができないのか。そうではない。音楽を楽しむことのできる数多くのルートがあるがゆえに音楽愛する人々は多様なやり方で音楽に接することができる。知識も同様である」。こうしたライブ観は、知にかかわる集団性が、喜びや快楽にかかわることを示している。「シンポジウムー饗宴」。高美淑「ノマディスムと知識人共同体のビジョン」藤井たけし・金友子訳(『Welcome to the Machine』Research Machine <Suyu+Trans>、2005)。<スユ+ノモ>の実践については、金友子編『歩きながら問うー研究空間<スユ+ノモ>の実践』インパクト出版会(近日刊)をぜひ参照されたい。
[26]再度繰り返すが、それは感情を吐露することに意義を見出すことではない。こうした言葉はライブにおいてはキッカケにはなるが、吐露された言葉は分析の代替にはならず、また吐露された言葉を分析すればいいということでもない。「いやだ!」と、「○○に違和感がある」という違和感のない説明は、どちらも感情的言葉と悟性的言語という分類表を前提にしてしまっている。あるいは情動と言説。「『いやだ!』と私は違和感を表明した」という文に想定されている分類こそが問題なのだ。それは「『・・・・・』と彼は吃った」という言葉(パロール)と言語(ラング)の分類ではなく、「言語(ラング)を吃らせること、それを言葉(パロール)と混同せずにおくこと」に他ならない。もちろんそれは、なかなか困難なことである。だが、シンポジウムの呼びかけ文にある「言葉の全てが必要だ」には、困難だが楽しくやってみようといった、アンビバレントな思いが錯綜している。ジグザグしながらすすむしかないのだ。ここにもライブの醍醐味があるのかもしれない。ジル・ドゥルーズ『批評と臨床』守中高明・谷昌親・鈴木雅大訳、河出書房新社、二〇〇二年。とくに第一三章「・・・・・・と彼は吃った」を参照。