火曜会

火曜会は、言葉が帯びる身体性を押し隠すのではなく、それを多焦点的に押し広げることこそが研究行為ではないか考えています。また研究分野の境界は、分野の前提を再度議論する中で、連結器になるとも考えています。

言葉の停留と始まり-「火曜会という構想(14)」

言葉の停留と始まり

―語れないことと語らないこと―

冨山一郎

Ⅰ言葉の始まりについて

タブーとは押し黙った状態ではない[1]。何かを語らないことは、同時に饒舌な発話であったりもする。その饒舌な言葉は、語らない領域を縁取るように流れていくだろう。いまタブーをこの饒舌な言葉たちとの関係において考えるならば、二つのことがまずは重要になる。一つは語らないこと、あるいは語ってはいけないこと、もう一つは語れないこと。この二つは、語る主体とタブーとの関係において区別される。語らないことあるいは語ってはいけないことは、この語る主体によってなされる意識的行為の結果であり、そこにはこの主体にかかわる規範的判断が存在する。それに対して語れないことは、語る主体を成り立たせている前提にかかわることであり、ある領域を言葉の外に予め排除することにおいて、語る主体が成立することを意味している。前者が言葉にかかわる規範的秩序であるのに対し、後者は言葉そのものの秩序の前提に他ならない。

あるいはそれを検閲という制度にかかわらせていえば[2]、前者が意識的な行為としての語ることに対する検閲という制度による言葉の内容に対する審判にかかわることであるのに対し、後者は言葉の内容ではなく言葉自体にかかわることであり、言葉として見なされないがゆえに検閲という制度の外におかれる領域である。そしてこれから考えたいことは、この語らないことと語れないことの概念的区分ではない。そうではなく、両者をギリギリの近似した位置においてみることだ。

そこでは、言葉の外部であるが話さないと判断するという主体の在り方が、想定されるだろう。それは言葉の外部である語れないことを抱え込むことであり、それは主体の外部に予めの排除された領域を、主体との関係において別物にかえていくプロセスであるともいえる。またそれは、内容については語れないが、語ってはいけないことだとする主体のありようであり、語らないということにおいて、語れないことが言葉によって縁取られることなのかもしれない。

こうした主体のありようは、言葉において確保された主体の新たな始まりであるともいえる。すなわち語れないと語らないが近似することとは、言葉と主体が新たな関係を作り出すプロセスでもあり、そこでは語らないということが、既存の秩序の反復あるいは検閲制度の維持ではなく、いかなる言葉の在処を新たに確保するのか、あるいはいかなる言葉が創造されるべきなのかという問いとしてうかびあがることになる。あるいはこのプロセスは、「予めの排除」において主体化された者たちが、言葉の外部、すなわち言葉のないモノの世界へと変態していくことであり、同時にその変態が新たな言葉との関係において確保され続けることなのだ。

そして語れないことが言葉の外部にかかわる以上、この外部に語る主体が向かう時、言葉はまずは停止していくだろう。しかしその停止は、語れないと同時に語らないのだ。したがってその停止は、既に始まりであるといえるかもしれない。すなわち固定された主体における語らないから語りだすことへの直線的な転換ではなく、言葉と主体の新たな関係こそが始まりの要点なのだ。したがってこの言葉の停止は、関係性の転換を伴うという点において、既に始まりなのであり、そのとき停止した言葉は、既存の言葉とは別の姿をとって停留している。タブーとはこの停留であるかもしれないのだ。

ところで語らないという規範的秩序は、たとえそれが普遍的な倫理性を帯びてようと、ある種の空間性をもつ。すなわちある場所や地域において語ってはならない領域があるのだ。またそれは検閲という制度からもわかるように、制度的で主権的な広がりを持つ空間でもあるだろう。もちろん規範的秩序が主権的な広がりに一致するとは限らないが、語らないことあるいは語ってはいけないことは、規範的にも制度的にも境界を持った空間として明示されていなければならない。また明示することにおいて空間の秩序は維持される。

だが語れないことは、語る主体の存立にかかわる問題である。何が語ってはいけないのかが語れないのだ。したがって語らないことと語れないことが近似していく接点とは、語れないことが姿を持って浮き上がると同時に何が語ってはいけないことなのかが不明になる事態であり、それは主体と空間が同時に動き出す始まりでもあるだろう。停留とはこうした始まりのことなのだ。それは規範的秩序の危機であり、主権的制度の危機でもあるだろう。

だからこそ、そこに暴力が浮上する。この外部への語る主体の遡行と言葉の停留は、言葉の暴力的な剥奪でもあるのだ。すなわち、これまで当たり前のように保証されていると思っていた発話が、問答無用で言葉の外部におかれていく事態でもあるのだ。それは発話内容を規範に照らし合わせたり、検閲制度において審議されることではなく、規範や制度の外に出されることを意味している。同じように語っているのに、あるいは同じように語ってはいけないことを守っているのに、語っているとはみなされず、あるは沈黙を守っているともみなされず、言葉を発しているのに、あるいは口をつむんでいるのに、それが発話とも沈黙ともみなされない事態が登場するのだ。停留とはこうした事態の登場でもある。

いわば発話内容における判断ではなく、発話主体の存在自体が否定されるのである。そこでは発話はふるまいになり、「発話可能性が予め排除されているときに主体が感じる、危険にさらされているという感覚」[3]が身体に帯電する。「他者は身ぶりや態度や眼差しで私を着色する。染料がプレパラートを着色・固定するように」[4]。それは問答無用の暴力が支配する尋問の場面であり、また尋問において構成される戒厳状態でもあるだろう。発話は発話内容において判断されるのではなく、発話それ自体が発話として認められないのだ。この時発話は動作になり、発話主体はモノとして扱われる。フランツ・ファノンが描いた植民地状況もこうした言葉の停留にかかわっている。主権の危機あるいはその外部とは戒厳令や植民地体制という制度の問題ではない。結果的にはそうであっても、言葉がふるまいになる、この言葉の停留なのだ。そしてくりかえすが、それは始まりでもある。

この事態をファノンが「自らをモノとなす」[5]と述べ、さらにそれを「身構える」[6]と述べる時、やはりそこでは、言葉が剥奪された位置におかれた存在が、新たな主体と言葉の始まりとして確保されている。語れないだけではなく、やはり、語らないのだ。モノに追いやられるだけではなく、「モノとなす」のだ。そしてその言葉の停留は、尋問が支配する戒厳状態においても言葉を手放さないことでもあるのだ。饒舌な言葉においては語れない何ものかは、自らをモノとなすことにおいて既に話し始めている。「話すとは、断固として他人に対して存在することである」[7]。そしてかかる停留に身を置く存在は、言葉をめぐる規範や制度ではなく、暴力に曝されることになる。

言葉に「予めの排除」がある以上、かかる始まりは常に存在し続けている。語る主体において構成される時空間は、この始まりにおいて絶えず別の未来に開かれているのであり、いいかえればそれはいつも潜在的に戒厳状態に曝されているということでもあるだろう。いつモノの領域に追いやられるとも限らないのだ。まただからこそ、饒舌な言葉の中に、別の始まりが常に確保されなければならないのだ。戒厳状態を先取りし、自からをモノとなし、言葉の饒舌さと沈黙を停留として、いいかえれば始まりとして、確保しなければならないのだ。その時秩序だった空間は、戒厳状態を先取りした身構える身体と共に、変わりうる現在として浮かび上がるだろう。

 

Ⅱ集団自決

次に言葉の停留と始まりを、場所にそくして考えてみる。だがそれは、単なる事例ということではない。語れないことと語らないことの間から始まる停留する言葉たちは、既存の場所と既存の場所において秩序づけられた主体を変態させていく動的状況に置かれているのであり、それは決して普遍的に語りうるのでもなければ、ある場所の事例として囲い込まれる訳でもない。あえていえば場所の秩序を担っていたさまざまな境界が曖昧になり、再構成されるプロセスが浮かび上がる事態を、停留として考えなければならないのだ。そこでは記述は、とりあえずは状況的になり、言葉は構成され続ける状況の中に置かれることになる。

「あそこは行ってはならない場所」[8]。1945年の沖縄戦の中で「集団自決」がおきた読谷村のガマと呼ばれる自然洞窟は、その地域においてはこのように呼ばれていた。そこでは沖縄戦の際、139名の村人が隠れ、84名が「自決」した。この「自決」は自ら命を絶ったというだけではなく、近親者同士が殺し合ったことを意味している。また投降か自決かということを考えた際に、「自決」は日本軍が多くの住民をスパイとみなして虐殺をしたことと合わせて考える必要がある[9]。沖縄に駐屯した日本の第32軍は、住民を戦闘員として動員すると同時に、スパイ視していたのである。死への動員が、問答無用の暴力の中で不断に確認される中での「自決」なのだ。

1983年、生き残った人々から聞き取り調査を行おうとした下嶋哲朗は、なんども人々の拒絶に合う。「お話すすることはなんにもない」。「帰ってください」[10]。このガマで起きたことについては、それまでにも地元の教師や厚生省が何度か調査しようとし、そのたびに拒絶されてきた。この拒絶は何だろうか。いまこの拒絶を、前述したタブーの問題として考えてみたい。すなわち、言葉が見つからないがゆえに語れないということと、語らないということの近似としての拒絶である。そして先取りしていえば、そこに、言葉の停留と始まりを考えてみたいのだ。

ところでこの「集団自決」は、拒絶に会いながらも、同時に進行する複数の文脈で語られ、表現されていく。一つは下嶋による聞き取り作業とガマの調査の中で、いわゆる事実が発掘され証言が集められていく。そこには下嶋の粘り強い努力があった。またこの作業は地元の協力者も得てすすめられている。

二つ目は「世代を結ぶ平和の像」の作成作業である。集団自決の中で生き残った者、その親族、関係者などの共同作業により、集団自決を表現する像が作成されていった。この共同作業は、西山正啓監督によるドキュメンタリー「ゆんたんざ沖縄」(1987年)において描かれている[11]。またこの像の作成では、彫刻家である金城実が中心となっているが、彼は作成が遺族や関係者の共同作業でない限り「墓を暴くことになってしまう」と述べている。文字通り共同作業として像の制作が行われたのだ。

またこの作業は、これまで「いってはならない場所」であったガマの内部に関係者が足をふみ入れ、慰霊の行事をし、遺骨や遺品を収拾するという作業と共にあった。こうした一連の集合的な作業の過程として、像の作成が存在したのである。それは作成と同時に慰霊であり、証言というより動作であり、身ぶりであり、表情であった。西山のドキュメンタリーは、そうした楽しそう人々の表情を間違いなくとらえている。また像の制作に参加したある人は、「死者の魂がそこに乗り移る」と語っている[12]。

三つ目はこうした聞き取りや調査や「平和の像」の作成の中で展開していった、沖縄における日の丸掲揚の動きとそれへの拒絶である。1987年の沖縄での国体開催が決定されて以降、それまでほとんど行われていなかった沖縄での学校行事などの国旗掲揚を、国は強く押し進めてきた。またこうした日の丸掲揚の強制は、国体(国民体育大会)への参加という形で戦後初めて天皇が沖縄を訪れることを、想定してのことだった。国体とは天皇と日の丸が沖縄にやってくる事態だったのである。こうした中で1987年の卒業式では、沖縄各地で日の丸掲揚をめぐり対立が顕在化する。「平和の像」の除幕式が行われた1987年4月の一か月前、読谷高校の卒業式では、高校生によって日の丸が引き剥がされ、路上に捨てられた。そして同年10月、読谷村でおこなわれた国体の会場において、掲揚されていた日の丸が引きずり降ろされ、燃やされることになる。

この日の丸を燃やす行動に決起したのは、証言の聞き取り、ガマの調査、「平和の像」の作成に深くかかわっていた同地でスーパーを経営する知花昌一である。1948年生まれの知花は、「集団自決」の経験者ではない。また知花にとっては証言の聞き取りや「平和の像」の作成のプロセスの延長線上に、日の丸に対する決起があった。「集団自決」は、人々を巻き込みながら複数の文脈において同時に展開していったのである。また日の丸掲揚に対する単独決起もまた、単独であると同時に集団的でもあった。「ボクがやらなくても誰かがやっただろうな」[13]という知花自身の言葉、あるいは「わしが若ければわしがやった」[14]、「ごめんね昌一、ウチが焼いたのに」[15]という別の人の言葉は、知花の行動がこれまで「いってはいけない場所」であり、語っていけない出来事であった「集団自決」が、人々を巻き込みながら言葉持ち始めた一連の展開の中にあることを、示しているといえるだろう。

「集団自決」は、重層的で集合的な状況を構成するプロセスとして登場したのである。こうした状況の構成はまた、天皇が沖縄にやってくる中で生み出された警察による厳戒態勢の登場とも重なっている。地域の外部から登場する秩序と自ら構成していく状況の中に、「集団自決」があったのだ。また知花の日の丸への決起に対しては、直後に彼の経営するスーパーへの放火、破壊がおきる。そして1987年11月8日、何者かによってガマの横に設定されていた「平和の像」は破壊された。そこには「国旗を燃やす村に平和は早すぎる」と書かれたビラがあった。「集団自決」が状況を構成することと、天皇あるいは日の丸が問答無用の暴力として登場することは、重なり合っていたのである。

Ⅲ証言の手前

こうした複数の水脈と重なり合う状況を念頭に置きながら、聞き取りをしようとした下嶋が最初に出会った、「語らない」という拒絶について考えていきたい。確かに下嶋の努力により証言が集められ、新しい事実が発掘された。しかしそれは、語るべきではないという規範的判断の語るべきということへの直線的な転換なのだろうか。そこには語れないということが、すなわち「予めの排除」にかかわる問いが、抱え込まれているのではないだろうか。饒舌な言葉の世界自体への拒絶があるのではないだろうか。あるいはこういってもよい。「語らない」と語る身体は、自らをモノとなすことにおいて、既に語り始めているのではないか。

先ほど述べたように、共同作業により作成された平和の像は、破壊された。この破壊された「平和の像」をめぐって知花と下嶋は、対立する[16]。下嶋が破壊されるという今の現実を表現するものとして、「平和の像」の破壊されたままでの保存と展示を主張したのに対して、知花は次のように述べている。

 

やはりあのままにしておくのはできんなあ……。遺族はつらいだろうなあ……。遺族たちは自分が手に掛けた子供の顔をつくるつもりで、つくっていた。それを半分えぐられたままの姿で残すなんて、ボクにはできない[17]。

 

こう述べる知花に対して下嶋は、「戦争を伝えるのは議論ではない、事実なのだ」と記している[18]。なんでもない違いかもしれない。しかし知花が、西山のドキュメンタリーがとらえたような像の作成プロセスにおける人々の変容、あるいは関係性の生成を問題にしているのに対して、下嶋は事実という破壊された像が示す意味内容を重視しているといえるだろう。

もし下嶋が最初に出会った拒絶が、語れない話を語らないとすることであり、「予めの排除」と語る主体の関係にかかわることだとしたら、何を語るかではなく、言葉の外に遡行しさらにそれを表現しようとする中で不断に生じる主体の変容のプロセスこそが重要になるだろう。そして慰霊や遺骨収集も含めた「平和の像」作成のプロセスとは、かかる主体の集合的な変容ではなかったのか。あえていえば「予めの排除」を組み入れながら新たな集合性が生成することではなかったか。またそれは、「いってはならない場所」という日常空間が変容し再構成されていくプロセスでもあったのではないだろうか。知花がいいよどみながら語っているのは、破壊された像の形象的な意味内容ではなく、こうしたプロセスの確保の重要性ではないだろうか。

語ることへの拒絶から始まったのは、タブーが破られ新しい事実が明らかになることではない。語れないことと語らないことの近似点に、「予めの排除」が抱え込まれているとするならば、こうした集合的な主体の変容や関係性の生成こそが、重要なのではないだろうか。またそこでは自らをモノとなし、身構えるということこそが、話すこととしてある。「遺族たちは自分が手に掛けた子供の顔をつくるつもりで、つくっていた」[19]という作成のプロセスは、同時に語りの時間でもあるのだ。

またこの語りは、言葉とはみなされない領域への遡行であり、そこでは言葉は身ぶりになるだろう。それは同時に、語っているのに語っているとはみなされず、沈黙しているのに沈黙しているとはみなされない戒厳状態が浮かび上がる事態でもある。そこでは身体は、危険に曝されている感覚を帯電するだろう。そしてこうした身体が、あえていえば問答無用の暴力を予感する身体たちが、状況を新たに構成していくことになるのだ。それは像の完成でおわることはないだろうし、また破壊において中断することでもない。

 

Ⅳ戒厳状態の記憶と拒絶

ところで語ることへの拒絶を考える際、最初に述べた厚生省による聞き取り調査への拒絶を考えることは重要である。1950年代において行われたと思われる戦闘参加者への補償を目的とした厚生省の調査は、沖縄戦にかかわる組織的な聞き取り作業の最初の試みでもある。そしてこの調査に対しては、次のような拒絶がおきる。「命を奪った国体が、いまさら何の調査かぁ」[20]。調査への拒絶は、このように主張されたのだ。それは調査自体への怖れでもあるだろう。調査は再び命を奪われる予感として、感知されたのである。そこでは調査は、事実を知ることではなく、問答無用の暴力にかかわる尋問として受け止められたのではないだろうか。そしてこの尋問は、沖縄戦の戦場を端的に表現している。いわば再尋問が行われているのである。

「沖縄語ヲ以テ談話シアル者ハ間諜(かんちょう)トミナシ処分ス」(第32軍「軍命」)。沖縄戦のさなか出されたこの軍命の要点は、沖縄の言葉が差別されていたということよりも、発話行為それ自体が、問答無用の暴力の根拠であったという点にある。話しているにもかかわらず言葉として聞き取られず、スパイ行為にかかわる身ぶりとみなされ、殺害の根拠となるのだ。沖縄戦を語ることへの恐怖とは、それが戒厳状態における発話の記憶でもあるという点に存在するといえるだろう。身ぶりは隠さなくてはならないのだ。またこの戒厳状態の記憶は、時空間においてくくり出された沖縄戦だけのことではない。戦前期の沖縄の小学校において、「大震災の時、標準語がしゃべれなかったばかりに、多くの朝鮮人が殺された。君たちも間違われて殺されないように」と生徒に対し教師が語る時、言葉が言葉とみなされず、殺される根拠となる身ぶりになる恐怖は、文字通り関東大震災の戒厳状態と直結しているのである。そしてこの恐怖は、学校の教室に充満しているのだ。

ガマでの集団自決を語ることにおいて見いだされているのは、こうした日常世界に潜在する戒厳状態ではないだろうか。そして語ることへの拒絶とは、戒厳状態の中でそれでも断固として言葉を手放さない営みとしてもあったのではないだろうか。それはくりかえすが、言語行為というよりも自らをモノとなし、身構えることとしてあった。そしてそこでは暴力が依然として予感されているのである。こうした文脈においてこそ、「平和の像」の破壊に対して人々が「やっぱり『日の丸』は恐ろしい」[21]と語ったことが、何を表しているのかが了解されるだろう。この問答無用の暴力として登場した日の丸への恐怖は、厚生省の聞き取り調査に対しても、そして当初下嶋に対してもなされた、拒絶と語ることへの恐怖とも、決して無関係ではない。

拒絶とともに浮かび上がっているのは、問答無用の暴力が秩序を担う戒厳状態なのであり、そこに日の丸が掲げられているのだ。そして言葉とはみなされない領域への遡行において構成されていった状況、すなわち証言と共に展開した「平和の像」の作成が、日の丸を燃やすこととして登場する中で浮かび上がった状況とは、こうした戒厳状況とその中でも状況をみずからが構成していくという言葉の可能性だったのではないか。

 

Ⅴタブーは新たな言葉の姿を求めている

この言葉の可能性こそ、私たちが今全力で取り組まなければならない課題なのではないだろうか。この可能性を担う言葉の在処こそ、知という言葉にふさわしいのではないだろうか。そしてそれは、言葉が通じない中で、言葉が通じる前提が失われた状態の中で、それでも自らの状況を構成していく言葉なのだ。それは饒舌な言葉でも沈黙でもない。身構えている身体は既に言葉を発しているのであり、のような言葉として「平和の像」の制作があったのではないだろうか。

「真実を語ってほしい」、あるいは「歴史の証言者になってほしい」。「語らないこと」を間違った規範とみなして正しい規範を教示することは、「語らないこと」を饒舌な言葉の前でのただの沈黙に落とし込むばかりではなく、正しい規範の前提である「予めの排除」の追認を強要することでもあるだろう。また市民的な公共性とそれに支えられた正しさを前提に「語らないこと」を論じることは、そこに語らない何者かが身構えており、既に語り始めていることを否認しつづけると同時に、その者たちの身体に作動する問答無用の暴力が自らの正しさの前提として存在することを、議論の外部に置くことになるだろう。

だかしかし、戒厳状態は常に準備されているのであり、それが社会にせり上がってくる今、求められる知は正しさのそれではない。戒厳状態の中で自らの状況を確保し構成していく言葉の可能性こそ、知が担うべき領域なのではないか。それは、共に像の作成を遂行するような知のありようだ。集団は新たな言葉の姿をもとめている。

この停留から登場する言葉の姿について、最後に議論しておきたい。あえていえばそこには、言葉の外部にかかわる二つのモーメントがあるといえるかもしれない。一つは、これまで繰り返し考えてきた、外部を抱え込みながら構成されていく状況と共にある言葉のありようである。これらの言葉は複数の遂行的な行為とともに状況を構成していくだろう。それは言葉であると同時に身ぶりであり、表情である。また動かし難い風景やその場の自然が新たな意味を持って立ち現われてくる何がおきるかわからない不穏な事態でもあるだろう。停留はこうした構成ということの、始まりとしてある。

いま一つは、外部をつかみ取り、語れないことを一気に語る言葉の在処である。いわば語れないことを代表する行為とともにある言葉である。そこでは代表性を定義づける制度的枠組みが、前提にされ、時には先取りされる。そしてどちらのモーメントも、「知る」ということが関係しているのだ。前者は、語れないことを知ろうとしながら、状況が再構成されていくことであり、後者はそれが何であるか説明しその意味を知らない人々に、内容を伝達しようとする。想定されている人の集まり方が違うのだ。

この二つのモーメントは、しかし、共にあるのではないだろうか。代表性が不断に審議にかけられ、既存の制度から離脱し続けるプロセスとしてあるとき、代表性の手前の領域には、この言葉の停留と始まりが、常に確保されているのではないだろうか。

 

 

[1]この原稿は、2015年8月13日、光州市の朝鮮大学校で行われた講演「言葉の停留と始まり―戒厳状態の時間―」での報告原稿に手を入れたものである。機会を与えていただいた朝鮮大学の車承棋さん、ならびに通訳をはじめ様々なところでお世話になった沈正明さんに感謝します。

[2]ジュディス・バトラー『触発する言葉』(竹村和子訳)岩波書店、2004年。特に第四章を参照。

[3]同上。

[4]フランツ・ファノン『黒い皮膚・白い仮面』海老坂武・加藤晴久訳、みすず書房、1970年、77頁。

[5]同上、79頁。

[6]フランツ・ファノン『地に呪われたる者』ファノン『地に呪われたる者』鈴木道彦・浦野衣子訳、みすず書房、1969年、67頁。

[7]ファノン『黒い皮膚・白い仮面』25頁。

[8]下嶋哲朗『白地も赤く百円ライター』社会評論社、1989年、37頁。

[9]冨山一郎『増補 戦場の記憶』(日本経済評論社、2006年)参照

[10]下嶋『白地も赤く百円ライター』30頁。

[11]このドキュメンタリーにおいて映像として写し取られているのは、「平和の像」の制作過程だけではない。遺骨収集にかかわる人々の表情や、読谷高校の卒業式の出来事、さらには日の丸の押し付けに反対する教師たち、サトウキビ畑やそこでの労働など、その場所における人や自然を丸ごとフィルムに留めようとしている。そこからは、みるということあるいは映像ということが、概念的に言葉と区分けされるのではなく、言葉が見える状況あるいは言葉が風景として留めおかれる状況への知覚としてあることを示しているのかもしれない。人類学者の箭内は民族誌映像にかかわって、被写体である対象と撮影者である分析者が共に動態の中にあり、このプロセスの中で映像が展開することを指摘しているが、映像を撮るという行為を、こうした流動化する状況への知覚として考えてみることもできるのかもしれない。箭内 匡2008「イメージの人類学のための理論的素描-民族誌映像を通じての『科学』と『芸術』-」『文化人類学』73巻2号。

[12]下嶋『白地も赤く百円ライター』70頁

[13]同上、118頁。

[14]下嶋哲朗『生き残る』晶文社、1991年、243頁。

[15]下嶋『白地に赤く百円ライター』186頁。

[16]この対立の重要性については、古波藏契さんからの教示による。

[17]下嶋『白地も赤く百円ライター』 64頁。

[18]同上、64頁。

[19]同上、64頁。

[20]同上、29頁。

[21]下嶋『生き残る』245頁。