火曜会

火曜会は、言葉が帯びる身体性を押し隠すのではなく、それを多焦点的に押し広げることこそが研究行為ではないか考えています。また研究分野の境界は、分野の前提を再度議論する中で、連結器になるとも考えています。

火曜会通信(17)藤井たけしを囲んで

火曜会特別編

藤井たけしを囲んで―「見慣れぬ帰還」(2015年12月22日)

 

対話

藤井たけし・小路まき子

 

た:もう何日か経っちゃったけど火曜会特別編はどうだった?常に応答しないといけないとか思ってると、あんまり全体的にどうだったとか残らないのよね。まずは全体的な印象から聞かせてもらえるとうれしいな。ま:全体的な印象、といわれると、わたしも結構考えるのに没頭していたので困ってしまうのですが、率直にいうと、いつもより(いつにもまして?)雰囲気が硬いように思いました。冨山先生がとてもよくしゃべっていた一方で、本当はもっと多くのひとが多くのことを考えていたと思うので。

その意味では、群れの戯れというより、どちらかといえば個々の身もだえの空気を強く感じました。もちろん、展開された議論そのものはとても面白かったのですけれど。

 

た:あ、なるほど。やっぱりいつもよりは雰囲気が硬かったのね。みんなが何をしゃべったらいいのか、考え込んでる感じで、「個々の身もだえ」って表現はよくわかる気がする。単純に16日の集まりのときにどんな話をしたのか聞くことから始めてたら、もうちょっとみんな気楽に話せたのかもね。というか、わたしはそれが一番聴きたかったんだけど。 それで、議論そのものとしてはどこがおもしろかったの?

 

ま:そうね、ただその前にもう少しだけ全体的な話を続けると、あの日の空気感は、わたしにとっては、火曜

会ってなんなのかということの一端をもう一度考えてみるきっかけになったような気もするんです。

 

た:わたしは火曜会って話にだけ聞いてて参加したのははじめてだったからあまりよくわからないんだけど、もうちょっと具体的に話してもらっていい?

 

ま:え、参加したことなかったの?知らなかった。

具体的にいうのが難しいのですが、要するに歴史の効果としての深層ではなくて、表層的な戯れの世界に身を翻す群れのあり方みたいなものが、火曜会をとおして体現され続けることの大事さを確認させてもらったような気がするんです。あの日の議論を聴きつつ思うに、巻き込むことと巻き込まれること、受動性と能動性の両方の側面をもった戯れのなかではじめて、わたしたちなるものは存在し得るわけですよね。この論文も、永遠に到達し得ないもののなかにしか実は見いだせない、「わたしたち」の生きられる場所をつくり出そうとしていると思うのですが、それはおそらく、終わりのないプロセスとして、しかも言葉においてしか確保できないものとして想定されている。だからこそ、ここに書いてある言葉たちは、切実な願いとして読むひとに迫ってくるところがあると思うんです。

そういう、当たり前といえば当たり前だけど、結構重たい話が実は、毎週の集まりである火曜会という設定の背後にもある気がして、そのような場であるからこそ、口が重くなるような空気も発生するのではないかと。そのことがなぜか普段より強く感じられたのが、今回の特別篇だったように個人的には思っています。本当に証明できるのか分からないことに関しては、沈黙しなければならないという類の自己検閲とは違った意味で、言葉と身体だけでひとつの現場(関係)をつくり、維持していくための緊張感を引き受けてしゃべりつづけること。きっとそういう困難を受け入れたうえではじめて、戯れという話も成り立つのかなと。

 

た:だましだまされる関係みたいなものが実はとても大事なんじゃないかってのが、あの日の集まりで話したかったことだったんで、それが火曜会という場そのものと関わるものになりえていたんだったら何より。ただその上で戯れにはやはり軽さも必要だと思うのね。「わたしたち」なるものは確認しようとしてしまうと永遠に到達し得ないどこかへ飛んでいってしまうように思うけど、その一方で常に既にここで生成しているものだとも思う。言ってしまえば「わたしたち」なんてのはウソなわけだけど、でも実在してるのよね。 「言葉において」というとき、何よりも大事なのはこのウソの領域だと思ってて、それはやっぱり「舌先三寸」やら「口からでまかせ」って言葉通りに、頭ではなく口から出てくるものだと思うのよ。ある種の緊張は人を饒舌にもするはずで、口が重くなってしまうような緊張ってのはどうなのかな。

 

ま:はい。反歴史的なもの、つまり、その時、その場所における具体的な状況や関係、そのつど純粋に生成される現在に可能性をみる立場から書かれたあの論文のように、火曜会も、理想的には身軽さを持っているべき集まりなのでしょう。ただ、実際に参加しているひととして見る限り、現実は必ずしもそうはなっていないように思います。民族と呼ばれる共同性をどう開くのかに対するこだわりの中から生まれたこの文章が確保しようとする言葉の在処は、へんなこと言っちゃいけないんじゃないかとか真面目に思ってしまうとなかなか、みえなくなっちゃうんじゃないですかね。

先生がアンダーソンのlong distance nationalismに触れながらおっしゃったことでもあったかもしれませんが、わたしは、いろんな時間やいろんな身体が現場に集まった時に何が起きるのかを想像させる、わくわくするような企みとしてこれを読みましたが。

 

た:論文でも「青い風」って短編の最後の部分を引用しておいたんだけどそれが「…でもおかしい。何かおかしい。みんな大真面目なんだもの。おかしくてしかたがない。」って終わってるのね。真面目になると結局、<歴史>に囚われてしまうように思ってて、投げ上げた石は真面目に見てるとやっぱり鳥じゃないってことになる。そういう真面目さをどうやってほぐしていくのかというのが「議論」ということを考えるときにはとても重要なポイントだと思うんだけど、そのときに冨山も好きな「どきどき」とか「わくわく」って身体感覚を語ることは一つのとっかかりになると思う。それで、「わくわくするような企み」として読んでくれたってとてもうれしいんだけど、もうちょっと具体的に言うとどんな感じ?

 

ま:そうですねぇ、あ、そうそう、議論する身体といえば、この火曜会通信というのは、議論の場の熱々さをそのまま確保するためにあるそうで、わたしはそれをとてもいい考えだと思っています。なので、少し当日の議論を振り返りつつ、わくわくしたところの話をしてもいいですか?

 

た:はいはい、その場にいなかった人も読むわけなんで、ぜひ!

 

ま:火曜会特別篇における議論では、関東大震災での虐殺の場面をめぐって、戒厳令的暴力から逃れるためには身を消すしかない、そういう身もだえと、統御しようのない遊戯が持つ軽やかさをつなげて考えることの大事さが強調されていたように思います。そこで、やはり在日朝鮮人だから殺される、という李良枝の文章に刻まれた朝鮮にあくまでこだわって読もうとした藤井さんと、そうでない李良枝の読み方をしていた先生との違いも露わになった瞬間がありました。といっても、両者は、民族をめぐってすでにふつう想定されるのとは違った事態が起きているという、藤井さんの議論においてつながっているのですが。 それはともかく、その時わたしが考えていたのは、それぞれの身体が引きずっている歴史性って、奴隷の足に括りつけられた鉛玉みたいなもので、そのまま逃げだそうとすれば必ず殺されてしまう。だったら、誰だか分かっちゃわないように正体不明の群れになろうじゃないか、というような、あくまで生き延びるための知恵や身振りをこの論文に読み取ることでした。いきなり高尚な理論でどうこうとか、そういうのとは少し違った感じを受け取ったというか。

 

た:虐殺の場面と言うか、虐殺を想起、あるいは反復している場面よね。あそこで李良枝が書いているのは戒厳令的暴力が「朝鮮人」の身体を構成している以上、朝鮮人になるためには殺されなければならないという、<歴史>への強迫だと思ってて、とりわけ「かずきめ」で出されているのはむしろ身体を消してしまうというよりは殺される身体を持つことで朝鮮人になるってことなんじゃないかと思う。この辺はもうちょっと具体的に作品に即して話せたらよかったんだけど。 それで、この部分に関わってあの日も喜代さんの発言を受けて少し話したけど、パッシングに関する話が出たじゃない?日本人になりすませるって話。この「変身」の孕む可能性について考えるためには植民地主義の二分法から抜け出してみる必要があると思ってて、おそらくあなたの言ってる「正体不明の群れ」ってのもそのことだと思うんだけど、ただ鉛玉からすぐ群れに行くには少し飛躍があるような気がする。歴史性ということと生き延びるための知恵や身振りというのがどういう関係たりうるのか、という点はもう少しつめて考える必要があるんじゃないかな。

 

ま:はい、そこが難しいなと思っているところで、鉛玉から群れにはすぐいけないんですよね。ただ例えば、かずきめを読んだ時にわたしが感じた、あぁ、わかるなっていう感覚だとかをどういう風に群れの生成へとつなげられるのかって、すごく重要な論点だと思います。 あまり変なことをいっちゃいけないかなぁと思ったので、議論の場では黙っていたことなのですが、やはりあの論文の、とりわけ注からは、藤井さんが対話してきたひとたちと藤井さんとの間で、ある現実感覚みたいなもの(現実とされている世界のなかに居場所がないと感じることだとか、現実の崩壊感といってもいいかもしれません)を共有し始める様子が視えるわけです。それは、自分が「女」だったり、「在日朝鮮人」だったり、「男」だったり、何者であるかがあらかじめ特定されている存在であるにもかかわらず、名乗りにかかわって感じてしまう違和、緊張、不安、言い切れなさとか、そういった身体感覚ともおそらく関係しているように思います。みんなのなかの影みたいなものが蠢きつつ、それぞれの固有の身体から離脱していくような、一人二人三人とかそういう数え方ができない群れが生成されていく様子ですね。

そのなかで、この論文を書いている藤井たけしという個人がわからなくなるような、ただ単に藤井たけしによる「李良枝遊戯」という以上のことが起きているように思うんです。誰がしゃべっているのか分からなくなるような記述において群れが生成されると同時に、この論文自身もそういった群れ的集団性による生成物であるといえるような。そのことをここまではっきり示してくれた論文には出会わなかったので、その点がわたしにとってはすごく面白く感じられました。ともかく、そういう風に、語りの位置そのものを変えようとしている(と思われる)この論文に込められたなにかを感じ取るなら、これをある人物の人格にのみ還元して読むことは避けなければならないだろうと考えていました。それにやっぱり、概念でも実体でもない「わたしたち」なるものは、言葉を読むことによって生じ続けるなにかとしてもあるように思うので、それが視えなくなる読み方はしない方がいい気がします。みんなのなかの影、というより、気が付けばいつも背後にいるあいつ、みたいな感じですかね。それを影という風に呼んでいるわけですけれど。割合最近出たちぇ・じんそくさんの本(『影の東アジア』)にもそのような表現、記述が出て来て、一生懸命読んだ覚えがあります。

それから、あの論文はわたしにとって、記述をとおしての介入であるというよりも、記述そのものが現場であるといった方がしっくりくると明確に感じられたはじめての体験でもありました。それはたぶん、藤井さんが、風聞として聴くのではなく、李良枝の文章を直接読むことを、「現場を尋ねる」という風に表現されていたことにもつうじるのではないかと思います。

 

た:それをあの場で言ってくれてたらもっとおもしろい場になってただろうに。遅出しってズルなのよ。(笑それはともかく、李良枝の書き遺したものを通していろんな友人たちと出会い直せたようにも思えたし、その意味ではあの論文は群れのなかから生み出されたもののように思う。

わたしと在日朝鮮人である友人たちとの群れがどうやって可能になったのかってことを考えてみるとき、あの日もちょろっと出てた通訳の身体ってのが重要なんじゃないかと思う。実際あの論文に登場する友人たちとは一緒に通訳をしたことも何度もあって、通訳という、バーバだったらin-betweennessって呼ぶような場を経験することを通して、わたしも、あるいは崔眞碩や趙慶喜や金友子のような友人たちも所与の身体から抜け出していたんじゃないかと思うのね。通訳ってチェシャ猫みたいなもので、身体は消えてるけど言葉はある。 その意味で通訳の身体みたいなものって果たして身体なのか、というのはもうちょっと考えてみたいところ。とても大雑把に言うとあの論文では李良枝は身体から抜け出して言葉に向かったっていう構図を描いてるわけなんだけど、李良枝が初期作品で描いている「歴史-身体」ってのが、結局どこにいったのかってのは、実はあまりちゃんと考えられてないようにも思うし、群れをなすこととの関係で、歴史と言葉、あるいは言葉と身体というものについて考えてみないといけなさそう。

 

ま:うん、その辺がだから、火曜会の裏の設定よね。(笑

自分が今やってきた研究にかかわって考えていることでもありますが、やっぱりヘイトスピーチは言葉の話だけど、抽象的・原理的なこととしてではなく、具体的な身体の破壊として論じられないといけない。李良枝論文で、「兄の死」が「死んだ兄」になったみたいに、藤井さんもこれからきっと、いわゆる実証とは違うかたちで具体的な話を書いていくことになるのではと思います。

そう考えた時に、わたしにとって興味があるのは、文体の問題についてです。なにか対象を説明するのではなくて、場を浮かび上がらせるような記述があるとするなら、それってどんな文体なんだろうかということですね。そういう言葉や記述においてしか、身体を共約不可能なままで確保するみたいなことは、やっぱりできない気がする。きれいごとを排したところでは、群れとはいったって、瞬間的にできる群れとずっと群れでいることってやっぱり違うと思うから。なんていうか、群れの生成を瞬間的に担う言葉ももちろん大事なんだけど、それとは少し別に、もっと場(としての群れ)を確保することそのものに関わる言葉があるように思うんです。火曜会だってそうですけど、降り積もった屑が少しずつ場そのものをつくり変えていくイメージです。その時の群れって、瞬間的にできるものとはやっぱりちょっと質が違うと思うのよ。その辺りを含めて、どんな言葉でなら、実際に群れの生成を担うことができるのかを考えたいです。

わたしとしては、ルポルタージュ的文体で歴史を書くことに関心がありますが、自分でもやってみたことがないので、まだよく解りません。史料(資料)やら、インタビューやらを使って勝手に書いちゃうだけではだめなんでしょうから、なんか方法を考えなきゃいかんなと思っているところです。その意味で、未来にかかわる発話としての「嘘」をテーマにした議論の場で、嘘か本当かの二分ではなく、「現実批判」として歴史を語る言葉や方法を模索することが大事だと確認できたのはとてもよかった。

 

た:ヘイトスピーチを身体の問題として扱うと言うのはとてもよくわかるけど、でも「身体の破壊」と言うときにまさにその破壊から始まる何かがあるかもしれないという可能性、群れになったりすることもある意味では身体の破壊ではあるわけで、破壊の持つ肯定性みたいな部分も同時に考えておかないと、かえって平板な議論になってしまうんじゃないかって気はする。 それで、いわゆる実証とは違う形での歴史叙述みたいなことを考えたとき、ルポや人類学なんかで試みられてるような書き方というのは学ぶべきところが多いと思うけど、そのあたりに関してはあなたの方がこの間ずっと考えてきている部分だと思うので、ぜひ教えてください。(笑 ある意味では、こんなことを真剣に議論してるわたしは、もう「歴史家」としては壊れ始めているのかもしれなくて、これは火曜会みたいな場に巻き込まれた成果だと思う。群れを確保することに関わる言葉って、それこそどうやって一緒にうまく壊れるかという話だと思って、単に壊すこと自体はあんまり難しくないけど、一緒に壊れつつ別のものへと生成していくのは簡単ではない。火曜会ってそういう手探りみたいなものを言葉でやっていく場なんだろうと思うんだけど、やっぱり一緒に壊れるには一回や二回ではだめってことなのかな。

 

ま:うん、それはそうなのよ。でも、今の暴力のありようって、肯定も否定もなくずるずるとぜーんぶ破壊されてくわけじゃない?となれば、もうすでに破壊の後を考えないと、生きるだの希望だのって言えないようになってる。だから、重点は、肯定か否定かなどではなくて、あくまで場(廃墟としての群れよね)の問題にすること自体にあると思います。崩壊の後の廃墟が持つ可能性を言うために、廃墟のなかにすでにありつつ、どうやって議論という手探りを確保し、言葉をつくっていけるか。これが問題だと思います。

言葉の力を信じるかどうかっていうより、状況がもうそうなってる以上は、やるしかないのよ。やっぱりヘイトスピーチとかって、いろんなきれいごとを排して考えてないと結局なんにも言えないで終わっちゃうだけのテーマなので。 それと、歴史家として壊れ始めてるとか真面目な顔して言ってると、李良枝に笑われちゃうかもよ。わたしは、ある文学作品について分析したり、説明したりすることが大変苦手なのですが、藤井さんのこの文章は、作者の手でちょっとだけ書いてある箇所(引用しているからそう見えるだけなのかもしれませんが、作者がそう思って書いているかどうかは、やはり作品そのものを読んでみないと、あるいは読んでみたとしても分からないので)から想像力を一気に広げて書いていくような、そういうことを全然躊躇せずにやっている感じがして面白かった。

李良枝の文学を、「在日文学」という括りから解き放つように読むということは、それが読まれる中で浮上して来る、「歴史ではないもの」を、もう一度物語としての歴史にしてしまうことなく、再現=表象するような営みですよね。それは生産的、創造的なもので、李良枝を読むこと、李良枝について書くこと自体、与えられている意味以上のものを生産し、再編成する行為なのであって。この辺りの、この論文における歴史を書くことと文学を論じることの近さは、これを読んでいて面白かったことのひとつでした。 火曜会みたいな場に巻き込まれた、というのも、巻き込まれることを待っていたからには、巻き込まれることにも能動性はあるわけですよね。なにか事を起こすために書かれた(と思われる)あの文章が、その次は?で終わっているのは、もちろんあなたがこれからどういうものを書いていくかという話でもある。けれど、それはやはり言葉と群れの生成の現場、それぞれの不安というか、問いを言葉にしつづけていく終わりのないプロセスにずっと参加し続けることを約束する、そういう態度の表明でもあったと思います。その第一歩が火曜会特別篇だったとするなら、わたし(たち)はたいへんな遊戯に巻き込まれたのかも。 一回や二回の参加じゃだめだと思うなら、冨山先生にもっと長く参加できるように呼んでくださいって、ご自分で相談してみればいいのでは?