火曜会

火曜会は、言葉が帯びる身体性を押し隠すのではなく、それを多焦点的に押し広げることこそが研究行為ではないか考えています。また研究分野の境界は、分野の前提を再度議論する中で、連結器になるとも考えています。

火曜会通信(5)「乞食」からはじまる場

「乞食」からはじまる場(2015年10月28日)

岡本直美

 

今回は「『乞食』という名のり」というテーマで報告しました。1950年代前半に沖縄県伊江島で土地接収を経験した人びとが度重なる折衝の結果、「我々は乞食になる」と宣言し、乞食行進を沖縄全島で展開した時期についてです。

伊江島の闘争[1]は具体的な闘争方法や、陳情方法が運動の特徴として印象的です。例えば、「陳情規定」[2]や、琉球政府前での座り込み、演習地内での実力耕作は、当時の新聞でも数多く報道された[3]インパクトのある行動でした。また、米軍や琉球政府と直接折衝する伊江島の存在は、当時の強硬な軍用地接収を経験するほかの沖縄住民にとって、希望を託すようなものでもあったでしょう。たしかに、自ら折衝のテーブルにつくという点から、伊江島の力強さがうかがえます。

一方で、伊江島は軍用地問題に限定されない人びととも繋がっていきます。ぽつぽつ、じわじわと、伊江島に対する関心や共感が人びとの間で生まれ、それぞれが繋がっていく情況がありました。私は、伊江島が「乞食」と名のる動きをたどるうちに、このような関係性が生成されるプロセスに関心を持ちました。ですが、その関係性が「何であるのか」「それがどのような効果や結果をもたらしたのか」ということとは少し距離を置いて、多様な人びとが「いつの間にか繋がっていく瞬間の重なり」から伊江島の行動を考えてみたかったのです。今回はそこに踏みとどまって、火曜会のメンバーと充実した議論ができたことに心から感謝します。

 

 

今回の報告では、伊江島の多様な折衝内容の中でも食糧対策を紹介したうえで、「乞食」を考えることにしました。食べることをめぐる折衝から浮かび上がるのは、恒久的な生活補償を実現することの限界です。

食糧対策は、代替地が鍵を握る問題でもありました。米軍は、軍用地や村有地を代替地として提示しましたが、そこはほかの所有者の存在があったり、農耕に適さない土地であったりと、立退き者にとって接収前と同等の生活ができる場所ではありませんでした。ですがどこにもない「代替地」を選定してリストを提出しないことには、米軍からの援助は受けられなかったのです。米軍側の論理では、既に軍用地料を支払い、移動費を援助し、移動先の家屋も建築する…など援助内容[4]を提示しているにもかかわらず、立退き者が解決に向けての建設的な態度を取らないという主張でした。伊江島に食糧はあると判断した米軍の反対によって、5月分から生活扶助費の支給が停止されました[5]。そのような状況下で、琉球政府は当面の食糧対策として、伊江島の人びとを生活保護の該当者として救済しようと行動するようになります。1人1日21円[6]という生活扶助費ですら生活できる金額ではないと、演習地内での耕作許可を要求していた立退き者たちは、扶助費を打切られた後も被救済者となることを拒みました。生活保護該当者として救済されるのではなく、軍用地被接収者として生活の恒久補償を求め、それが実現できない場合には「土地を返してほしい」と要求しました。そして相容れない折衝の結果、立退き者たちは「乞食になる」と宣言し、「乞食行進」[7]という街頭行動で人びとに現状を訴える行動を取りました。

 

生活というのは、一朝一夕の話ではありません。ある場所で積み重ねてきた生活[8]を別の処に移動して、移動前の生活がすぐに再開・継続できるわけではありません。村という共同体で生きるということ、畑で作物を耕すということ…。生活は、すべての時間の重なりです。ですが、米軍の提示した援助の条件は、このような生活を補償するものではなかったのです。また、軍用地接収を動かせない前提とした状況下では、琉球政府(行政府や立法院)も、救済方法を模索するしか方法がなかったのかもしれません。米国議会、空軍、米民政府、琉球政府…と様々なアクターが関わり合っていて、それぞれが各自の論理で何らかの援助を提示しました。しかしながら、それらの論理に巻き込まれていくほど、伊江島の人びとは、尊厳ある人間として生きる場を確保することができなくなりました。伊江島の「乞食宣言」は、このように一方的な論理の中でしか生きられず収奪に逆らえない状況に対して、拒否を突きつける意思表示だったのではないでしょうか。また、「乞食」という名のりは、誰が(何が)収奪しているのか特定し得ない状況でも、自らの生活を奪う事実は確かにあるということを示そうとした行動だったのではないでしょうか。火曜会の議論では、このような経緯も含めて、「乞食はあらゆる剥奪を抱え込む存在であったのではないか」とのコメントをいただきました。

 

 

「乞食」は、軍用地問題に限定されない様々な人びとと繋がりました。例えば、那覇で座り込みをしている伊江島の陳情団を慰労した男性は、「市場の米売り婆さんたちからわずかずつ貰い集めて」お粥を作って差し入れました[9]。この男性は余裕があってカンパしたわけでもなく、1人だけで行動したわけでもありません。男性を通じて間接的な慰労も陳情団に施されたのでした。また、伊江島の行動によって、それまで沈黙していた人びとの言葉が発せられる場面もありました[10]。「乞食」の発した言葉は[11]、どれも当時の事実関係と照合することである特定の意味を持たせることはできます(「説明する」ということに囚われすぎて、私自身も限定してしまいがちでした)。ですが火曜会で議論が活発になったのは、これらの言葉が、事実の説明にとどまらない、重層的な意味や効果を持ち得たことに注目すべきではないか、という点においてでした。

言葉遣いだけでなく、「乞食」のパフォーマンス性に関する話も出していただきました。「乞食」と名のった集団が、街頭行動という目に見えるかたちで人びとの前に現れる。乞食と自称するが、政治団体でもなく、宗教団体でもなく、なんだかよく分からない…。土地接収による現状を演説するが、政治的な演説でもない…。しかしながら、街頭演説の場で明確に政治的な対峙関係が浮かび上がる瞬間もある。だからこそ、人びとの関心や共感を得たのではないか。

ここで紹介しきれないのが残念なのですが、他にも多様なコメントをいただいたことにも(そのような議論の場があったことに)、「乞食」のもつ(抱え込む)可能性の広がりが表れているのではないかと思いました。

 

ある集団が取った行動に対して一元的な説明をしてしまうことや、それを何かの象徴として好意的に論じることは、歴史の物語をあらかじめつくってしまう危険性もあります。伊江島の「乞食」も、関係生成の媒介となるだけでなく、分裂や糾弾も経験しました。また、当時の時代背景から、政治団体の関与や本土との関係性を考察することも不可欠です。それらを今後の課題として、今回は、「乞食」という名のりを通じて、「それでも人びとが繋がった」という瞬間の重なりを議論できたことはとても有意義でした。人びとの繋がる場や瞬間から伊江島の運動を捉えなおすと、明確な敵対関係や政情とは異なる反基地闘争の様相がみえるかもしれません。

現時点の私はまだ、乞食が繋がった「人びと」に名称を与えることができずにいます。それも運動を考える際の今後の課題として、まずは、「乞食」が何者でもなく、何者でもあるということから出発することの可能性を火曜会で教えていただいたこと。それを大切にしたいと思います。

(2015年11月のはじめ)

 

[1]この闘いは、主として伊江島の真謝区が中心であったが、当初は伊江村内の他の区も関係していたなど、局面によって多様な名称が考えられる。今回の火曜会通信では「伊江島」で統一した。

[2]1954年11月に、伊江島真謝・西崎両区の地主が、米軍の土地接収への対応を協議した結果として作成した共通認識。全11項目。(阿波根昌鴻『米軍と農民』岩波書店、1974年、50-51頁。)

[3]当時は「暗黒の1950年代」といわれるほど、占領下の沖縄では言論統制が厳しい状況であった。その状況下で、米軍や琉球政府に公表されない内容や、事実と異なる内容に対して、伊江島の立退き者は反駁文や声明等を新聞に発表する行動も取った。

[4]提示された援助内容も、低額な軍用地料や使用不可能な廃材を建築補助資材とするなど、必ずしも「良心的」なものではなかった。

[5]琉球政府の予算案に対し米軍が「検討を要する」と回答した。これは土地接収反対行動に対する兵糧攻めでもあったと指摘される。(『怒りの島・沖縄』大阪読売新聞労働組合、1970年)

[6]一般に当時はタバコ1箱(20本)が20円だったといわれる。

[7]1955年7月28日に那覇での乞食行進が始まり、沖縄全島で行動した。1956年2月まで継続。

[8]伊江島の真謝区は戦前の開拓地でもあり、沖縄戦の焦土化から再建したことも考慮する必要があるだろう。

[9]『怒りの島・沖縄』前掲、41-42頁。

[10]例えば、「自分がパンゝをしているなんで誰にもしられたくないんです」と言う女性も、伊江島の行動に対する発言の中で、自らの現状を言葉にした。(「或るパンパンの話」「伊江島関係資料 沖縄土地を守る協議会 1956.9」)

[11]例えば、「乞食宣言」や乞食行進で登場する「恥」や「泥棒」、「乞食」といった言葉について火曜会の議論が活発になった。伊江島の「内的な倫理規範」の背景からこれらの言葉を考察することで、「乞食」のもつ重層性をより深く考察できるのではないかと教えてもらった。