火曜会

火曜会は、言葉が帯びる身体性を押し隠すのではなく、それを多焦点的に押し広げることこそが研究行為ではないか考えています。また研究分野の境界は、分野の前提を再度議論する中で、連結器になるとも考えています。

火曜会通信(8)「日韓近代美術家のまなざし」展をみる

 

絵をみながら考えるー「日韓近代美術家のまなざし」展をみる(2015年11月18日)

西川和樹

 

先日の火曜会の報告の、「「日韓近代美術家のまなざし」展をみる」のための準備をしている途中で、つぎのような文章に出会った。「眼前の光景を言い当てて過不足ない言葉を見出す――これはどんなかむつかしいことであろう。しかしそこを乗り越えて訪れた言葉は、小さな槌で銅板を打って浮彫にするように現実的なものを打ってイメージを浮彫にする」(多木浩二(今福竜太編)『映像の歴史哲学』(みすず書房、2013年)p.83)。目に見えているものを過不足なく言葉にすることはなんて難しいのだろうか、ベンヤミンのこの言葉に、自分の直面している問いを言い当てられたようだった。

絵についてなにか書こうとするとき、言葉は容易にはみつからない。

図録などを片手にパソコンの画面に向かうも、その絵に対してどのような言葉をあてはめて良いかわからず、停滞した時間が流れる。とりあえず描かれているものを列挙してみる。「この静物画には四角い箱と丸い壺が並ぶようにして描かれていて・・・」。しかし言葉はただ目に見えるものを描き出すためにあるのだろうかという疑問が、とりあえず絵について書こうとする筆を止め、ではいったい何を語れば良いのかという、はじめの状態へと戻ることになる。

これは例えば美術館に行った時も同じで、時折、展示されるいくつもの絵をみながら、言葉が吸い込まれて、自分のなかから消えてしまうように感じることがある。そうしたときは自分と絵のあいだに距離が埋まることがなく、その距離によって言葉は停滞し、絵はよく見えなくなる。

絵が言葉になるためにはなにかきっかけが必要で、そのきっかけをつかみさえすれば、絵は自分の身体の中に入ってきて、風景になる。風景になった絵は自分の言葉とうまく混ざりあい、重なりあう。そうしたときの言葉は強い。この重なりは何なのだろうか。

絵が言葉になるきっかけを求めて、今回の火曜会の報告では、スクリーンに投影される絵をみながら、それについてひとりひとりの言葉をもらい、『日韓近代美術家のまなざし』展について考えていった。同じ絵をみながら話をするなかで、ひとつの絵は言葉を与えられ、そうすることで、少しずつ別のものになっていく。

言葉をもらいながらゆっくりみた、李快大の≪二人 肖像≫という絵は、正面に複雑な表情を浮かべる民族服を来た女性、その背後、影になるようにしてもう一人の人物が描かれている絵で、この背後に描かれた人物はネクタイをしているように見えるので男性に見えるのだが、この男性と正面に描かれた女性との関係性はいかなるものなのか、ということをめぐって言葉が与えられていく。一方で、男性にみえるとしても、この背後の人物は女性にもみえるという声があって、話をきくうちにこの人物が少しずつ女性のようにみえてくることも面白く、絵と言葉が重なりあうなかで、新しい風景がみえてくる。

もうひとつ山口長男、≪風景(朝鮮)≫という絵をみた。鮮やかな黄色で描かれた風景は、山の重なりのようにみえるけれど、全体的にかたちや色は曖昧で、何が描かれているかは定かではない。この絵は題名に≪風景(朝鮮)≫とつけられていることから、また描かれたのが1945年だということから、この山の感じ朝鮮の風景にみえる、いや、題名がなければ何を描いているのかわからない、1945年のことを考えると画家の暗い気持ちが読み取れる、などといろいろな感想が寄せられた。言葉や数字が絵の内容を規定することは、今回もそうだが、いつもとても難しい問題で、この絵も題名を隠した状態でみるとすれば、また別の感想を集めただろうし、絵を見る人はあまりにも題名や作者や年代にとらわれすぎているということも言えるだろう。一方で、題名が絵の見方を規定し枠づけてしまうことはあるにしても、題名として与えられる言葉は絵の見方を限定する枠であるとともに、枠づけられる瞬間は、その枠を飛び越えて外へと出る可能性にも開かれているのだと考えることができれば、絵と題名の関係についてそんなに厳しくある必要はないのかもしれない。絵だけみるのでもなく、言葉だけで考えるのでもなく、絵も言葉もどちらもあわせがなら考えることに、何かしら力を感じていて、絵と言葉が重なる瞬間を求めているのだと思う。