火曜会通信(23)マレーシアにおける「女性器切除」
国民化とセクシュアリティ —マレーシアにおける「女性器切除」—
(2016年5月11日)
井口由布
2016年5月11日の火曜会において、マレーシアにおけるセクシュアリティと国民化について、「女性器切除Female Genital Mutilation: FGM」にまつわる言説の政治からみようとする研究を発表する機会をえた。この研究の目的は、前近代的で非人道的な実践として「FGM」を批判することや、伝統的な価値観としてこれを擁護することにはなく、むしろ「FGM」を近代的な問題として、とりわけポスト植民地における国民化にかかわる問題としてとらえなおすことにある。植民地医療は「われわれ」=「健康で模範的な人間」と「かれら」=「不健康で模範的ではない人間」という二項対立の図式を形成した。ポスト植民地における国民化の過程は、現地の人々がこの図式を内面化し乗り越えようとするところにあったと考えられる。この過程において「FGM」は乗り越えられるべき「病」として見られたのではないか。
報告の前半では、「FGM」を自明のカテゴリーとしないという立場から呼び名にまつわる言説の政治をあとづけたあとで、これがWHOや人類学によってどのように主題化とされてきたかを歴史的にたどり、西洋フェミニズムの普遍的人道主義」対「アフリカの伝統主義」の二項対立の図式を批判的に考察した。後半ではマレーシアにおける「FGM」の状況に焦点を当てた。マレーシアでは、これまでバラバラに行なわれ相互につながりをもっていなかった諸実践が、ポスト植民地における国民的、医学的、ないしは宗教的な言説の中で「FGM」として文節化されているのではないかと報告した。
「手玉のような」私の報告を、火曜会メンバーたちは丹念に解きほぐしてくれた。なかでも、医学的言説の重要性の再確認は、からみあったものをほどいてくれる糸口にもみえた。医学的言説の問題に焦点を当てながら、今回の発表をもう一度振り返ってみたい。
「FGM」をめぐる問題は、人道や普遍の名の下に行使される、恐ろしいまでの医学の力にあるのかもしれない。人体を傷つける暴力は、医学の名の下では正当化され、医学はその暴力を独占してしまう。対立の反対項にあったはずの伝統的ないしは宗教的な言説までもが医学的なことばを使うようになる。そこではもう「人道主義 対 伝統主義」というような対立は成立しておらず、すべてが医学的な知の枠組みに包摂されているのかもしれない。
医学的な言説における「健康で模範的な人間」の内実の空虚さについての指摘もあった。医学は、切開方法、麻酔や消毒の有無などの技術にかんするこだわりがあっても、めざすべき人間像には実のところ具体性がないのではないのかもしれないという指摘である。そうであれば、この空虚な内容は何にでも簡単にすげかわることができる。「FGM」は技術にかんする問題となり、廃絶のために力をつくした医学はある日突然これを続けさせることになるのかもしれない、というのである。
ポスト植民地の医療という点からみると、WHOの役割は私が最初に考えていたよりずっと強力そうである。WHOは、植民地医療が作りあげてきた医学による支配の枠組みをポスト植民地において継承しさらに発展させている。「FGM」の観点からいえば、これを廃絶するためのアクションのなかで、何千万人もの女性たちの性器が医学的な調査対象となったことになる。
討論ではほかにも、セクシュアリティや国民化という概念、「FGM」と美容目的の性器手術、都市における「FGM」の商品化などさまざまな論点が提出された。それらはすべて私の報告に深く関連し、またほかの問題にもつながっている。
さて、今年の断食月が開けるころ、私はマレー半島の西海岸北部の村落で調査を開始する。新しい「毛玉のようなもの」とともに火曜会に戻ってくることを楽しみにしている。