火曜会

火曜会は、言葉が帯びる身体性を押し隠すのではなく、それを多焦点的に押し広げることこそが研究行為ではないか考えています。また研究分野の境界は、分野の前提を再度議論する中で、連結器になるとも考えています。

共に映像を視ること、視たものを言語化し共有すること、そしてそこから見出される関係性(火曜会通信3)

(火曜会通信については、アーカイブにある火曜会通信(創刊号)をご覧ください。)

 

報告者 佐々木薫

2014年12月4日(第22期)

1. 共に映像を視る、そして言語化する議論する場の困難

今回はインディペンデント映画「Go Fish」(1992)の鑑賞と討議を行う内容でした。私の当初の意図は、フェミニズム映画論やセクシュアリティ理論において蓄積された学問領域の議論・観点からではなく/を含みつつも、それだけに焦点化をせず、複数の人々と「共に映像を視る経験」に基づいたら、どのような言葉や議論が創出されるのかに着目し、それを体現・経験する場をまず設定しようとしていました。

視る経験を重視してもらうため、映像に集中してもらうために、事前告知でのML上では直前まで文字情報を極力排除していました。しかし、当日に配布するレジュメ作成をしている間や、その回での導入としての作品紹介の時点で、私自身が、特定の学的領域の言葉や評価を引用して紹介するという、本来の意図と言動が錯綜した事態を引き起こしました。また、鑑賞後においての議題として、共同体と都市性、そしてその双方の繋がりを提示しました。しかしこれもまた、論題設定自体が議論の枠組みを定めてしまったのではと思います。それは私自身が情報提供の限度や、「視る経験」ということを考えきれていなかったことに起因します。映像を鑑賞しその後議論するためには、どれほどの事前情報や文脈を共有した上で、どのような発話の身振りや文字情報による言葉で発話者は伝えれば良いのか、という議論の場を設定し創り出す困難が、発表者・担当者としての私個人に突き付けられ、今でも私の体験に深く刻み込まれています。

 

2. 議論の変容性:「入りづらさ」から始まる他者との関係の生成可能性

鑑賞後の議論では多数の論点を出してもらいました。ただ、その一つ一つを拾い上げた議論はできませんでしたし、この通信でも行えることではありません。ここでは、あの回でも私自身が特に興味深かった点を取り上げたいと思います。それは初めの感想で出てきた彼女たちへの「入りづらさ」にまつわる議論で巻き起こった討議空間の動性/流動性でした。

まず、多数の初見感想として出てきたその「入りづらい」印象とは、あるグループがもつ「特有のコード」を読み取る知覚かもしれません。または、作品内でのコミュニケーションのなかにおける「居場所のなさ」や「排除されるかもしれない」という自己が存在しえない、居心地の悪さを感知しているのかもしれません。そして、「入りたいけれど、そして受け入れてくれると思うけれど、それでも入りづらい」、また「加わったとしても、同じ言語や経験が共有されえないズレた状態が起こるかもしれない」という知覚と、経験や思考が共有されずにすれ違うことへの悲しさかもしれません。異なる経験や言語で行う議論を想定すること。その想定している瞬間には、「排除されるかもしれない」状況を想定する不安と、「排除されたくない自分」の存在があります。

また、「入りづらさ」という感覚へとつながる映像から読み取られたコードや、「ファッショナブルさ」、「洗練さ」を体現するイメージという予めもっていた認識の働きによって、彼女たちを捉えていたのかもしれません。そのイメージやコードを「内/外」を区別し分離化していくような身振りとして作動するものとして措定しつつ、彼女たちの言動を知覚したものなのかもしれません。

そのように、複数の視る身体におけるさまざまな知覚の働きと、その言語化してその感想・認識をまずは共有しました。

しかし、それぞれの語りの往来が重なるにつれ、いかにその「集団性」や「関係性」(または自己との連続性)を捉えるかという論点自体が、まさに議論のなかで変容していくという状況になっていきました。その場では、参加者たちはただの目撃者や鑑賞者ではなく、その認識の変容に巻き込まれる存在となり、当初それぞれが抱いていた認識もが変容していく経験をしていたかもしれません。

認識の変容とは、議論一般で起こることなのかもしれません。しかしあの議論での変容は、あの映像で映されている同じ対話行為の捉え方の変化によっておこる/おこった経験につながるような作用を生み出したものだと思います。まずは関係からの排除という分離化させられるような認識を抱き、ながらもその居場所のなさや入りづらさの根拠を「集団性」という言葉による表現に落ち着かせるのではなく、「入りづらさ」という感覚から、眼前で繰り広げられる対話という行為自体が関係の生成する過程として見出したことになっていったことが、慧眼する点であったと思います。その過程とは、中心的に語られることのない/なかったセクシュアリティを語れるという嬉しさや、経験の共有における嬉しさでもあり、語り合うことで構成されていくセクシュアリティとジェンダーが絡みあった関係が編成されることでもあります。その編成の過程に必ずしも関係のなかの対象が含まれていなくても、そのような関係は成立するものです。そして、その対象たちを特殊化しないかたちで捉えることは、それぞれが置かれている秩序や身体から発言をすることが可能となり、ジェンダーやセクシュアリティとなどと切り離さずに、対話のなかで他者と自己との連続性を見出せる視点でもあります。このような視点の創出は、私が当初見据えていた意図とは予想外の出来事であり、同時にそのような他者への視点/姿勢/認識の仕方の大切さを噛み締めています。そのような議論をし、経験し、変容する場へと移行していくために討議に参加してくださった皆さんに、感謝しています。

 

3. 議論を受けた後、思考したこと

余談として、議論を終えたのちに私の思考が続いた内容を書き留めてこの文章を締めさせていただきます。火曜会の後でも思案していたことは、「予めの認識」と「レズビニアニズムの不可視性」と「外見とセクシュアリティの関係」についてです。

セクシュアリティ・マイノリティに対する近年の予めの認識とは何か。いかにセクシュアル・マイノリティが表現され、イメージが作られ、流通しているか。その表象によっていかに「セクシュアル・マイノリティ」という存在が認識されているのか。

近年のセクシュアル・マイノリティへのイメージは、しばしばテレビで映されるオネエの言動や、レディー・ガガやマドンナというファッション/ディーヴァ・アイコンと結びつけることで個々のなかに形成されていきます。または、個人的なセクシュアル・マイノリティとの関係や交流の経験からも構成されることでもあります。ここではメディアで取り上げられるイメージに着目しますが、セクシュアル・マイノリティとの関係や交流を持っていたとしても、それは必ずしもセクシュアル・マイノリティを「正しく」認識しているとは限りません。では、どのようにある存在を認識していくのか。

メディアの表象によって印象づけられるセクシュアル・マイノリティのイメージとは、「おしゃれ」で「美容でのプロ」であり、彼/彼女らが発信する情報は「消費活動のエキスパート」の意見として映しだされる傾向があります。または、「常に何かしら社会的・制度的な困難を抱えている人たち」として認識しているかもしれません。このような予め持っている社会に浸透したイメージにと結びつけながら他者へ視線を投げかけるとき、「自分が属していない」他のマイノリティ集団に対する自分との相似と差異に基づいた他者化と、その集団の対象化が起こると思います。そこでは他者と自己との連続性は見出せられません。またそのイメージ化からは、対象を自己と切り離しつつ、視るものが感じる対象のなかへの「入りづらさ」と同時に「入らなくても済む」といった余裕のある、優勢的な位置取りが露呈する瞬間が生み出されるのかもしれません。

また、他に気になった点として、そのセクシュアル・マイノリティへの認識には、少なくともあの回での議論のなかではレズビニアニズムという要素は入っていませんでした。それが何を指すのか。あの場での議論では「他者との関係生成」という普遍化する営みが行われましたが、その議論のなかではたらいている認識には、レズビアンである/とされる対象への特殊化が同時に起こっていたのではと思います。

その特殊化は、レズビアンが抱え込む不可視化という困難につながることかもしれません。それはつまり、「女性であること」と「非異性愛者であること」の二重の周縁化が見えづらいということです。その不可視性は、性的に一貫した、つまり異性愛というセクシュアリティと、性認識のジェンダーと、社会的に女性身体と認知されるセックスが一致した「女性(または「男性」)」であることを一貫させ続けることを、ジェンダー/セクシュアリティ規範から求められることでもあります。「女性が女性を愛する欲望」、「男性に望まれたくない欲望」と一括りに表現するにはやや暴力的なので、「〈わたし〉が〈あなた〉を愛する欲望」と「〈あなた〉には〈わたし〉を性的に望まれたくない欲望」を表明する困難さにもつながります。この表明する困難は、異性愛規範(“(社会的に)男性であるもの「が」女性を愛する”という性的欲望の認識枠組み)からは見出されない欲望のあり方から引き起こされます。自己認識的に「女性self-identified woman」であり、同時に非異性愛者/性的マイノリティである「レズビアン」として社会的生活を送るうえでの困難さは、階級や人種という要素と絡み合いながら抱え込む社会的・経済的な生きづらさへとつながるものであるかもしれません。

私が意味する議論なかでおこったレズビニアニズムの特殊化とは、すでに「レズビアン」というカテゴリーが定まっているという前提のもとで議論が進んでいたことを指します。「レズビアン」とは何か、という論点は触れられる程度で、それ自体が中心となる議論には発展しなかったということです。このような事態は、あの映像から「レズビニアニズム」をいかに読み取るか態度においてジェンダー差が個々にあった状況が反映しているのかもしれません。

また、この不可視性は同時に、3点目の「外見とセクシュアリティの連関」における「コード」についての私の考察につながるのかもしれません。ここで指摘したいことは、アメリカにおけるジェンダー/セクシュアリティにまつわる「コード」の存在と定着についてです。ここでの「コード」は、対象のある外的(または内的)特徴から、そのセクシュアリティや態度を読み取り、対象を名付ける根拠や手段として位置づけます。そのコードからは、セクシュアリティなどの個人の属性や、その属性の名称、またそれらの要素を含んだカテゴリーを使用するさいの基準・根拠として作動しています。このような「コード」は、映画やテレビにおける表象の蓄積によって形成されているものであります。そして、外見(服装、髪型、身振りも含む)とセクシュアリティとの不/連続性が、あの映像には映されていました。例えば、主人公マックスの外見と政治的スタンスの不一致。もう一人の主人公イーライの外見の変化と政治的なものとセクシュアリティの立ち位置の変化が連動した表明。ブッチ(男性的)な外見をしつつバイセクシュアルな行為によって議論を巻き起こしたダリアの「女を愛する女」としての「レズビアン」セクシュアリティの自己表明と行為の不連続性。そしてウェディングドレスを着替えていく場面での女性的装いの「女性」(結婚することを望まれる対象)と「レズビアン」(男に望まれたくない欲望を持つ者)のジェンダー/セクシュアリティと家父長的異性愛主義と不一致であることの表明を装う行為によって、いわば不連続性を逆手にとった主体性の獲得の過程が映り込んでいました。

私自身の研究対象である日本の「男の子のような女の子、またはFtM」である「BOI」の身体と装いから表現されるものは、アメリカの状況とは必ずしも一致していないと思います。「BOI」という名称は、写真・インタビュー集『TOKYO BOIS!』(2011)の編集者カイザー雪がL.A.のレズビアン・シーンで出会い、それを新宿に持ち込まれたものです。そして、アジア/日本/東京/新宿において「BOI」と思われるものたちを中心に写したものが創りだされました。カイザー氏や写真家の戸崎美和は、「BOI」という言葉によって捉えられる「グレーゾーン」の領域を捉えています。そして、アジア/東京のBOIをインターナショナルに展開・紹介しようとすることも企画意図に含まれていました。しかし、その両者が領域は、両者間でも、ベイエリアの「BOI」とも、異なっていると思います。これまでの発表で、アメリカ研究者の「男性的女性」への「社会的無関心」を問題として取り上げていましたが、そのような状況は日本でも異なっていることに気づきました。その気づきは、それこそ『Go Fish』の映像で表される外見や身振りと『TOKYO BOIS!』で写される外見・装いのズレから生まれたものでした。この気づきそのものを、議論のなかでは言い出せなかったのですが、今後の私の研究のなかにおいて重要な経験になると思っています。

 

長文となってしまいましたが、火曜会での議論と最後までこの文章にお付き合いいただいたみなさま、ありがとうございました。

 

佐々木薫

 

応答 岡本直美

「わたしたち」という関係性を議論すること

 

「セクシュアリティやジェンダーにまつわるカテゴリーや呼称が細分化、多様化しいわば氾濫している現状や、既存のカテゴリーから距離を取るような『曖昧な語り』を行う存在が増えてきている状況下においても、ジェンダーやセクシュアリティなどを含めた『自分』を語る言葉の無さ、説明のつかなさという困難があるのではないだろうか。あるいはその『説明の仕切れなさ』がカテゴリー氾濫の現状を反映しているのかもしれない」[1]。このような問題意識をもつ佐々木さんは、なぜ映像『Go Fish』を議論したかったのか。その意図や省察はご本人のコメントで丁寧に記されているので、ここでは「わたしたち」という関係性を議論することについて、わたしなりに反芻してみたい。

今回の議論では「入りづらさ」について、わたし自身、立ち止まることが多かったが、それは映像への入りづらさというよりも、その映像について議論することへの入りづらさであったかもしれない。『Go Fish』は、一般的に「レズビアン映画」と認識されているが、自身としては、「いわゆる(男性と女性の)ラブストーリーに見えた」というのが率直な感想であった。物語のなかでは、レズビアンだと自称しつつ男性と性行為をもった人物に対する糾弾や、レズビアンであることが判明して母親に追い出される人物が描かれていても、わたしには「普通」の映像に見えた。そのように「普通」で「自然」に見えた(見えてしまった)映像を、「レズビアン映画」の感想として自身はどのように発言すればいいのだろうか。このような(不要かもしれない)身構えと共に議論がはじまった。

議論においては、コミュニティや集団性という言葉によって限定される空間や関係性、「自然体」になるためのメンバーシップの条件等、「わたしたち」として表現されることの関係性について様々な意見が交わされた。クイア・スタディーズが「最終的には、『普通』の人びとがそうした(自らを抑圧するものでもあり、魅了するものでもある:引用者)『普通さ』のただなかに置かれ無意識状態にされたり、また『普通』からはずされた人びとが『普通さ』に惹かれていくことによって、社会はどのような利益を得るのかという問題に切り込む可能性」[2]を示すのであれば、『Go Fish』を「普通」の映像と感じた自身を出発点に思考をめぐらせることも必要なのかもしれない。映像を通じて「わたしたち」という関係性を議論し、火曜会という多種多様な背景をもつメンバーで「理論化」(レイ・チョウ)する経験は、「普通」という私的な感想に立ち返る機会を与えてくれるものとなった。

 

[1]佐々木薫「“女性の男性性”とは:『TOKYO BOIS!』の「若さ」をめぐって」(クィア学会第7回研究大会での報告レジュメより)

[2]河口和也『クイア・スタディーズ』岩波書店、2003年、128頁。