火曜会

火曜会は、言葉が帯びる身体性を押し隠すのではなく、それを多焦点的に押し広げることこそが研究行為ではないか考えています。また研究分野の境界は、分野の前提を再度議論する中で、連結器になるとも考えています。

火曜会通信(15)とりあげられてこなかった護照

 

とりあげられてこなかった護照(12月16日)

篠原由華

 

今回の報告では、英清天津条約で規定された護照と、それとは異なる同時代の「護照」との関連性やつながりを考えてみたいと思い準備をしてきました。ですが、実際展開された議論では、自分が無意識のうちに流していた多くの論点に気付かせてくれる話がされたと思います。それは火曜会で大事にされてきた「討議空間」をようやく体感できたような、より身近に感じたような、そんな感覚でした。まずは議論に積極的に参加して下さった皆様にお礼を申し上げたいと思います。ありがとうございました!

 

展開された議論を全て振り返るには、自分自身がまだ消化しきれていないので、ここでは印象的だったトピックを挙げてみたいと思います。まず「旅券は本当にその携行者を守ってくれるのか」という話です。これは姜さんのご自身の体験を交えたコメントから、映画『みんな生きている』に登場する「日本国旅券」を高々と掲げながらも銃殺されてしまうジャパニーズサラリーマン等、様々な事例が挙げられ、非常に議論が盛り上がったように思います。また「旅券がきっと自分を守ってくれるという前提が、いつメルトダウンするかわからない」という不安定な空間が、清代の「護照」を使う環境にあったのではないか、ということも話されました。

この議論を振り返って今思い出すのは、修士論文で取り上げた能海寛と能海の史料を読んで「どうして?」と当時疑問に感じた自分のことです。能海は中国にある日本領事館で「護照」を申請し、四川省経由でチベットへ入ろうとしました。しかしその護照を持っていても、四川省の奥地で住民たちから猛反対に遇い、また当地官吏からも帰ることを促され、結局能海は重慶へ引き返しました。当時、これを知った私は「パスポートを持っていたのにどうして入れなかったのだろう」とまず疑問に思ったのを覚えています。その時の私は知らない内に『みんな生きている』の日本国旅券を見せれば発砲されないであろうと、旅券に対し過剰なまでに信頼を寄せているジャパニーズサラリーマンと同じような考えを持っていたのではないだろうか、ということを今回の議論を通して感じました。実は「不安定な空間」の好例は、修士の頃、嫌と言うほど資料を集めた地域のことだったのではないのか、と。能海の携行した護照と当時の四川省奥地の実態との「ズレ」、そしてそういった空間と私自身の旅券に対する過信との「ズレ」に気付かされた議論だったと思います。

 

そして「不安定」な空間と関連する議論が他にもされました。それは「よくわからないけど、貼っておこう」という、護照を鶏一羽で手に入れた曹の曖昧な動機です。

アヘン戦争下の上海で日記を書いた曹は、自宅の門に「護照」という書類を貼ることを隣人から聞き、それをなんとか用意した鶏一羽と引き換えに手に入れます。しかし二日後に突然訪れた泥酔したインド兵は、曹が指差す門に貼られた「護照」を無視し、ただただ「コインを渡せ」と繰り返し、家の中をめちゃくちゃにしてしまいます。

この日記で見られる「よくわからないけど、とりあえず鶏一羽で買っておこう、貼っておこうという「ノリ」。今の「旅券」からは連想できないような、不安定さを強調する議論だったと思います。権利を鶏一羽で買う、しかしその権利が本当に効力を発揮するかは、「よくわからない」。これも先に挙げた能海寛のものをはじめとする天津条約で規定された「護照」がおかれた「空間」と共通した「不安定」性が見られるように思います。

 

ひとつひとつの事例についてじっくり話す、そういった作業を繰りかえすことで、ようやく「共通性」が見えてくる。文字にすると至極当然で、「何をいまさら」と言われてしまいそうですが、議論という営みの豊かさを火曜会が教えてくれたように思います。

 

また一緒に議論させて下さい!