火曜会

火曜会は、言葉が帯びる身体性を押し隠すのではなく、それを多焦点的に押し広げることこそが研究行為ではないか考えています。また研究分野の境界は、分野の前提を再度議論する中で、連結器になるとも考えています。

火曜会通信(9)「植民地」/「植民」における言葉の政治

 

「「植民地」/「植民」における言葉の政治」ー「植民」からコロニアリズムを考えたらどうなる?(2015年11月18日)

番匠健一

 

「「植民地」/「植民」における言葉の政治」というタイトルで発表させていただきました。この場を借りて、議論のなかで出てきた言葉を、その場で理解した限りにおいて振り返ってみたいと思います。「通信」は、ある集団の構成員に配布され限定的な集団性を再生産するようでいて、それ以外の人にも回し読みされる可能性が常にある不安と期待が半々の媒体です。議論と場所をご一緒した人たちの言葉の記憶を、その場を共有していない人へと開くことがどんな未来につながるのか、、、気にしながら振り返って書いております。

この発表で取り上げた「内国植民」そして「植民」という言葉については、現在の日本語ではあまりなじみがない言葉です。対して、「植民地」という言葉は想像以上に多用されている言葉ではないでしょうか。「植民地」という言葉において何かが確認され、了解されるような言語空間ができているような気がします。今回の発表では、日本社会学院という大正期の研究者集団によってつくられた議論の場を読みかえしながら、「植民」と「植民地」という言葉が持っていた多義的なあり様を素材に話題提供させていただきました。戦後日本の「植民地忘却」については既にいろんな文章で指摘されていますが、戦後を絶対的な地点とするのではなく、日本近代のなかで「植民」と「植民地」の言葉の政治を読み解く作業が必要だと感じます。

現状を何か言葉にかえたいとき、名指しえない力学を「植民地」や「植民地主義」という言葉で指し示す試みは理解できます。しかし「植民地」という言葉がなにかシンプルな支配・被支配関係に還元されるような形で、いろんな場所に転用され、なにか言葉の落ち着きどころがないような印象をもったのは私だけではないと思います。こうした「植民地」という用法は、社会運動や文学のなかで言語化できない現実をたぐりよせるかのように「植民地」という言葉に賭ける、というよりは、むしろ中央と地方という地理的空間や、支配民族と抑圧民族といったあらかじめ設定された集団のような、ある既存の関係のフレームに落とし込んでいるのではないでしょうか。

会場での議論において、1990年代の「女性のためのアジア平和国民基金」とその後をめぐる議論のなかでも、植民地をめぐる議論が貧困になるきっかけがあったとの意見もいただきました。「慰安婦」として被害を訴える側と良識的な日本人を代表する側の関係でかわされた議論は、「慰安婦」という衝撃的でありわかりやすい存在として「日本植民地主義の遺産」を位置付ける一方で、「慰安婦」という集団に日本人「慰安婦」の問題が入りにくい構図をつくっていたのではないか。コロニアリズムと性、あるいは軍事と性の関係をより深く議論する回路をつくりだすことも、「植民地」の概念を解きほぐす作業と重なるように思いました。

UCLAからのゲストである平野克弥氏からは、「植民地」と「植民」の問題に、いわゆるColonialism(植民地主義)的なフレームにSettler Colonialism(この発表の限りで訳せば「「植民」的植民地主義」とでもなるのか)の視点を入れて考えてみることを示唆されました。Settlerにとっては土地の獲得が非常に重要な問題であるが、入植のプロセスのなかで進行する土地が商品化や資本の問題を考えたときに問題は土地だけにとどまらない。入植者は、農業によって生計を立てる「自作農」(高岡熊雄の用語では「中農」)というイデオロギーのもとで「自活」という理想を追い求めるなかで、産業化を遂行する主体としての「労働者」へと編入される。一方で、先住民はdisposable labor(使い捨ての労働力)ではなく、むしろdispensable population(不必要な人口)へと変容させられる。「植民」にかかわる資本の問題を、「封建的遺制」とするのではなく、正面から考えるための大きな問題提起がありました。

今回取り上げた稲田昌植、高岡熊雄、稲田周之助の三名の論考が「植民」と「植民地」という言葉にまったくことなる意味を付与していることからも議論が広がったように思います。北海道を北方の拠点として自由主義的な帝国と「内地植民」を説く稲田、そして「植民」は社会政策だという高岡、そして「植民地」と「植民」の国際法的な定義にこだわる稲田のそれぞれの立場の異なりこそが日本帝国を考える重要なポイントかもしれません。明治期には、資源の開発や国家防衛のために北海道は、内国化(internalizeもしくはnationalize)される空間である一方、内地からの植民によって植民地化(colonize、「植民」的な意味において)される空間でもありました。ここでは「境界領域」であった場所をいかに日本帝国の版図に編入するかが問題でした。しかし、そうした経緯は重々承知しながら「植民」は社会政策であると言い切る高岡熊雄の言葉には、日本帝国の次の展開を見すえた変化があります。「境界領域」において考えられてきた「植民」の問題は、大正期に噴出する失業問題、人口問題を抱え込みながら、日本帝国の圏域内での「植民」へと問題系を広げます。これは宗主国と植民地という法的・地理的な空間の定義を前提とした、いわゆる「植民地主義」であるよりは、むしろ日本帝国の境界内外を「移動」する主体と生起する社会問題を抱え込むような「植民」の動態を社会政策という言葉で再度包摂するような問題系です。

火曜会の場は、「歴史」の領域に囲い込まれた問題と自分たちが雁字搦めになっている現在の思考枠組みの両方を行き来しながらその往還において資料を読み、自分自身の裂け目から言葉を生み出すような行為を積み重ねるところだと思います。この積み重ねのなかで「植民地」と「植民」という言葉の拘束を逆に遡って、言葉の歴史性とともに議論を進めることでしか自分が寄ってたつ言葉の感覚を創りあげることはできないのかもしれない。