火曜会

火曜会は、言葉が帯びる身体性を押し隠すのではなく、それを多焦点的に押し広げることこそが研究行為ではないか考えています。また研究分野の境界は、分野の前提を再度議論する中で、連結器になるとも考えています。

火曜会通信(16)遠藤友四郎の三部作

 

 

社会主義者の言葉と言葉が横断する場所としての文学

―遠藤友四郎の三部作を中心にして考える

姜文姫

 

12月16日の火曜会、二つ目に報告させていただきました。まだまだ報告と議論の熱気(また忘年会も!)の余韻が冷めやらず、なされた議論がうまく整理できなくてどうすればいいか正直わかりません。また、レジュメには私の研究の経緯や自分なりの方法論と今後の目標までを示せなかったことに気づき、これからはもっと皆さんと共有できる形で研究をやっていきたいと思いました。(これはたぶん冨山先生が松下竜一さんの本について議論された「読みうる文章を書くこと」にもつながるんだろうと思います)

この間、偶然に1929年から1949年の間ひとりの女性が炭鉱の労働者として二人の息子を育てる、1950年代に制作された映画をみることができました。炭鉱のなかで中国人と日本人労働者が助け合うシーン、手を繋いでまたは肩と腕を組んで抗議し未来への希望を楽しく歌う同志愛などは特に興味深かったです。しかしたまに登場する、まるで社会主義理論書を読むようなセリフには戸惑ったあげく笑ってしまいました。このように映画をみる私の感じることはいったいなんでしょう。今回取り上げた小説を取り扱おうとする私もそうですが、いつも自分が読む、見る・観る、書く、聞くことを強く意識しつつ読まれる、見られる・観られる、書かれる、聞かれる何かのものをモノとして思いこんでしまいます。これは修士論文を書くとき感じた、社会主義者の身体にあふれる情動や欲求をことばにすることの難しさでもあります。

猫と鼠が批判・同情・皮肉ったことに対し、再び読む側が解釈をつけても、はみ出してしまうものがあります。はみ出されたものをどうするかよりは、如何に生のまま対面するか、またそのようなことばが何から始まるか、などを考えたいわけです。だからこそ境界に立ち、ことばの空間を、場所を確保することは遠藤友四郎において肝心なことであったと思います。

 

高畠素之が『資本論』を翻訳しながらマルクス(と彼の著作)から「二人のマルクス」を読み取り、「ただ論理のみが神であった」ように見えたマルクスが「直截なる情意のみを信仰」する「情熱家としてのマルクス」でもあると把握したことを見逃してはいけません。しかし高畠は結局「情熱児としての『可変のマルクス』」を「科学者としての『不変のマルクス』」に回収してしまい、やはりここが彼の限界でもあると考えられます。ともあれ高畠の認識だけは的確だったと思います。彼はマルクスを翻訳する行為を、単なる外国語から母国語へ置き換える作業でなく、マルクスにありのまま対面しうるプロセスと見なしたのです。このような高畠であったからきっと境界に立ち止まった動物に注目して「『社会主義者になった漱石の猫』なら、定めし社会主義を主張するか実行するかの間に、滑稽、皮肉と云つた調子もあり、社会主義者にならない前の猫よりは、ズッと面白からうと思う」(「序」、『社会主義者になった漱石の猫』、2頁)と言ったのです。

また、均質なことばにならない「社会主義者」のことばがそう見えない形をとって語られ書かれることにもこれから細かく目を向けたいと思います。