火曜会

火曜会は、言葉が帯びる身体性を押し隠すのではなく、それを多焦点的に押し広げることこそが研究行為ではないか考えています。また研究分野の境界は、分野の前提を再度議論する中で、連結器になるとも考えています。

第22期(2014年春夏)の予定

すでに終了しましたが、「第22期(2014年春夏)の予定」を掲載します。

 

火曜会(第22期 2014年春)

毎週水曜日(15時より 同志社烏丸キャンパス志高館SK201)

冨山一郎

 

私が試みているのは、複数の媒体、複数の文化、そして複数の学問分野のあいだの書き換えとして、映画を理論化することである。(レイ・チョウ『プリミティヴへの情熱』9頁)

 

春は久しぶりに、米国のいくつかの場所に行きました。サンフランシスコでは、旧友とゆっくり話をし、彼のサンフランシスコ州立大での授業にも参加しました。デューク大学とコーネル大学では、私の『流着に思想』をめぐる議論の場に参加しました。コーネルでは大学院生のゼミでも議論をしました。討議が場所を変えながら折り重なっていく経験でした。こうした複数の場での討議の巡礼を終え、帰りの長い帰路の飛行機の中で気がついたことがあります。それは自分自身の身体に残っている議論の体感、それも積み重なった体感です。この体感を反芻しながら、討議する身体性とでもいうべき領域があるのではと、考えています。討議の場と討議する身体性。場が閉塞的になることなく、増殖し別の展開を遂げていくには、あるいは複数の場が連累していくには、この移動する討議する身体性が大切になるのではないかと思いました。

デュークでは、レイ・チョウさんにも会いました。昔刊行されたばかりの『Writing Diaspora』を、辞書を引きひき一生懸命読んだことを思い出します。彼女とは新しい知のフォームと映画を見ることについて話をしました。フォームという単語はジュディス・バトラーもよく使います。またレイ・チョウさんは上に引用した本の中で魯迅に言及しながら、「視覚映像との出会いがどのような変化を引き起こしたか」という問いを立て、さらに「あらゆる視覚映像との出会いに関して肝心なことは、このどのようなという問いなのだ」と述べています。理論化とはこの問いを言葉にすることなのでしょう。すなわちそれは映像との出会いの書記化です。その上で彼女は、重要なのは「絵がテキストになることではなく、言語テキストが絵に変化することだ」と述べています。なるほどと思った次第です。今期は是非映画を共に見て議論をする機会を作りましょう。

新学期でもあり、人も流動化しているので、確認のため、最初に趣旨や報告めいた文章を載せています。重複しますが読んでください。今期もよろしく!

 

Ⅰ趣旨

知や知的営みは、私的所有や個人業績(量)において意味づけられるというよりも、また私的所有物としての知を前提にした社会のニーズや社会的影響、あるいは所有者(知識人)による啓蒙ということでもなく、知それ自体が他者との関係性や集団性にかかわる行為遂行的な営みであり、意味作用なのではないか。と、信じてはじまったのが、火曜会なのかもしれません。

またそれは、大学という場所が持つ可能性なのかもしれません。火曜会が大学のカリキュラムとしての制度を手放さない理由もそこにあります。今期も、グローバル・スタディーズ研究科の「アジア比較社会論」「現代アジア特殊研究」としてもあります。大学は、職場や会社でもなければ研究所でもありません。学生・院生からみれば明らかに流動系であり、それは人々が行き来する路上にも似ています。しかも制度として。

ですから、知の集団性を、ニーズや影響ではなく、またサークルや研究会でもなく、路上において維持するということ。そこで生成する集団性は、制度としての路上をどこかで批判的にとらえることになるでしょう。精神医療の実践が制度批判でもあることを、ガタリは制度論的精神医療といいましたが、火曜会で考えていることもそれと少し似ているのかもしれません。この制度と共にありかつ制度を絶えずはみ出し続けるというところに、火曜会の趣旨を考えるポイントがあるように思います。

 

Ⅱ形式

書かれたものを丁寧に読むことによる関係性の創出(精読会)と、必ずしも書かれたものに限らない媒体(今それを報告と呼びます)による関係性の創出(討議空間)に分かれます。両者の違いは主として時間性にあります。精読会はやはり一定の継続性が必要になります。対して討議空間は、ライブ感あふれる一回の報告が軸になります。両者が相乗すればいいのですが。

 

Ⅲ討議空間の報告について

それは業績報告や啓蒙の場ではありません。論文執筆や学会発表ののちの報告というより、そのプロセスを共有することを考えてください。「○○のことは××なら当然知っているはずだ」的な態度は、やはりレッドカードです。複数の「××」が別物に変わっていくための討議なのですから。集団性の追認あるいは保身ではなく、創出がポイントなのです。またこのことは精読会でも同じです。報告は、共有するために、いろいろと工夫をしてください。とりあえず丁寧な説明と時間をかけること。議論の時間規制において排除してきた人や事柄を、蘇らすことが大事なのです。そのためにも、報告という媒体を担おうとする者(報告者)は、一週間前には不十分でもいいですからアナウンスをお願いします。また読むべき文章等も原則一週間目には配布してください。

 

Ⅳ精読会について

精読会にはメンバーシップがあります。文章をあらかじめ読んでくることと、原則的には継続的に参加することです。

 

Ⅴ火曜会複合体

(1)橋渡し発題者(minute taker)  第20期に、精読会にかかわって、議論の継続性を維持するために橋渡し発題者を毎回少なくとも一人決めました。前回の議論あるいは前回議論したテキストの個所に対して、自らが思うこと、考えること、感じることなどを文書で提示する作業を、議論の最初に行う人です。一般的なまとめではありません。ただ21期では、前回の議論というより、前回の議論をふまえた最初の発言者ということが強調されたように思います。今期も継続して行いたいと思います。大切なのは議論のライブ感であり、議論の過程で見えてきた身体感覚を議論として継続させることのように思います。議論する身体性。

 

(2)連書的書簡討議   議論の広がりを、世論調査的な量的拡大ではなく、ツイッタ―的な垂れ流し拡散でもなく、丁寧な言葉と言葉の応答と連鎖としてすすめるために、書簡という方法を考えました。討議空間や精読会において、報告者も含めた参加者が、その議論の場で考えたこと、感じたことを文章化し、メーリングリストに投函してください。またその際、書簡の表題と番号を付けておいてください。たとえば、「『無知な教師』をめぐって」(1)。そして投函された書に応答をする人は、応答するという意思表示をメーリングリストで行ったのちに、応答文を投函された書の後ろに書き加え、番号を更新した後、再度投函してください。たとえば「『無知な教師』をめぐって」(2)。また応答する意思を表明した人が投函するまで、他の人は静かに待ちましょう。希望者には、以前おこなった連書的書簡「『無知な教師』より、あるいは火曜会という時空間の痕跡」を、別便で送付します。こちらもまだ続いています。

この投函行為を繰り返すことで、連書的書簡として討議を継続させていきます。勿論応答をする人は、すべての火曜会メンバーであり、当該議論に参加できなかった人も含まれます。ただ最初の投函文書は、討議空間あるいは精読会という対面関係の現場から始めることにしたいと思います。多分他に電脳上のシステムがあるのかもしれません。ですが、投函という行為は、アクセスして見るということと少し違うように思いました。前期はこの書簡は行われませんでした。何処かに考えなければならない論点があると思いますが、今期もまずやってみましょう。

 

(3)別動火曜会と火曜会特別編  前期、川村邦光さんの『弔い論』を読む会が、最初の一回と最後のしめの回を火曜会として行い、その間は別動の会として永岡さんを中心に継続的に行われました。こうした別動的展開も考えたいと思います。たとえば日高さんから青木深『めぐりあうものたちの群像』が提起されています。また単発ですが特別編として車承棋さんの「帝国のアンダーグラウンド」をめぐる議論も行いました。これについても、試みたいと思います。

 

(4)火曜会アーカイブ  <奄美―沖縄―琉球>研究センターのホームページに火曜会アーカイブの場所を設定しました。火曜会にかかわる文書で、公表してもいいものはここに蓄積しようと思います。いかがでしょうか。

 

Ⅵ予定

以下22期の予定です。表題は仮です。また報告についてのコメントめいた文章は、私が勝手に書いたものです。どうかご容赦ください。また各自一週間前に再度メーリングリストにおいてアナウンスをして下ください。その際、訂正なども。

4月23日  精読会

「スチュワート・ホール」を読む。先日亡くなった彼の論文を読みます。『現代思想』4月増刊号のスチュワート・ホール特集号に所収している6つの論文のうち、前半の三本を読みます。

 

5月7日  精読会

「スチュワート・ホール」を読む。後半の三本を読みます。

 

5月14日  討議空間

  (Ⅰ)佐々木薫 「BOIの可動性について」

女性の男性性を考えようとしている佐々木さんの報告です。最近BOIをめぐる写真集が刊行されたそうで、ヴィジュアルな表象と男性性、あるいは異性装について議論をすることになるのではと、期待しています。そこにどのような行為体としての可動性があるのでしょうか。あるいはそれは、どのような系譜の中で考えればよいのでしょうか。理論的な介入と具体的な実践が絡みあう話になりそうです。とても楽しみです。

(Ⅱ)西川和樹「植民地の風景を描くということ―官設美術展とその周辺」

フランツ・ファノンは『地に呪われたる者』の中で、植民地住民や自然が植民者という「人間」の「自然の背景布」になると述べ、それをさらに「敵意を含んだ自然」といいかえています。植民地において風景を描くとは、何を描くことなのでしょうか。筆を動かす画家たちは、そこに何を書き込んでいたのでしょうか。またその絵が美術展として組織される時、どのような力を持つことになるのでしょうか。たくさんの問いと共に、絵を見ましょう。

 

5月21日 討議空間

  (Ⅰ)南 彩夏「幕末と現代のグローバル人材について」

私が興味があるのは、企業は政府のいうグローバル人材の内容ではなく、その言葉に自らの生を見いだした者たちが作り上げる、世界に対する構えや認識です。たとえば英語を学ぶということの歴史的社会的意味も、そこにかかわるのかもしれません。そしてジェンダーも。20年近く前、よく一緒に遊んでいたフランス人の女性が、複数の言語を身につけることに対して、「それはいつでも脱出できる身体の準備をしておくことだ」と述べたことを思い出しました。グローバル人材にグローバルな人生をとりつかせて議論してみたいものです。

(Ⅱ)福岡弘彬「昭和10年~11年 デカダンス論争―保田與重郎とポスト・マルクス主義」

だいぶ前に李静和さんと、文学における退廃について話しをしたことがあります。退廃とは、難題を、それが醗酵し匂いを発し始めるまでこじらせ、抱え込むことだと、彼女はいいました。そして今の日本語の文学にはそれがないとも。匂いの発つ文学。文学において社会と対峙するとはどういうことなのでしょうか。あるいは文学の責任とは。とことん議論しましょう。

 

5月28日 精読会

ホミ・K・バーバを読みます。『ナラティブの権利』(磯前順一/ダニエル・ガリモア訳 みすず書房)から「振り返りつつ、前に進む」を読みます。

 

6月4日 討議空間

小路万紀子・大畑凜「レイシズムと知」

研究者や知識人によるレイシズム批判が、内輪に自足している状況が、いまあるように思っています。レイシズムにしばしば看取される反知性主義は、レイシズムを批判的に語る学知に対して、知の在り方自体への問いを含んでいるのではないでしょうか。またそれは同時に、レイシズムを語る知をどのように生み出すのかという問いでもあるのでしょう。(学的に考えて)それは正しくない、(学的に考えて)これが正しいという教導それ自体が何を見ようとしなかったのか、私は戦後というスパンで考えてみたいとも思います。

 

6月11日 討議空間

    安里陽子・古波藏契・比嘉理麻「豚とパインと高良倉吉」

このシュールな表題に、まずは慄きましょう。そして<と>が繋いでいるのは、一体何でしょうか。沖縄という答えが出されるかもしれません。ですがこの<と>による繋がりが浮き上がらす沖縄とは、どのような沖縄なのでしょうか。沖縄が語られる時、とてもわかりやすいマスターナラティブが沖縄をとり囲んでいることに気が付きます。それは癒しやリゾートということだけではなく、平和や基地においてもいえることです。「みてきた」ことが饒舌に論じられる中で、語りにくいこと、厄介な問題、うまくおさまらない広がりが、残骸のように放置されたままになっています。まずはそれを、一つ一つ拾い集めるところから始めたいと思います。素敵な三人と共に。

 

6月18日 討議空間

(Ⅰ)高橋侑里「アジア系アメリカ人シネマを考える」

高橋さんは、とうとうミリキタニの猫に出会ってしまいました。シネマがもつ社会構成力を、コミュニティ―やフィルム・フェスティバルにおいて考え続けている高橋さんですが、私には、彼女自身がその磁場に巻き込まれながら構成を媒介しているように思えてなりません。以前同僚であった平田由美さんが、どうして研究しているのかという問いに対して、「縁です」と答えたことを思い出しました。縁が繋がっていく、繋げていく高橋さんの最新の報告です。

(Ⅱ)番匠健一「戦後北海道と引き揚げ者の表象を考える」

帝国の終焉は、玉音放送ではありません。それは、域内に広がった多くの人々が帰郷するという運動のなかで確認されていくことではないでしょうか。しかし帰るべき故郷はあるのでしょうか。居場所を失った者たちは、また出郷することになるでしょう。この「引き揚げ者」が刻む無数のトレースに対して、戦後という時間はどのように始まるのでしょうか。繰り返しますが、帝国の終焉は、玉音放送ではありません。

 

6月25日 精読会

竹村和子さんの文章を読みます。テキストとしては『愛について』『文学力の挑戦』『彼女は何を視ているのか』の三冊ですが、そこ中から読む個所を選びます。追ってアナウンスをします。

 

7月2日 討議空間

(Ⅰ)岡本直美「戦前キューバと戦後沖縄の重なり―「農民」阿波根 昌鴻の経験より」

伊江島の土地闘争で有名な阿波根 昌鴻。沖縄現代史のなかで島ぐるみ闘争の文脈において言及されることの多い彼が、抱え込んだ経験は、さらに豊かで深い。というよりその豊かさゆえに、圧倒的な力を持つ米軍とたち対峙し続けたともいえるのかもしれません。彼にとって「農民」であるということは、いかなる生き方であったのか。キリスト教者であるということは。さらには移民の経験。一人の人間の生から歴史を考えることの重要性を、しっかりと議論しましょう。

(Ⅱ)桐山節子「金武町女性住民運動の経験より」

それは、金武町で杣山訴訟を闘った女性たちについてもいえることです。住民運動とよばれる領域は、決して運動方針や綱領からは演繹されません。そこには、カギになる人間がかならずいます。このキーになる人々がなぜ運動を起こし、粘り強く戦うのかという問いに対しては、その人に刻まれた経験を丁寧に考えていくほかありません。よくなされる安易な階層論や経済決定論的説明は、経験の持つ豊かな広がりを台無しにしてしまいます。また住民運動を考えることの特徴をあえてのべれば、こうしたキーになる人物ということのほかに、何を運動と考えるのかという根本的な問題がいつも問われるところにあります。ともに考えましょう。

 

7月9日 精読会

竹村和子さんを読みます。

 

7月16日 討議空間

 (Ⅰ)森亜紀子「沖縄移民にみる声の文化/文字の文化」

沖縄から戦前期日本統治下の南洋群島に渡った人々の経験を、丁寧に記録し続ける森さんの報告です。どのような内容なのかワクワクします。W・J・オングの『声の文化と文字の文化』とも関係するのでしょうか。関係がなかったらごめんなさい。でも同書は間違いなく面白いです。とりわけ記憶と記録、そして過去が今のどのような集団とかかわるのか。論点満載です。人の話をうかがいながらそれを文字として書きとっているとき、それが文字ではなく声であることに気づくことがあります。そして声を文字に閉じ込めていく時、話を聞いたあの豊かな空間をどうしようかと思ってしまうのです。膨大な聞き取りをしてこられた森さんに、ぜひ聞いてみたいところです。

(Ⅱ)荒川理沙「原爆ドームはなぜ「原爆ドーム」になったのか」

記憶は物質化します。焼け跡の中からどのようにモニュメントが立ちあがっていったのでしょうか。投下直後には伝言板だった建物が、次第に原爆の記憶という圧倒的な意味を帯び出す中で、その周りの空気が変わっていきます。「ピカッと光った原子のたまにヨイヤサー」。少しフライングをして記せば、このような平和音頭がうたわれたのが1947年です。そこから「原爆許すまじ」の歌声が響きだすまでに何がおきたのでしょうか。そのプロセスには、空間の編成と時間の編成が重なり合っています。原爆ドームのライトアップという事件にこだわり続ける荒川さんの報告です。

 

7月23日 討議空間

宮崎駿の『風立ちぬ』を見ます。番匠健一さんにすこしだけ牽引してもらいながら、語りつくしましょう。

 

7月30日 討議空間

大畑凜「大学を考える」

そのあと部屋で懇親会をしましょうか。