火曜会

火曜会は、言葉が帯びる身体性を押し隠すのではなく、それを多焦点的に押し広げることこそが研究行為ではないか考えています。また研究分野の境界は、分野の前提を再度議論する中で、連結器になるとも考えています。

火曜会通信(24)ドキュメンタリー「激突死」(森口豁 1978年)をみる

 

ドキュメンタリー「激突死」(森口豁 1978年)をみる(2016年5月18日)

木谷彰宏

 

<彼>は一体どんな道を通ってきたのでしょうか。道すがら、<彼>は何を見、どんなことを感じ、考えてきたのでしょうか。人は、いろんな道を通るたび、時に立ち止まったり、まっすぐ進んだり、引き返したり、曲がったりします。進むスピードも、ある時は駆け足で進んだり、またある時はゆっくり進んだりします。そんなふうに考えるのなら、<彼>は一体どんな風景に出会い、何を思い生きてきたのでしょうか。その中で、<彼>が抱え込んでいた迷いや揺らぎはどのようなものだったのでしょうか。「激突死」をみ、皆さんと議論する中で、そんなことを思いました。
喜瀬武原、コザ、川崎、国会前など、<彼>がみてきたであろう場所を行きつ戻りつ流転するカメラ。本人不在の語りの中で、<彼>の死を抗議の死ではなかったかという問題提起を無批判に受け入れるのではなく、そこに収斂しない見方はできないのでしょうか。言い換えればそのことは、人の死に意味を付与したくなる心理はどこから来るのだろうか、という問いであるかもしれません。死に政治的な文脈をあてがい捉えるのではなく、そこに至るまでのプロセスに思いを馳せることが求められているとしたら、私たちはいかに<彼>に出会うことができるのでしょうか。
説明されないと行為に納得することのできない心理。死に向かっていく<彼>の人生が因果で回収されていく瞬間にみえなくなるものは一体何なのでしょう。常になにか態度を迫るカメラは、ひょっとした瞬間にありえたかもしれない‘なにか’を、捨象していたように振り返ってみて感じます。それは最後のシーンに特にあらわれているようにも思いました。「ワォー!」という叫びは、それを象徴しているかもしれない、と。同時にその叫びは、映像をみる私たちの身体感覚をも問うているのではないでしょうか。
最後に、映像をみることとはいかなることなのか少し考えてみました。映像があるおかげで、私たちは何かを反復することができるのかもしれない、と。つまり、かつて・あそこに回帰するなかで、どこかでうち捨てられた希望や期待、葛藤や揺らぎや苦悩に出会い、消えていった誰かの足跡を垣間見ることができるのかもしれない、と。<彼>は国会の先に一体、何をみていたのでしょうか。そんなことを思いつつ、筆をおきたいと思います。皆さん、どうもありがとうございました。