火曜会

火曜会は、言葉が帯びる身体性を押し隠すのではなく、それを多焦点的に押し広げることこそが研究行為ではないか考えています。また研究分野の境界は、分野の前提を再度議論する中で、連結器になるとも考えています。

火曜会通信(22)メアリー・ルー・ウィリアムズのファン

 

「ファンレターから見えるもの——メアリー・ルー・ウィリアムズのファンを事例に」

(2016年1月27日)

山田優理

 

「ファンレターから見えるもの——メアリー・ルー・ウィリアムズのファンを事例に」というタイトルで報告させていただきました。初めに博士論文の構想を説明し、続いてアフリカ系アメリカ人ジャズ・ピアニスト、メアリー・ルー・ウィリアムズ (1910-81) に宛てて書かれたファンレターの分析を事例として紹介しました。火曜会という場で報告させていただいたことは、自らの研究内容と枠組みをより相対化する良い機会になりました。つまり、アメリカ研究という領域を専門にしている為、ファンレターを分析する際にも、内容を米国中心の歴史に鑑みて考慮し、人種やジェンダーといった切り口で論じるという、ある意味紋切り型のアプローチが自分のなかに定着していることを改めて認識しました。

冨山先生をはじめとして火曜会の皆さまからはより根本的な問いが発せられ、興味深い論点が出されました。まず、ファンを定義することの難しさ。それはファン、オーディエンス、リスナーの境界が曖昧であるというだけではなく(例えば、「授業で使うので声明をと写真を送ってほしい」とする手紙を書いたアフリカ系アメリカ人の生徒はファンなのか?)、また人種やジェンダー、階級や地域といった社会的アイデンティティ/カテゴリーをある程度横断するかたちでファンダムが形成されるというだけでもなく、ファンの存在と活動の個人性/集団性が不鮮明かつ流動的であり、また称賛しているかに聞こえる言葉の裏に見え隠れするアーティストを操作したい、自らの指紋をつけたいという衝動をどう解釈するのかという問題まで含みます。こう考えると、「盲目的な狂信者」や「資本主義に屈した集団」という言説からファンを救うことを目的とした初期のファン研究に顕著だったイデオロギーとしてのメディアと抵抗するファンという図式はすでに過去の遺物なのかもしれません。

ファンダムはメディアに仲介された消費主義の産物であるという主張があります。私は、「アーティストと繋がりたいというファンの視点を重視すれば、メディアは副次的でしかない」と考えてきました。しかし、レコードやラジオを聴くという行為がファンの存在や活動の軸であるならば、やはりメディアの問題についても考えなくてはなりません。録音された演奏を聴くとはどういう行為なのか?レコードを聴くこととラジオを聞くことはどう異なるのか?この点については、(リクエストが可能な) ラジオを聞くこととアンダーソン『想像の共同体』で論じられている新聞を読むことは、行為自体はパーソナルだが同じことをしている多くの他者 (集団) を思い描かせるという点で類似しているのではないかという指摘が冨山先生からありました。マクルーハンもこれに似た議論をしていた気がします。

そして、ファンレターを書くという行為をどう考えるか?告白という要素もあり、これは他者に自分を語ることで自分自身を (再) 認識する再帰的な機能があるのではないかという意見も出ました。アーティストとの間に個人的な関係を築きたい、友達になりたいという願もみてとれますが、そこにはやはり想像された他の多くのファンが居ます。今回紹介したファンレターにも「あなたは、毎日のように知らない人からの手紙を受け取るだろう。」という記述がありました。

また今回の報告は「ファンレターから見えるもの」という内容でしたが、「では、ファンレターから見えないものは何か」という質問もいただきました。ファンの体験や知見を語るうえでファンレターを書くという行為はひとつの顕れでしかありません。手紙の文面には表出し得ないファンの感覚や感情にはどのようなものがあるか。また、手紙を書くことのなかったファンの声をどうすれば聞くことが出来るのか。そしてさらにこの問いには、研究者である私自身がファンレターに目を通し、分析する過程で見落としているものは何かという意味も含まれています。千通以上あるファンレターの一部のみを取り上げることには私自身も疑問があります。全ての史料が重要なはずではないかと。

問いばかりを投げても論文が書き進められないので、(また、研究の枠組みを疑問視し過ぎると、どうしても、青木深さんの『めぐりあうあうものたちの群像』の足音が聞こえてきます)今回出された論点を自分なりに反芻し、再度史料と向き合いながら研究を進めたいと思います。発表後、個人的にもたくさんの貴重なコメントやアドバイスをいただきました。この場を借りて御礼申し上げます。ありがとうございました。なお、数名の方から「発表に用いた原稿を送ってほしい。」と言われましたので、下に原稿を載せます。脚注も無く、適当なものですがお許しください。

 

 

[0. はじめに: Jazzy Books @ Jazzy Sport]

 

数週間前、ジャズに関する書籍についてのトーク・イベントがJazzy Sportというレコード屋であったので、行ってきた。当日は現在までに出版されているジャズに特化した本の販売もあり、イベント後に陳列された本を眺めながらこの日のスピーカーであったとあるDJ兼ライターと個人的に話す機会を得た。フランシス・ニュートン『ザ・ジャズ・シーン(邦題は抗議としてのジャズ)』を手に取った彼は「この表紙のデザインがいいんですよ。」と話し始めた。その意見に賛同したのち、同著作が世界でも最も早い学者によるジャズの研究であること(フランシス・ニュートンはイギリスの歴史家エリック・ホブスボームのペンネーム)を告げたが、「でも、このイベントは一般の読者を対象にしているので。」と遮られてしまった。この会話で覚えた不快感は2種類ある。一つは、本の魅力が内容よりも表紙に置かれていること。もうひとつは、曖昧な「一般」という定義に加えて(おそらく研究者では無いという意味)、その「一般の読者」の読書能力をあまりに軽視していることである(参照: Jonathan Rose, The Intellectual Life of the British Working Classes)。さらに皮肉なのは、フランシス・ニュートン(エリック・ホブスボーム)こそが「ジャズは人々の音楽である」と主張しながら、その人々の主体性を重要視しなかった思想家の一人だったことである。

[1. 博士論文の構想]

 

1-1. ジャズ研究

ジャズ研究はとりわけ1990年代以降の米国において著しく発展した。音楽学や民俗音楽学と行った音楽そのものを対象にする学問領域ではなく、アメリカ研究やアフリカ系アメリカ人研究など、広義な音楽文化を歴史的文脈に位置付け、その政治的意味合いを学際的な視点でもって精査する研究者に寄る貢献が大きい。例えば、20世紀前半のグレート・マイグレーション(黒人大移動)とジャズの誕生、30年代のニューディール政策とビッグバンド・ジャズの隆盛、公民権運動とモダン・ジャズの関係性などである。加えて、偉大な演奏家といわゆる名盤だけ構成された従来のナラティブに対し、批評家の役割、写真家による貢献など、音楽産業に携わった様々な主体を扱うものも多い。そして近年、この分野で最も人気なのが、アメリカ合衆国以外のジャズ史であるが、これらの研究の内容や主張は驚くほど似通っている。演奏家による巡業やフォノグラフ (レコード)やラジオの普及により、1920年代から世界各地でジャズ文化が花開いた。ミュージシャンが演奏し、批評家という知識人がそれを言語化・理論化する。そして、「アメリカのジャズをそのまま演奏するのが良いか、それとも我々にしか出来ない演奏を目指すべきか」という「オーセンティシティ(本物らしさ)」の問題と葛藤する過程が、音楽の普遍的な魅力という言説、国民国家の政治的影響力と相まって、モダニズムまたは冷戦という枠組みの中で論じられるのが常である。この意味では、これらの大半が、トラスンナショナルではなく、ジャズの各国史だが、その研究意義も決まって「アメリカ例外主義的なジャズ史観に挑戦する」である。

一方で、ジャズという音楽がどのように聞かれてきたのかという研究はほとんど無い。興味深いのはこの音楽が特にマルクス主義者などの左派知識人達から「人々の音楽である。」との言説を付与されてきたことである。シドニー・フィンケルスタインやアミリ・バラカ、フランシス・ニュートン (エリック・ホブズボームのペンネーム)らによって、「ジャズは、フォーク(民俗/民衆)にルーツを持ち、大衆を魅了する音楽」であると繰り返し形容されてきたが、彼らの記述において「大衆」自身の主体性は皆無であった。

 

1-2. ファン研究(カルチュラル・スタディーズ、メディア研究など)

オンライン上におけるファンの言動や活動がより可視化されるに従い、ファンに関する研究も近年増えている。イギリスのカルチュラル・スタディーズ、とりわけスチュアート・ホールの「エンコーディング/デコーディング」を契機としてオーディエンスが研究の対象になり、この流れを組んで発展したアメリカのメディア研究でもジョン・フィスクなどが優れた研究を発表している。但し、「読みの多様性」を解析し、それを政治的な抵抗であると主張し過ぎるきらいがあるのも事実である。メディア研究の中で発展したファン研究においてもこの傾向は受け継がれる。ファン・フィクションなどのファンが作り出すテキストの分析を通じて、彼ら・彼女は受動的に商品を消費しているわけでも、またそこに内在するイデオロギーを単純に受信しているわけでもないと主張し、資本主義に対抗する存在としてファンを称賛する傾向が強い。

1-3. エージェンシーの問題と史料の有無

これらの学問においては、テレビの視聴者や音楽ないしラジオの聴取者の反応や意見を収集することよりも、テクスト分析が主な方法論として採用される傾向にある。また、歴史的な視点が軽視されがちである。音楽学にみられる受容理論においても、ある作曲家やその作品が歴史的に与えた社会や聴衆への影響やインパクトを解析すると謳いながら、実際に用いられる史料の多くは演奏会について書かれた新聞記事や批評がほとんどである。新聞記者やジャーナリスト、また批評家がどこまで大衆を代表できるのかという疑問を感じずにはいられない。

では何故、聴き手自身の声が、とりわけ歴史研究において、研究対象になることが少ないのか。これには幾つかの問題や思い込みが絡んでいると思う。一つは、史料の有無ないしアーカイブの問題である。「後世に遺されることが望ましい、史料としての価値を有しているか否か」という曖昧な (バイアスのかかった) 判断基準をクリアするものの大半が、識字能力を有し、また自身の声を遺すことが可能な社会的地位についていたことは明白である。この意味において例えばアフリカ系アメリカ人研究やネイティヴ・アメリカン研究から「アーカイブなるものはパワー保存としての施設である」との批判が出ることも納得できる。

このことにも関連して——もしくはこれとはまた別の次元で——実践者や批評家、プロデューサーや写真家、客に演奏を提供する施設の保有者や管理者など、何らかのかたちで音楽産業に関係する者以外の者、つまりただの聴き手やファン、消費者の体験を記した史料など残存していないのでないかという前提があるようにも感じる。幾つかの先行研究や私自身の研究が示すように、この前提は誤ったものである。が、もしこのような前提が共有されているとすれば、そこには「そんなものを調べてどうなるのか」という類のバイアスと、実際は膨大な数にのぼる一般人による手記や書簡に目を通さなければいけない調査へのためらいが混在しているのではないかとも思う。

 

1-4. 社会史と受容史 (The Histories of Reading and Audiences)

従来は研究対象になり得なかった人々を扱う分野としては、労働史や社会史があるが、アメリカ史に関して言えば、ハワード・ジンによる『民衆のアメリカ史』がこの分野の金字塔である。また黒人史を専門とするロビン・ケリー著『Race Rebels: Culture, Politics, and the Black Working Classes』は既存の組織や社会運動に加わることのなかった労働者階級のアフリカ系アメリカ人が日常のなかで経験したストラグルの政治性に着目して論じられており、個人的にも大きな影響を受けた。

ある作品が一般の人々によっていかに受け止められたかを研究する領域としては、読書の歴史や聴取/聴衆の歴史がある。歴史家Jonathan RoseはThe Intellectual Life of The British Working Classesにおいて、膨大な数の手記や図書館の記録、出版された自伝などを精読し、18世紀から20世紀中頃までは———すなわちテレビの登場以前は——読書が労働者階級の趣味そして独学文化の中心であったことを実証している。アメリカ研究の学者Daniel Cavicchiも同様の方法論を用いて、著書Listening and Longing: Music Lovers in the Age of Barhumにおいて、都市化、産業化が進む19世紀から20世紀初頭のアメリカ合衆国で音楽聴取が一般化する過程を概観し、音楽を聞くことが社会においてどのような機能を担ったのかを個人の記録から考察している。

1-5. 研究課題: 歴史民俗音楽学/人類学 (Historical Ethnomusicology/Anthropology)というアプローチ

さて、ジャズ・ファンの活動や体験を歴史学的な視座から考察するという時、「ある歴史的な事象や変遷に彼ら・彼女らがどのように貢献したのか」という問いが真っ先に浮かぶ。だが、この問いは誤っているようにも思う。つまり、何かに貢献しない限り、歴史に登場することや名をのこす正当性は与えられないのかと。例えば、ジャズ文化を扱う先行研究の多くが、ジャズの持つ即興性や政治的意味合いに魅了・感化された人物、例えば1950年代に活躍したジャック・ケルアックなどのビート作家、1960年代後半のブラック・アーツ運動に従事した芸術家や作家、活動家、またジャズ好きで知られるクリントン前大統領などに焦点を当てるのは、これらの人物が音楽とは別の其々のフィールドで一定の名声を得、ただのファン以上になったからではないだろうか?

ここで提案したいのは、「音楽活動を中心とした文化がある社会においていかなる役割を担っているか?」という民俗音楽学における根本的な問いの応用である。但し、「ある社会において」という箇所を「ある時代において」に置き換える必要がある。そのうえで、「ある時代において音楽文化が担った役割」を音楽作品や演奏家の言葉を読み解くでもなく、批評家による言説を解析するでもなく、またジャーナリスティックな記述に依拠するでもなく、ファンやリスナーをインフォーマントとして捉え、彼ら・彼女らのパーソナルな記録を見て、説明を聞くことから始めてみたい。

1) ファンは個人として、集団として、どのような活動に従事していたのか?2) 彼ら・彼女らは特定の演奏家や作品・演奏をどのように受け取り、そしてそれらを自らの日常生活へどのように組み入れたのか? 3) 人種、ジェンダー、階級、地域性や国籍などの社会アイデンティティや歴史的な勢力は個人の音楽的趣向や音楽作品の解釈における枠組の形成においてどこまで重要だったのか?4) ファンレターやファン雑誌、読書投書欄などで示された演奏家に対するリスナーからの期待や要求は、どの程度演奏家の創作活動や政治的見解に影響を与えたのか?そして5) ファンの記述に登場する演奏家やジャズそのものがもし仮に、現在では主流のある演奏家に関する言説やジャズの歴史のナラティブとは異なる描かれ方をされていたら、どう異なるのか?なぜ異なるのか?これらの問いに対する答えをファン自身の記述のなかに求めることで、20世紀の音楽文化における生産、流通ないし普及、そして消費間の絶え間なく変化する力学の様相をより鮮明に、またそれに関わる動作主体の関係性を照射できるのではないか。さらに、言説の生成およびその流布に寄与するファンの主体性に着目することで、単なる消費者や盲目な狂信者でなく、アントニオ・グラムシの言うところの「知識人という社会的な地位を与えられることはないにせよ、全ての人間が何らかの知的活動に従事している」という枠組みで持ってファンの経験や知見を語ることは出来ないか。

(ここまで色々述べてきたが、本当のことを言えば、音楽が一個人によってどのように聞かれたか、そこにどのような意味が見出されたのかというミクロなストーリーに興味がある。そのうえで人種やジェンダー、年齢、国籍を超えて共通の趣味・趣向を持つ人々が繋がったり、繋がらなかったりという曖昧な関係の有りようが面白いと感じたからである。)

 

1-6. 方法論: 現存する史料と記憶

方法論としては、ファンクラブの会報、ファンレターやファンと演奏家の間で交わされた書簡、手記、そして雑誌の読書投書欄を史料として扱っている。

そのうえでAncestory.Comという、U.S. センサス(国勢調査)などがオンラインで公開されているサイトを用いてファンの人種や年齢などデモグラフィックなバックグラウンドの解析を行っている。

また、昔からの音楽ファンの方々の記憶や知識を既存のアーカイブの代替物として活用出来ないとも考えており、ジャズの都とされるニューヨークにおいて聞き取り調査も行っている。

 

 

[2. 事例研究: メアリー・ルー・ウィリアムズとファン]

 

2-1. メアリー・ルー・ウィリアムズ (1910-81)

メアリー・ルー・ウィリアムズはアフリカ系アメリカ人のピアノ奏者・作編曲家。1910年にジョージア州アトランタで生まれ、ペンシルヴェニア州ピッツバーグで育つ。幼少期からピアノを独学で学び、10代前半でプロとして多くの巡業をこなす。1930年代にはカンザスシティを中心として活躍したビッグバンド、アンディ・カーク楽団の専属ピアニスト兼作編曲家として名を馳せる。その後1943年にジャズの都、ニューヨークへ居を移し、自身のピアノ・トリオなどで演奏、『ゾディアック・スィーツ(星座組曲)』などの意欲的な作品を発表する傍ら、デューク・エリントンやベニー・グッドマンなどに曲を提供、また週一回のラジオ放送を受け持つなど多忙な日々を過ごす。

1950年代の前半をヨーロッパで過ごした後、演奏活動からは一時的に引退、宗教に情熱を注ぎ、56年にはカトリックに改宗している。この時期にウィリアムズは、苦しんでいる者を助けることが自分の使命と捉え、自らも金銭的に困窮しているにも拘わらず、薬物中毒の演奏家の更生を目指す施設ベル・カント・ファウンデーションを立ち上げたり、ニューヨークに中古品店を出すことに勢力をつぎ込んでいる。

その後、演奏の世界にカムバックしたウィリアムズは宗教的情熱を自身の創作活動の中心に据える。ジャズやブルースの要素を残しつつミサ曲の作曲に専念し、1963年に、慈善活動に生涯を費やした17世紀の混血ペルー人修道士、聖マルティン・デ・ポレスを讃える『アンデスのブラック・キリスト』を発表、70年には『メアリー・ルーのミサ曲 (別名: ミュージック・フォー・ピース)』を発表している。

後進の育成にも熱心だったウィリアムズは、1971年にノース・カロライナ州のデューク大学からアーティスト・イン・レジデンスのオフェーを受け、他界する81年まで同校にてジャズ・ヒストリーの授業やジャズ・オーケストラの指導を行う。

ウィリアムズに関する研究が多いのには2つ理由がある。1つは長期に渡る音楽活動の中で彼女の音楽性が著しく変化したこと。もう一つは、男性中心的な音楽業界の中で数多くの業績を残したこと。歌手を別にすれば女性がほとんど登場しない従来のジェズ史にも名を残した数少ない女性演奏家である。もっとも、彼女自身は、女性であることで苦労したことも、またそのことを逆手に取ったことも無いと明言しているが。

(ドキュメンタリー: https://vimeo.com/73702508)

 

2-2. ファン/聴取者/消費者とファンダム

このケース・スタディーズではそんなメアリー・ルー・ウィリアムズがファンにはどう映ったのかということを残されているファンレターを精読することで探ってみたい。尚、ここで言うファンダムは、Daniel Cavicchiがブルース・スプリングスティーンのファン研究の中で提示した「ファンダムとは、本来は普通の人々がその日常生活において必要とされる意味を創造する事であり、それはメディアが主導する社会における自身および他者との関係性を理解しようとする方法である」という定義に従う。また、ファンにとっては、アーティストと「繫がっているという特別な感情」を持つことが極めて重要であり、ファンダムの根幹を成しているのはこの感情であるというCavicchiの指摘も合わせて応用したい。

 

2-3. ファンレターと文通

さて、1940年代がウィリアムズのキャリアにとって重要な転換期だったことは先にも述べたが、彼女の名前が知られるに連れて自然とメディアへの登場も多くなった。毎週のラジオ放送に加えて、インタビュー記事も雑誌に掲載されるようになった。なかでも重要だったのが、バンド・リーダーズに記事が載ったことである。短命に終わった同誌は、ビッグバンド全盛期の1940年代に発行され、当時の花形であった演奏者や歌手などのスターを特集する記事を多く掲載した。

ここで米国のエンターテイメント産業におけるスター・システムの誕生について触れておきたい。1910年以前にハリウッドで作られる映画には俳優のクレジットが付いていなかった。しかし、聴衆やファンからの問い合わせが殺到し、これにプロダクション側が折れる形で名前の公開を決断した。これ以降、特定の俳優や女優に人気が集まり、そのライフスタイルやプライベートも注目され、彼・彼女らが身につけるものが飛ぶように売れるというパッケージとしての生産・消費システムが確率されていく。言い換えれば、今日まで続くセレブリティの崇拝はファンからの要望により始まったものである。スターダムの裏側にファンダムがあることは自明の理である (が、後者に着目した研究が驚くほど少ないのは、研究者自身もこのスター・システムに取り込まれているからかもしれない)。

音楽業界にもスター・システムは導入された。1930年代から40年代にかけてビッグバンド・ジャズが人気を博すなか、人々はダンスホールで踊りに興じるのみならず、ベニー・グッドマンなどのバンドリーダーやフランク・シナトラ、ビング・クロスビーといった歌手を崇拝した。そのことを体現している媒体の一つがバンド・リーダーズ・マガジンであり、ウィリアムズに関する記事が掲載されたことは彼女がビッグバンド期のスター・システムの一角を担っていたことを示すものである。また同記事が彼女の人気をさらに促し、さらに住所を掲載したことでファンレターの数も増大する。

例えば、記事が掲載された直後の1946年1月にルシール・バーローはケンタッキー州から次のような手紙を送っている。「親愛なるメアリー・ルー あなたのことをファーストネームで呼ぶのを気にしないで欲しい。…(中略)… そしてあなたとは本当の友達になりたいし、また時間のある限り頻繁に文通をしたいと思っている。有名なあなただから、毎日のように知らない人からの手紙を受け取るだろう。でも私の手紙が一番だという気がするし、これからも私は一番であり続ける。」そう言った後、バーローは自己紹介を始め、自身の年齢、身長と体重、髪、目、肌の色、住所にいたるまで詳細に述べている。

同時期に書かれた多くのファンレターが同様の内容である。つまり、自らをファンではなくウィリアムズの友人だと自認し、手紙を書くことで何らかの見返り——例えば、返事やサイン、写真など——を期待した。ファンレターを書くという行為には、メディアを介さずに私的な関係を築きたいというファンたちの動機があった。

 

2-4. ファン・クラブの形成

ファンレターを書くという行為が個人的なものであったとすれば、ファンクラブの形成はウィリアムズとつながる集団的な方法であった。1940年代中頃にアメリカとイギリスでザ・メアリー・ルー・ウィリアムズ・ファンクラブが結成された。1945年前後にニューヨークから出された初のファン・クラブ会報によると、年会費は1ドルで、会費の支払いが済むと、メンバーにはウィリアムズのサイン入り写真と会員カードが送られた。

興味深いのは、ファンクラブが会員に自らの居住地近くにファンクラブ支部を設立するように推奨するなど、ウィリアムズのプロモーションに積極的に関わるように促していることである。プロモーションの過程に関わることが嬉しかったとみえて、ファンからは熱狂的な反応があった。オハイオ州のアルゼリア・タイラーも、テキサス州のドナ・ルイーズも、イリノイ州のタミー・ハンドも出来る限りウィリアムズをサポートすることを誓っている。事実、テキサス、オハイオ、そしてケンタッキーでは支部が設立され、これらを指揮したファンはローカルなファンクラブ・リーダーと見なされた。1946年に送付されたファンクラブ会報ではニューヨークにあったファンクラブの中枢部がニューヨーク支部と記述されるようになっている。

一方、ファンクラブ会員の大半が行ったのが、「ブースティング」という行為で、これは、レコードや放送業界の意思・政策決定者に手紙や電話をかけることでアーティストのキャリアを手助けすることである。これらの促進行為は映画ファンの間でも盛んに行われたが、とりわけ第二次大戦後のラジオ業界において効果的であった。映画業界がハリウッドを中心とするヒエラルキーを形成していたのに対し、ラジオ局はよりそれぞれの地域に特化したローカル化が進んでいた。またテレビとの競争が始まると、オーディエンスを確保するために、リスナーからのリクエストを多く採用する傾向にあった。この時期にリスナーとラジオ業界の仲介役として地位を確保したのが、ディスク・ジョッキーであった。ウィリアムズのファンクラブ宛に届いたファンからの手紙にも、「今日の午後にあなたのレコードを地元で有名なデージェイに持って行く」という記述が見られる。

加えて、この時期、1940年代、にウィリアムズが小さな独立系のレコード・レーベルと契約を結んでいたことも、ファンがプロモーション活動に関与する体制を用意していた。つまり、規模の小さいが故に、レコードの配布や宣伝に費やすことの出来る資金が限られていた。ファンクラブの会員達がボランティアによってこれを補っていたのである。ファンクラブは、単にウィリアムズに関する情報をいち早く知ることの出来る機関である以上に、ウィリアムズのプロモーションを促進するネットワークとして機能した。そして、この過程に積極的に関与することでファンは自らを受動的な消費者からプロモーションの重要な担い手とて変化させたのである。

 

2-5. 人種

ファンクラブが一時的にファンを結びつけた機関であったならば、ブラック・コミュニティは常に彼女へのサポートを約束していた。彼女の活躍や演奏予定はブラック・プレス(アフリカ系アメリカ人新聞)を通じていち早く黒人コミュニティに紹介された。またウィリアムズが育った街であるピッツバーグの黒人を主な読者とした『ピッツバーグ・クーリエ』においては、ウィリアムズ自身が時折コラムを執筆した。1946年の9月に掲載されたコラムの中で彼女は、先に述べた「ブースティング」行為を推奨している。曰く、「スターに安定した仕事を供給し、また新人への扉を開くのもファンメールである。」と。これに呼応するように、ウィリアムズの元へは彼女の意見に賛同し、その率直かつ的を得た物言いを讃える手紙が特に黒人の若者から届く。

若い黒人がウィリアムズの功績を讃えるという図式はこのあとも続くが、とくにブラック・パワー運動が勢いに乗る1960年代後半から1970年代前半にかけて、彼女に届く手紙の数も著しく増えた。なかでも、公民権運動の影響下にあって黒人週間(現在の黒人月間)が普及した公立学校でウィリアムズの人気に火がついた 1967年の9月にニュージャージー州ニューアークにて書かれた手紙には次のようにある。「エボニー誌であなたについて読みました。黒人としてあなたの成功を誇りに思います。黒人週間の展示を授業で行うのだけど、どうすればより良い市民になることが出来るかという点に関してあなたからの声明をいただくことは出来ますか?私たちの街では今年暴動があり、正常に戻ろうとしているところです。加えて、黒人史の展示のために写真もいただけますか?」手紙の書き手、マルセラ・ウッズが言及しているのは67年のニューアーク・ライオットでワッツやデトロイトと並んで代表的な1960年代の人種暴動の一つである。興味深いのは、この時代に公民権運動に代わって勢いを増した、よりミリタントな運動であるブラック・パワー運動にも、その芸術的側面を担ったブラック・アーツ運動にも否定的であったウィリアムズが、若い黒人層から偉大な黒人として讃えられていることである。

 

2-6. ジェンダー

時代が1970年代に入り、フェミニズムがキャンパスにおける居場所を確保すると、今後はフェミニストからの手紙が郵便受けに溢れた。「男性中心のジャズ会で女性として長年やってくるのに苦労した点を教えて欲しい。」という趣旨のものが大半であったが、インタビューを読む限り、ウィリアムズ自身は「女性だからという理由で苦労したことはない」という姿勢を貫き通している。彼女の返信はフェミニスト達を落胆させた事だろう。

 

2-7. 音楽の役割

1970年代はまたジャズの制度化が進み、その歴史に注目が集まった時代でもある。1920年代から活躍し、現役であるウィリアムズを発見したアメリカは今まで以上にテレビや雑誌で彼女を取り上げた。新しいファンはウィリアムズを発見し、昔からのファンはテレビでウィリアムズを見、古いレコードを引っ張り出してノスタルジアに浸った。

過去30年以上、ウィリアムズのファンであったローレル・アラディスは初めて筆を取り、「ウィリアムズの音楽こそが生きる糧であった」ことを告げた。彼女自身が望んだように、ウィリアムズの音楽のおかげで困難な時期を乗り切ることが出来た・人生に希望を見出すこと出来たと告げるファンレターは枚挙にいとまがない。

 

2-8. 結論

この論文ではファンがピアニスト、メアリー・ルー・ウィリアムズの音楽やウィリアムズ自身に何を見出したのかを調査の対象にしてきた。「ではファンがウィリアムズの創作活動に与えた影響は何だったのか」という問いが発せられそうだが、この問いは間違っているのではないだろうか。分かり切ったことだが、アーティストにとってファンの役割とはそこにいること、作品やアーティスト自身を気にかけることである。家族との良好な関係を築くことが難く、またキャリアの浮き沈みを体験したウィリアムズにとって、ファンの存在や、素晴らしい演奏家、天才的アフリカ系アメリカ人、女性パイオニア、新人深いカトリック、思いやりに溢れた人物というファンからの言葉が精神的な支えになった。プロモーションを支える以上に、レコードや演奏会チケットを購入するよりも、ファンという社会集団が身近なサポーターとしての基盤であったことは、死を直前にした1981年にウィリアムズが入院した際に寄せられた多くの手紙からも見て取ることが出来る。(ウィリアムズからの返信が扱われていない/見つかっていないにも拘らず、論文のタイトルにReciprocal Relationships——相互/互恵関係——という語を入れたのはこの為でもある。)

 

3. 問題点