Oさんのいる大学-「火曜会」という構想(11)
Oさんのいる大学(nowhere 創刊号掲載 2014年7月)
冨山一郎
大学の話をしようとした時、頭に浮んだのは、Oさんのことである。神戸市の西区にあった最初の職場では、いつもOさんと一緒だった。自分の研究室にいるより、彼の研究室にいる時間の方が多く、昼休みも、また授業のあい間も一緒だった。教授会でも隣の席に座り、そしてなによりも、帰り道を共にした。私は京都からの遠距離通勤であったが、Oさんの住まいも生駒市だったので、長い帰路を一緒に帰った。彼は自分を、私の後見人か何かと思っていたのかもしれない。
このOさんは、無類の酒飲みで、帰り道では延々と飲み続けた。まず大学の近くの蕎麦屋で飲んだ後、三ノ宮までの市営地下鉄の中で缶ビールを二本飲み、三ノ宮でワンカップと缶ビールを一人当たり三本から四本買い込んで新快速に乗り込み、また飲んだ。Oさんが下車するはずの大阪につくころには、酔いは絶好調にはいり、その勢いで京都まで飲み続け、京都駅で下車して駅周辺の焼肉屋でまた飲み、深夜タクシーで生駒に帰るという具合だった。彼は、このお酒とともに20年近く前に亡くなった。いま大学について考えようとした時、このOさんのことが思い出されたのである。
Oさんは、手当たり次第に論争を仕掛ける人だった。お酒が入っていると勢いは増したが、飲んでいなくてもそうだった。なぜまだ天皇はのうのうと生きているのか、なぜ国鉄はJRなどになってしまったのか、ソヴィエトを潰したのは誰なのかといった論題をふっかけ、この世界がいかに酷く、また許し難いものなのか、全身で吠え続けるのである。また偶然周りに居合わせた人間のちょっとした発言や振る舞いにも、瞬時に論争をしかけていた。お前は先ほどなぜあんな発言をしたのか、なぜあのような発言を容認するのか、どうして発言しなかったのか。それは、教授会でも飲み屋の場でも、また教室や研究室でも容赦はない。Oさんは、自分を取り巻くすべての世界に対して、いつも論争を挑んでいたのである。そうしたOさんの振る舞いは、場の空気を読むということの全く正反対の行動であり、Oさんの介入により、その場は一瞬にして凍りつき、論争の場に変わるのだ。その見事な瞬発力には、本当に驚かされた。
またしばしば自らの学生運動の経験を、独り言のように反芻していた。それは、巷によくある「あの頃は…」といった懐古趣味でも、自慢話でも、若者への説教でも、ない。それは徹底的な内省と、自分が出会った個人への執着において構成されていた。死んだ者たち、生き延びた者たちの遺した言葉を、Oさんは口寄せのように呟きながら、その言葉と共に垣間見た世界を決して手放そうとはせず、断固として継続させようとしているように見えた。党派系統樹やウンチクとしかいいようない断片的知識を駆使し学生運動を解説する若者や、68年が「論」というジャンルになり、ただ「論」に詳しい者たちが再生産される時代がくるのを、彼は予感していたのかもしれない。彼にとって運動経験にかかわる言葉とは、口元から発せられたその瞬間の言葉なのであり、この発話の瞬間においては、その場の状況や、そこに居合わせた人々の熱気や体臭が、言葉たちの輪郭を形作っている。Oさんにとって運動経験とは、この垣間見た世界を手放さないことであり、そのおぼろげな像を思考する時の言葉とは、この匂いを発し熱を帯びた言葉たちなのだ。それはウンチクでもなければ論でもない。
こうした言葉の在処はOさんにとって、運動経験というだけではなく、世界と自分との関係にかかわる問題だった。彼が翻訳した本に、アルシーノフの『マフノ反乱軍史』がある。マフノはロシア革命の際、農民たちを率いて次々と自治的権力を作り上げ、革命の決定的な動因になりながらも、革命が体制として構築されていく中で、その運動は最終的には赤軍により壊滅させられた。自らが目指した制度によって抹殺されたのである。大杉栄はこのマフノを、「立ち遅れた」者とよんでいる。それは、世界が変わるかもしれないと考えて動き出し、それが動因となって生み出された制度において結果的に否認されていった者たちが抱え込んでいた、別の世界の可能性でもある。また表層的な歴史とは、この制度において構成されるのだろう。きれいに整地されたその歴史には、あったかもしれない可能性は、消え失せてしまっている。Oさんにとって言葉は、この消えてしまった可能性を確保し続けることでもあったのだ。そして整地化を生み出す歴史という制度が、言葉の秩序と密接にかかわる以上、可能性と言葉との関係は、言葉の秩序の臨界において維持されることになるだろう。
Oさんは、同書の訳者あとがきにおいて、マフノの同志であり同書の著者でもあるアルシーノフから、「激しく死におくれた者の無念」と、「逝ってしまった同志たち」の意味を世界に伝えなければならない使命を看取しているが、それは彼自身の世界への構えとも重なるのだろう。そこでは言葉たちは、放置された場に密着し、同時にすぐさま受け入れられることのない独白に近似することになる。彼は、垣間見た可能性が全く消尽してしまった世界に対して、「まだ終わっていない」ということを、全身で語ろうとしていたのだった。あとがきの末尾にはこうある。「いまや語るべきことは何もなく、ただ壁ひとつむこうで囁く声を、身を硬くして聞くほかない」。Oさんが自らの身体硬直と共に聞き取ったこの言葉の在処、そして言葉と世界の関係は、くりかえすが、ウンチクや論とは全くの別物である。
このようなOさんは、当たり前のように話が流れていくことを、徹底的に嫌った。予定されている話の展開は、彼の介入により、ことごとく阻止され、別のステージへと折り曲げられていった。「あとで議論しましょう」という態度はすぐさま却下された。発話された言葉は、言葉が帯びる熱感が残るその場において、捕獲されなければならないのだ。その結果、どこであろうと論議の空間が生まれた。彼のまわりには、普通なら起きない論争がいつも起きていたのである。それは論議というより、何事もなかったように進んでいく世界のすべてに対する憤りといった方がいいかもしれない。またそれは、意見を表明するというようなものではなく、怒鳴り合いであり、しばしばOさんの一方的な攻撃であった。
こうした予定されていない議論の場の突然の現出は、当然ながら周りの人々を困惑させた。日々のスケジュールなるものが崩壊することほど、人を不安にさせるものはない。だがそこでも「別の用があるので」という退席理由は、やはり却下された。巻き込まれた者たちは突然の時間の切断に戸惑い、いつまで続くのかわからない予定外の事態の登場に、不安と嫌悪を抱いた。だが同時に、何がおきるかわからないワクワクとした予感も、間違いなくそこにはあった。何度も「先に帰る」という言葉が喉までこみあげてきたのだが、それでもその開始された場にとどまったのは、この未知の世界への期待感によるものだったと思う。そしてその期待感を一身に引き受け続けたのが、Oさんだったのである。
論争の中では、マルクス、ニーチェ、アーレント、フロイト、マラルメ、ベンヤミン、ユンガ―、ヨハンセン、サルトル、ドゥルーズ、果ては存在しない架空の人物を引きながら、「〇〇はこういっている」ということが次から次へと繰り出されていった。またこうして引用された文章や詩の一節は、Oさんの頭の中に完璧に記憶されていた。それは明らかに知というものであり、膨大な知識に基づく恐るべき知力である。またこうした知力により、未知の世界が言葉として確保されていったのであった。そして同時に「〇〇はこういっている」というその3割ぐらいは、どうも怪しいということも次第に解ってきた。しかしOさんにとって、分野に区切られた学問的正しさを維持することよりも、言葉が登場した瞬間に場を創出することこそが、重要だったのだろう。言葉は発せられたその場において決着をつけなければならなのであり、なによりもその場で意味を持つことが大事なのだ。巷のニーチェ研究、アーレント研究といったところから見れば、無茶苦茶な話であり、間違いであり、嘘といえばそうなのだが、その場では間違いなく正しさというべき意味を担っていたのである。
最大の嘘は、自分の出自にかかわることだった。飲むたびに「自分はもらい子だ」と話し、いかに孤独な少年時代を過ごしたかを極めて具体的に語っていたのだが、彼の死後、それが嘘だったと判明したのである。これにはさすがに驚いたが、いずれにしてもOさんにとって、重要なのは言葉が登場したその場であり、一般的に正しいか間違っているか、ではなかったのである。あらゆる手段で自分を演出し、あらゆる言葉を動員して議論を吹っ掛け、言葉の場をつくりあげ、世界を非難し、個人を攻撃し続け、決着をつけるのである。
そしてOさんにとって大学とは、こうした論争を創り上げる大切な場だったのである。学生であろうと同僚であろうと、学長であろうと職員であろうと、お構いなしに議論を吹っ掛け、議論とは言い難いOさんの独壇場が創出された。この生まれた場は、予定されていた議論や演習の時間ではない。また学会や教授会のようなメンバーシップにおいて構成される研究会や会議でも全くない。Oさんにとって、こうした演習や研究会は大学という秩序を構成する時空間なのであり、彼の議論はこうした秩序をすべて棚上げにすることから開始されるのである。こうしたOさんのおかげで、大学を構成している学生・教員・職員といった所属集団は無効になり、予定されていた時間割は破棄されていった。
それは確かに、大学が別の空間に変わっていく始まりでもあった。言葉にかかわる空間や時間を区切ることは、言葉を禁止する時空間を予め設定することでもある。Oさんにとって議論とは、この予めの排除を言葉において無効にしていくことだったのだ。したがってOさんの議論の要点は、時間を守らないことではなく、言葉と秩序、言葉と世界の関係が変わっていくことなのである。それはやはり言葉の在処にかかわることであり、別の世界が始まることなのだ。彼のまわりの空気は、いつもこの「始まり」が帯電していたのである。
このようなOさんは、当然ながら制度としての大学といつも衝突していた。また議論も個人攻撃となる場合が多く、相手が完全に打ちのめされるまでその攻撃の手を緩めなかったものだから、攻撃された者は、根に持ち、敵も増えていった。そして彼はある時、入試業務をめぐってかなり重い処分をうけることになる。ちゃんと業務を遂行しなかったということで「事件」となり、そこにマスコミが飛びついたのだ。私も含め何人かの仲間はOさんを守ろうとしたが、大学やマスコミが一体になって彼を攻撃した。大学にとって社会とはマスコミのことだったのである。社会の常識というぺライ根拠を得た大学とその代弁者たちは、ここぞとばかりに彼を「問題」にし、「処分」したのである。一つ二つの新聞記事が、一体何の根拠になるというのか。新聞記事を社会といいかえ、「不良教員」の「処分」を顔を赤らめて語る者たちの醜い顔は、今でも覚えている。その顔には、常識を後ろ盾に保身に満ちた反撃を開始するゆがんだ笑みと共に、Oさんが引き起こしていた秩序の停止と別の世界の始まりに対する恐怖の表情が、張り付いていた。醜い。そしてこの「醜い顔」は、その後も増えていったのである。
この「事件」以降、世界に対峙して喧嘩を売り続けてきたOさんにとって、大学は議論のアリーナではなくなってきたようだった。可能性を言葉において確保し、「まだ終わっていない」と呟やき、すべての出会いを論争に変えてきたOさんにとって、大学はとても大切な場所であった。しかしこの「処分」は、彼から攻撃された経験を持つ者たちに、歪んだ勇気をあたえたようだった。予期しない議論の場は、次第に生まれなくなっていった。Oさんにとって大学は、未決の未来を語る場ではなくなってきたのである。この大学という大切な場所を失ったOさんは、ますます酒量が増え、その後もいくつかのトラブルを繰り返しながら、とうとう帰らぬ人となった。
あるべき大学の像というは、きっとあると思う。またそれについて論じることも、制度設計をしていくことも、とりあえず必要な事だと思う。だが一切の制度がペンディングされ、予定されない世界が浮かび上がる可能性を言葉として確保することがなければ、あるべき大学像は、現状追認と隠ぺいにすぐさま陥るだろう。世界と言葉の関係を生み出すことを思考というなら、そしてこのような思考を知とよぶなら、知が生み出される場所においては、その基底のところで、既存の世界を全身で拒否するような部分こそが、確保されていなければならないと思う。そしてだからこそ大学とは、まずもってOさんのような人間が、息ができる場所でなければならないのだ。そうでなければ、思考が現実を批判し、新たな世界を作り上げる力になることなど、決してない。言葉も含めた一切の制度は、議論においてペンディングされなければならないのだ。そしてこのような場こそが、Oさんが大切にした大学であった。
かかる意味で大学は、制度であると同時に制度ではない。制度において構成される教員や学生、あるいは職員といった所属分布が停止する場でもあるのだ。また所属集団において構成されるというより、所属から離脱した流動系において大学をとらえることが必要なのであり、この流動性を帯びた存在に最も近いのが、学生や院生という集団だともいえる。学生や院生が大学を流動系にかえ、議論の場を生み出すのだ。Oさんのように。学生や院生こそが大学を大学たらしめているのであり、だからこそ、これまで全世界で起きてきた学生たちによる全学ストが、豊かな言葉の空間を作り上げてきたのは、当たり前のことなのだと思う。
Oさんを「処分」した「醜い顔」は、どの大学でも増え続けている。それは今の問題だ。業績の量り売りに何の疑問も抱かず、それこそが大学改革だと思いこみ、きれいにまとまる研究会や講演を好み、それをこなすのが知識人の使命だと勘違いし、マスコミへの露出度を競い、「不良学生」を摘発し、グローバルというブランドを振り回し、スーパー・グローバル(火星にでも行くのか!)などという意味不明の言葉を使っても恥じない輩が闊歩する大学の中でOさんを想起するには、彼がおこなったあの口寄せが必要なのかもしれない。今そのやり方を、私も密かに練習している。