火曜会

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火曜会通信(18)プラナカンの歴史が語られる場所

 

プラナカンの歴史が語られる場所

―シンガポールにおける消費文化とプラナカン博物館から考える(2016年1月6日)

安里陽子

 

今回の報告では、シンガポールにおけるプラナカン概念の再構築の変遷について、人口管理政策と絡めて取り上げました。プラナカン(Peranakan)とは通常「シンガポール、マレーシアにおいては基本的に、15世紀以来マラッカ、その後ペナンやシンガポールで西洋人との交易に従事してきた華人とマレー人との間に生まれた子孫を指す」[1]といわれ、海峡華人(Straits Chinese)やババ(Baba、男性)、ニョニャ(Nyonya、女性)とも称されます。プラナカンの定義や概念についてはさまざまな解釈がなされており、シンガポール社会において時代とともに変わっていくプラナカンの立場と連動しているかのように、その定義や概念にも大きな変化が生じます。

プラナカンは文化的な特徴によってまずマレー人の側から区別され、海峡植民地時代には中国生まれの移民と比べ現地に同化した存在としてババ・ニョニャあるいは海峡華人と呼ばれます。やがてプラナカンはシンガポールで追放令という植民地暴力に直面し、英国臣民である立場を主張、海峡植民地政府とのつながりを重視した「海峡華人」という語によって表象されます。その後太平洋戦争、イギリスからの脱植民地化を経てシンガポールが独立国家となる時期には、海峡華人であったプラナカンは「政治的に死んだ」[2]状態となり脱政治化され、プランカン性を抑圧していきます。やがてシンガポールの経済成長著しい1980年代後半になると、政治的、文化的にもプラナカン性が危機に瀕しているという意識がプラナカン協会の間で高まり、シンガポール、マラッカ、ペナンという3地域のプラナカン協会はともに文化によって主体の再構築を図り、共同体としての存在感を高めていこうと文化的活動を活発化させていきます。

報告では、2000年代後半以降、シンガポールを中心にメディアや消費文化において頻繁に登場するようになるプラナカン文化と、プラナカン協会が打ち出していきたい文化とのズレに焦点を当てました。

シンガポールとマレーシアのマラッカ、ペナンのプラナカン協会は1988年に共同で「ババ・コンベンション」[3]を開催し、再びシンガポール(とマレーシア)でプラナカンの存在感を高めていこうと試みます。シンガポール・プラナカン協会は1995年に「プラナカン文化と伝統の保存と復興を、文化的で社会的な、そして文芸的な活動を通して行っていくこと」[4]というミッションを掲げ活動を活発化していきます。

いっぽうシンガポールでは、2000年代以降に国家遺産局や観光局の連携によりおもなエスニック・グループのヘリテージ・センターが設立され、2008年にプラナカン博物館がオープンします。さらに2008年に放送されたプラナカンをテーマにしたテレビドラマ「リトル・ニョニャ」の大ヒットで関心が一気に高まり、プラナカン文化はブームとなっていきます。2015年には建国50年の節目を迎え、シンガポールの歴史や文化をモチーフにした商品も数多く登場しましたが、そこにプラナカン文化が選ばれ商品化されたことは興味深いことです。報告のときに持参した、プラナカン・タイルのデザインのマグカップやマスキングテープは2015年に登場したもので、ニョニャをイメージした香水、ニョニャのクバヤ(刺繍入りのブラウス)がデザインされたスタバのタンブラー、ニョニャ・クエ(お菓子)食べ歩きといった特集ページ入りの日本で発行されているガイドブックなども、すべて2008年以降に出てきたものです。

シンガポールでは、プラナカンは人口管理政策において明確に定義づけられ分類されている存在ではありません。しかし、シンガポール国家遺産局管轄の博物館が初めて西洋の主要美術館で展示をおこなうことになった際にはプラナカンの陶磁器を出品し[5]、またプラナカン博物館のオープニング・スピーチでリー・シェンロン首相が「シンガポーリアンに文化的で豊かな生活と、われわれのヘリテージと歴史に誇りを持つ心を育み、ナショナル・アイデンティティを強く持つようになることが、このプラナカン博物館の役割でもある」[6]と述べているように、プラナカン文化=シンガポール文化として用いられ、シンガポーリアン=プラナカンであるかのように用いられているといえます。

いっぽうで、シンガポール・プラナカン協会の会長は「私は50年前、80年前のプラナカン文化については語れるけれども、いまのものは語れない。プラナカン文化のオリジナルは過去のものであって、現在のものは創造され、新しい解釈によるものであると思う」[7]と語り、またプラナカン博物館兼アジア文明博物館のディレクターは「この2、30年で再発見されたプラナカン文化は、ハイブリッドな住宅、美しい衣装、フュージョン料理といった画になるものばかりがフォーカスされている。テレビ番組やピクチャー・ブック、そして博物館でさえ、このような見方を推進する」[8]と、いまの現象を苦々しく見ていることが読み取れます。

プラナカンはシンガポールという国家のなかでは国民のマジョリティという立場にはなり得ず、かといって人口管理政策においてマイノリティ・グループとして定義されているわけでもないことから、歴史を語る主体としては見なされないであろうというところに、シンガポールの近現代史においてプラナカンを語るむずかしさがあると考えています。

プラナカン文化の「伝統文化」を打ち出していくプラナカン協会と建国50年を機に「偉大なるプラナカン」という語りを打ち出していく博物館、そしてプラナカン文化をシンガポールを代表するものとして商品化していく市場とがあります。観光や消費文化の面においてプラナカン文化が多くの人たちを魅了し続けていることも含め、このズレにこそ、国家からはみ出す存在であるがゆえにプラナカン概念が包含する異種混淆性と、国家から警戒される存在でもあるという多義性が隠されているのではないでしょうか。

今回は商品化されたプラナカン文化、あるいは協会側が打ち出すプラナカン文化に焦点を当てて報告しましたが、議論のなかで、なぜプラナカンは苦難の歴史ではなく「キラキラした文化」を打ち出すことで国家における存在感を高めようとするのだろうか、という問いが出されました。そこに、外来系住民が大多数を占め、新移民が流入し続ける小さな都市国家シンガポールの歴史や、国家をはみ出し続ける存在であるプラナカンの歴史を考えるヒントが隠されていると考えられます。歴史を語る主体として顕現するのではなく、つねに国家と市場を巻き込みながら、とりあえず文化に仮託してしか語れない、あるいは語られないような方法で存在しようとするところに、プラナカンのやわらかな勁さがあるのではないでしょうか。

 

[1]奥村みさ2009『文化資本としてのエスニシティ―シンガポールにおける文化的アイデンティティの模索―』国際書院、40頁。ただし、インド系とマレー系の婚姻による子孫も「チッティー・プラナカン(Chitty Peranakan)」と称されるなど、プラナカン、イコール華人系というわけではない。シンガポールやマレーシアにおいてはプラナカンといえば「プラナカン・チャイニーズ(Peranakan Chinese)」を指すことが多いが、それは華人系のプラナカンが数の上で多いことによるものである。

[2]Dato’ Khor Cheang Kee, “Where Do We Go From Here?”, Suara Baba (August 1991), 2.

[3]シンガポールとマレーシアのマラッカ、ペナンのプラナカン協会の会員が一堂に会するというイベント。「ババ・ニョニャコンベンション(The Baba Nyonya Convention)」とも称される。1988年にマレーシア・ペナンで第1回が開催され、大盛況だったことから以降会場を3地域持ち回りで毎年おこなわれている。直近だと、2015年11月6-8日にシンガポールでThe 28th Baba Nyonya Conventionが開催されている。

[4]“Mission Statement”, The Peranakan (December 1995), 12.

[5]Mayo Martin 2009 “The Kamcheng Factor”, Today, 16 May 2009, p.36

[6]Zul Othman 2008 “Peranakan Museum Making a Splash”, Today, 26 April 2008, p.8.

[7]ピーター・ウィー(Peter Wee)氏へのインタビューから(2012年3月7日)。

[8]Alan Chong 2015 “Preface: A Culture Between”, Great Peranakans: Fifty Remarkable Lives, Asian Civilisations Museum, 11.