火曜会

火曜会は、言葉が帯びる身体性を押し隠すのではなく、それを多焦点的に押し広げることこそが研究行為ではないか考えています。また研究分野の境界は、分野の前提を再度議論する中で、連結器になるとも考えています。

火曜会通信(2)戦前キューバにおける移民労働者の歴史的展開と戦後沖縄の連続性-「農民」阿波根昌鴻の経験を通して

(火曜会通信については、アーカイブにある火曜会通信(創刊号)をご覧ください。)

 

2014年7月2日(第22期)

岡本直美(報告者)

人間を通してみる歴史のむずかしさ

 

今回、伊江島(沖縄)の反戦・平和運動家である阿波根昌鴻(あはごん・しょうこう)の思想を「戦前キューバにおける移民労働者の歴史的展開と戦後沖縄の連続性-「農民」阿波根昌鴻の経験を通して」のタイトルの下、考察した。阿波根の戦前における移民労働者としての経験が戦後の反戦活動でいかに想起されるのか、以下5点について報告した(1.阿波根昌鴻概説、2.戦前キューバに関わるアメリカ帝国主義、3.キューバ糖業、4.戦前キューバの日本人移民労働者、5.阿波根や伊江島住民の自称した「(無学の)農民」について)。上記各項目のどれもが独立した研究テーマと成り得るものであるため、横断的で広範囲にわたる報告は、議論における問題設定を困難なものにした。そのことは、一人の人間を通して歴史をみることの難しさを報告者に突きつけるとともに、関係性のなかでしか生の営みが成立しないことを示したように思う。

『沖縄ハワイ移民一世の記録』[1]の著者・鳥越皓之は、沖縄ハワイ移民のライフヒストリー聞き取り調査の経験より、移民たちの生活態度は日々多くの決断の蓄積の上に存在すると述べ、「多くの決断の蓄積、とはわかりやすいことばにいいかえれば、「物語」のことである。一個一個の人々は「物語」をもっている」と記している(「まえがき」ⅴ頁)。そして、移民の社会・経済・人口についての歴史的変遷を扱う移民研究に対して、「移民という人間そのものを追求する」(傍点本文)ことに注目し、移民の語る自画像の真偽(正誤)に関わらず、「自画像が、その人にとって真実であるということがたいせつなのである」(傍点本文)と社会科学における自画像理解の重要性を説いている(172-174頁)[2]。阿波根にとって、キューバでの移民経験は、資本による労働の搾取を体感するものであった。そしてその記憶は、戦後の米軍による土地収奪の状況下で実行された「乞食行進」や学習会の場で想起され、資本と戦争との共犯関係を念頭に置く阿波根によって繰り返し思い出される「物語」でもある。

また、平和運動は生活の安定(平和)があってこそ成立すると阿波根自身述べているが、その運動生活を私生活で支えた妻・喜代さんの存在を抜きにしては阿波根の「物語」を語れないのではないかと、今回火曜会の議論で教わった。換言すれば、阿波根の「多くの決断」は、喜代さんという基盤を無視しては考察できないのではないか、という指摘である。伊江島土地闘争や阿波根の平和運動の文脈において、喜代さんが取り上げられることはほとんどない[3]。しかしながら、喜代さんによって生計が立てられ、自身が平和運動に邁進できたことを阿波根自身認めている[4]。喜代さんが、銀行への返済や「店のことだけで追われて運動に加われなかったといっていいほどです。それでも私も那覇に仕入れに行っている時に琉球政府や警察署で一緒に座り込みをしたこともあります」[5]と述べているように、阿波根の運動を身近に知る人びとは喜代さんの重要性を強調する。付言すれば、阿波根の秘書的役割を担ってきた謝花悦子さんの存在も、阿波根の平和運動では見落とせない。喜代さんとともに雑貨店を支え、閉店後は阿波根とともに闘い、現在も阿波根の意思を引き継ぎ活動している主要な人物である。このような関係性こそ、鳥越が「身近な人間関係が、その人にとって決定的な意味を持つことを思い知らされた」[6]と述べるように、阿波根の「物語」に欠かせないものであるかもしれない。

阿波根が農業に生活基盤を置く農民でなかったことは報告でも言及したが、そのことを阿波根は「(土地闘争から)脱けていく危険がある」と周囲から囁かれるような「(真謝農民の)皆よりも弱い要素」としても認識していた。この認識は経済的側面に限らず、「アメリカをすっかり信じていた」阿波根の自省にもつながっている[7]。伊江島出身者ではなく、戦前にキリスト教の洗礼を受け、中南米へ移民し、帰国後は京都の一燈園やデンマーク式農業学校(興農学園)で学んだ阿波根は、伊江島では常に「他者」としての自身を自覚せざると得なかったであろう。その阿波根が「他者」と自認しつつも伊江島(真謝区)の「農民」として闘争の中心で闘ったことは、「真謝は真謝部落のもの」という言葉への批判を再考する可能性を示すものであり、また、阿波根が「農民」の土地を守るということで何を守ろうとしたのか、何に抵抗しようとしたのかという問題の深さを提示するものでもある。

今回の報告では、阿波根の軌跡を通して当時の国際関係を中心に移民労働者の生活を考察したが、議論では生活の場における関係性に注目する話題も提起され、大変刺激になった。「(無学の)農民」という用語にみられるように、阿波根や伊江島の人々の使用する用語は一般的意味にとどまらず、戦略的使用も内包されたものである。そのような言葉の使用方法(選択)は、個人の日常が国際的な世界戦略とも実際の人間関係上の営みとも不可分であることを私たちに提示する。つまり、「阿波根にとっての物語」とは、国際関係史や社会史のような「大きな世界の流れ」と、そこに生きる個人単位の関係性(ライフヒストリー)の双方をできるだけ丁寧に見ることではじめて、読むことができるものかもしれない。そのような二重構造のように感じられる問題を考察することは、領域や専門分野が問われる研究者にとっては大変骨の折れる作業であると痛感する。しかしながら同時に、「阿波根にとっての物語」から歴史をみることは、既存の歴史事実の再構成につながる可能性を紡ぐものになるかもしれない。

(岡本直美 神戸市外国語大学大学院)

 

【参考文献】

・阿波根昌鴻『米軍と農民-沖縄県伊江島-』岩波書店、1973年。

・伊江村教育委員会編集・発行『証言資料集成 伊江島の戦中・戦後体験記録-イーハッチャー魂で苦難を越えて』1999年。

・佐々木辰夫『阿波根昌鴻-その闘いと思想』スペース伽耶、2003年。

・鳥越皓之『沖縄ハワイ移民一世の記録』中央公論社、1988年。

・深沢恵子「伊江島のたたかい-阿波根喜代さんを訪ねて-」沖縄女性史研究会編『沖縄女性史研究』第6号、1985年12月。

 

[1]鳥越皓之『沖縄ハワイ移民一世の記録』中央公論社、1988年。

[2]鳥越は同時に、社会科学における理論的モデルの利点も認めている(前掲書、174-177頁)。

[3]少ないながらも、例えば以下に取り上げられている。深沢恵子「伊江島のたたかい-阿波根喜代さんを訪ねて-」沖縄女性史研究会編『沖縄女性史研究』第6号、1985年12月、20-27頁。伊江村教育委員会編集・発行『証言資料集成 伊江島の戦中・戦後体験記録-イーハッチャー魂で苦難を越えて』1999年(佐々木辰夫『阿波根昌鴻-その闘いと思想』スペース伽耶、2003年、184-214頁)。

[4]例えば以下の言葉に表現されている。「私は働いても、妻のようには何も出来ないから、働く真似をするのであって、だから私は妻に育てられたようなものです。」(佐々木辰夫、前掲書、199頁。)

[5]佐々木、前掲書、212頁。

[6]鳥越、前掲書、178頁。

ここでの「身近な人間関係」とは、空間的・時間的な状況に限定されない、「個人の意識としての人間関係の身近」という意味で使用されている。また、「身近な人間関係」によって当人の生涯の自己像が形成されると鳥越は記している。

[7]阿波根昌鴻『米軍と農民-沖縄県伊江島-』1973年、53頁。

 

 

柚鎮(応答)

平和を作るということ、平和を議論するということ                                     

 

「復帰前は、私たちの敵は米軍だけでありましたが、復帰後は日本軍と二つの敵と闘わなければなりません」、「私たちの闘いは毎日の生活の中まで沁み込んでいます。戦争屋を喜ばす行動と生活は、絶対にしないことに努めております」(阿波根昌鴻『米軍と農民』1973、下線強調引用者)。

「当然視されている事柄-とりわけ人間とは何なのか-を疑ってみることができるとき、世界にはさらなる希望があると、わたしには思われるのです。人間、人間主体、人間の発話、人間の欲望として認められているものは何か。どのようにして人間の発話や欲望の外延を引くことができるのか。どんな犠牲を払って、また誰に対するどんな犠牲においてなされるのか。こういったことが、わたしが重要だと考える問いであり、日常の文法、日常の言語のなかで、当然視されている概念として作用しているものです」(バトラー、サラ・サリー・竹村和子他訳『ジュディス・バトラー』(2005)から再引用、下線強調引用者)
伊江島土地闘争リーダーのひとりである阿波根昌鴻の軌跡に関する岡本さんの考察、またそれをめぐる火曜会での議論をとおして、「生活」や「日常」という営み、そしてそれを具体において成り立たせることの意味について改めて考えるようになった。

この点は、彼のいう「生産者」「農民」としての自負(生き方)にかかわっていると同時に、「平和定着」、「恒久平和」、「平和の島」、「平和日本」といった言い方の政治的効果、あるいはそれによって息苦しくなる領域に関わっているように思われる。 阿波根のことを全面的に支えた妻・喜代、また彼女とともに雑貨店を経営し、閉店後は阿波根といっしょに闘い、現在も彼の意志を引き継ぎ活動している謝花悦子。この二人の存在は、冒頭に引用した阿波根のいう「毎日の生活」とバトラーいう「日常の文法」、あるいは同士という言葉の含意を想起させる。

これまで伊江島土地闘争や平和運動(研究)の文脈において三人の関係性があまり言及されてこなかったという点は、「同士」という複数の関係においての「生活」「文法」がいかなるかたちで受容され解釈されてきたかをあらわにしている。

幾重にも折り重なった不可視化(否認や黙認)の構図をていねいに問題化する議論過程において、新たに生成してゆく経験、それのつながりのようなもの、「同士(愛)」や「連帯(感)」を作っていく集団の努力過程、その葛藤に満ちたプロセスを「平和」として設定するならば、いかなる身体性が、いかなる場が生み出されるのだろうか。

阿波根の「移民」や「学習・実践」に関わる膨大な資料に基づいての岡本さんの精緻な問題提起は、または横断する複数の歴史を論じるという試みは、「このあとがきも、爆音に心は乱されながら書いています」と、『米軍と農民』の終わりのところに述べられた言葉の現在性と誰が誰の話を聞き、選択し、組織化するかといった知識が生産される文脈(知の状況性)の意味を問うている。