火曜会

火曜会は、言葉が帯びる身体性を押し隠すのではなく、それを多焦点的に押し広げることこそが研究行為ではないか考えています。また研究分野の境界は、分野の前提を再度議論する中で、連結器になるとも考えています。

火曜会通信(28)映画『八月十五夜の茶屋』を視て

 

「映画『八月十五夜の茶屋』を視て」(2016年4月27日)
佐々木薫

 

いささか鮮度が落ちていることが否めないが、今期初回2016年4月27日に火曜会映像篇として「八月十五夜の茶屋」を共に視て議論した場をうけての火曜会通信を記していく。映画の基礎情報のおさらいと、当日の議論で出た論点の概観、そしてそれをうけたわたし自身の覚書を末尾に据える構成になっている。

 

0. 題材としての映画について
まずあの回の狙いでは、既存の議論にもとづいた鑑賞と議論をすることよりも、火曜会という場で、異なる背景を持つ人たちと共に見るという経験により重きをおくため、予めの文字情報は極力排除した。
ここでこの映画の情報を再度確認する。この映画は、米軍占領下の1946年の沖縄における、架空の村「トビキ村」を舞台にした、駐屯する「フィズビィ大尉」(グレン・フォード)や米兵たちと、通訳者「サキニ 」(マーロン・ブランドー)、現地住民たち、そして芸妓「ロータス・ブロッサム」(京マチ子)との統治形態の確立をめぐる攻防をコメディ調に描いた内容である。原作となる小説は、著者ヴァン・スナイダーが軍政府の教育係であったときの終戦直後の体験をもとにした”The Teahouse of the August moon”(1951) である。そしてジョン・パトリック脚本による舞台が1953年ブロードウェイで上演され、反響を呼び1954-56年ヨーロッパ、南米公演を行い、そして1955年8月に歌舞伎座で公演された。この演劇版脚本のもと、監督ダニエル・マンによってハリウッド大手のMGM、メトロ・ゴールデン・メイヤーと大映、大日本映画製作株式会社の合作で製作された。1956年アメリカで公開し、1957年に日本と沖縄で公開されたのが、今回鑑賞することになった岡田壮平字幕による映画『八月十五夜の茶屋』である。
議論の内容に触れる前に、一つ反省として、事前の表現に関するアナウンスがある。この映画での沖縄の人びとや米兵たちの描写は、50年代のハリウッド映画にあった人種や性差への差別を含んだ表現が中心となるため、不特定多数が集まる場で取り扱う題材として適切であったかという点も含めて、複数の方からの感想も受けて、会が終わってからしばらく考えていた。メールでの事前アナウンスや火曜会の始まりの時点で、差別的表現が含まれていることを伝え、その上でこの会に参加するか否かという選択を考える時間と機会を、みなさんに託すという方法をとるべきだったのではと思っている。適切か否かという議論設定自体の問題性も抱えながら、表現規制にまつわる議論の蓄積や、場を設定すること・共有することに関わる問いを今後もより深く受け止めて考えていきたい。

 

1. 火曜会の議論をうけて
会の冒頭で、映画にまつわる背景情報と上記の企画意図を説明したのち、映像を見て、休憩を挟み、約1時間半におよぶ切れ目のない議論を行った。火曜会では予想を超えて豊かな論点が織り混ざっていく議論となり、非常に心地のいい時間を過ごしました。ありがとうございました。
議論のなかで出てきた論点を個人的に概観すると主に大きく4つ。製作当時や舞台となった時代状況の反映のされ方、ズレと笑い、ジェンダー/セクシュアリティをめぐる議論、そして演劇性についてである。

 

1.1 当時の沖縄をとりまく状況、時代背景:移動と経済
製作・上映当時の政治的状況としてまず冷戦期である。そこでは民主主義と共産主義の対立と照らして、50年代当時のアメリカ本土でこの映画(それ以前には演劇)が上映され、「それは共産主義だ!(That’s Communism!)」と叫ぶ台詞が笑いを誘う場面として差し込まれている映画の作り自体への指摘(驚きと笑い)が多かった。この場面は映画の中盤でもあり、今回の鑑賞中で最も反応が大きかった箇所だったと記憶する。なぜ、ここで笑いが起ったのか。どのような笑いだったのか。以降でも触れていく。
また、資本主義による統治形態についての論点も挙がった。終始コメディ調で描かれるが、その最中に資本主義化による帝国の顔が垣間見えるのである。まず米軍のシナリオに則った大尉は村の特産物で商売を興すことから取り掛かり、その際となり村の米軍相手の交易で村の経済を成立させることが中心となった。ここでの特産物は手造りの笠やコオロギの箱などであり、特に漆塗りの椀の価値は機械生産の商品と比較されることで価値がつかなかったが、その後地酒の泡盛(〇〇スター)に価値がつくことに気づき、商売が成立し利益は分配されていく(!)。この流れの中に自由や土地を潰されたことによる、戦後占領期沖縄での移動する民衆の生活という歴史的文脈(とその差異)、土地を持たない中での民衆の米軍との対峙が含み込まれているという森亜紀子さんと冨山先生の指摘もあった。
開発的言説、しいては占領の正当化レトリックへの言及も多かった。それはこの作品の映画化における意図に通底する、今でいう開発的言説に見られる「文明的に遅れている、未開の地OKINAWAに、民主主義(そして資本主義)を教える・与えることが目的なのだ。つまり、征服や占領ではない。」というロジックである。のみならず、この映画ではトビキ村が占領のモデルケースに選出されるというラストシーンから、住民側からの占領の承認/欲望としても読めるのである。
占領側のまなざしにおいて、「どうでもいい」という占領側の東/南アジアへの視線の本音も、泡盛の名付けやサキニの描かれ方の粗雑さなどから読み取られた。どこにでも標識によって名づけたがる大佐にみえる権力性と伴う適当さ。また、サキニは一体、オキナワ人なのか、日本人なのか、アメリカ人なのか。アジア系への偏見のようなものとして、細長く潰れた目、出っ歯、奇妙なイントネーションが確認されるが、それともまた合致しない現れ方から、統治対象としての日本/沖縄/アジアへの無頓着さ、無関心さが露呈している。
そして、わたしたちは「八月十五夜」という邦題の多層性をいかに読むのか。この日付が含意する歴史的意味をいかに捉えていけるのだろうか。

 

1.2 ズレと笑い、コメディという枠組みがもたらすもの
次に、ズレに関して、ヘルメットといった小道具やヤギなどの用途といったものから、サキニとマーロン・ブランドーの役/演者の往来、会話のやり取り、そして人種やジェンダー規範からのズレというものが指摘された。そして、福本さんの表現を借りればオキナワをオキナワにしていく流れと軍政府の統治の揺れ、また大野さんの言葉を借りれば軍事占領の可変性(大佐が「ふらついているのはあなた」と言われること)を読み取るなかで、そのグダグダさをいかに統治側が表現し、見る側がそれを捉えるのかという点も重要なポイントとなった。
また、笑いについても多く言及された。今回、みなさんと見ることで、一人で鑑賞した時との大きな違いは、笑いが生まれたことである。それは大きな笑い。はじめは扱われるテーマや描かれている表現・内容に対して、笑うことへの後ろめたさや躊躇があったが、次第に教室という空間において増大していく笑いは、いかなる笑いだったのだろうか。そこでの笑いは、何かを棄却しながらスカッと笑い飛ばすような快活さは伴わず、半分恐ろしさや後ろめたさもありながら、半ば共犯的な笑いが生じていたように思う。グダグダさ、落ち着きのなさ、次第に壊れていくものを笑うこと。怖い笑いとは。または笑いの怖さとは。冨山先生の言葉でいえば、「笑いきれない笑いが含む面白さ」をつかむこと。ここで何と共犯関係かというと、上記にあるような、ズレから生じるそのものの奇妙さと、浮き彫りにもされる既存の規範関係への意識、そこから生まれる「おさまらない広まり」ではないだろうか。すなわち、ここでのズレとは、沖縄を表現する側が「どうでもいい」と投棄した空間に映り込む投げやりさ、そして「(地理的)場所感覚の異様さ」である。この居心地の悪さに留まり続けることから見えてくるものとはどのようなものであろうか。笑うと無防備になる身体が感知するものとは、怖さと面白さなのか。なにが起こるのかわからない期待なのであろうか。
そして、安心して笑えるコメディ、というジャンルはなにか。居心地が悪かろうが、笑っていいとする、許される(、、、、)対象を措定していくコメディ。しかし、そこで描かれるすわりの悪さに滑りこむもの。おさまらないおさまり。おさまらない広まり。ズレが、在る、映像表現の空間性とはいかなるものか。

 

1.3 ジェンダー/セクシュアリティをめぐる議論
ジェンダー/セクシュアリティにまつわる意見も多かった。まずロータス・ブロッサムをめぐって、大尉への贈り物としてのやり取りを指して、女性のモノ化、そして交換を通した男同士の関係性の成立が見られる。
また、劇中の女性芸者と女性労働者の描写の非対称性と近接性もみられた。しかし、トビキ村の女性たちと芸者のロータス・ブロッサムの描かれ方は、従来の〈主婦/娼婦〉という女同士の区分の振り分けでは留まらないものがある。腕力があり、力もちで、男性たちとともに泡盛作りを中心的に軽々とこなす女性たちと、ロータス・ブロッサムから化粧や踊りを享受することを求める女性たちは同一に存在し、必ずしも〈女〉のなかに引かれる分断で住み分けわれていない。ただ、同時に〈女性〉と〈東洋〉へのまなざしの(非)重複も注視しなければならない。
男性たちも(曖昧で撹乱的な脱男性性、とまでは言いすぎだが、)規範的権威的男性性からは外れ、周縁的位置にいる不安定な男性キャラクターばかりであった。人文学出身の大尉、流されやすい医者、上司の指令に従えず酔っ払い暴言を吐く曹長、配偶者を通じて自己同一化を図る。つまり、ほとんどの登場人物が、ジェンダー規範からズレたキャラクターであり、そこにはズレた男性性、(異)性愛的交換が必ずしも成立しない過剰な女性性、身体的強さをともなう女性性−−−逸脱、過剰さ、不足、交錯−−−が含みこまれた表現を伴い、ジェンダー/セクシュアリティの伸縮性、交錯性、そして境界の脆弱さを露呈しているのである。
また、パンパンにまつわる言説の同時代性についても論点となった。高恩美さんが主に指摘された、ロータス・ブロッサムが(、)フィズビィ大尉に(、)結婚を申し込む場面における、まさに同時代に存在したパンパン(と米兵)にまつわる言説とが不気味なまで重なる構造が、占領する側の描写においてみられることは、何を示し、含みこんでいるのだろうか。
以上のような、論点が出てきた。ジェンダー/セクシュアリティの視座からの議論が、既存の議論の枠組みへと切り縮められずに、また異なる読みの可能性にひらかれている確信を特にもてた部分でもあった。

 

1.4 Theatricality、演劇性
この映画を見るにあたって大きな要素となってくるものは、この脚本が演劇のものを下敷きにしている点である。演劇的な作りと観客と演者の近接性といった空間性・関係性と言ったものと映画表現の違いや、同時に複数の観客とともに見る集合的経験とコメディという作りにおいて無防備になる身体。空気を共有する観客を想定した、数々のズレに対する違和感を即座に回収し、または異なるズレを差し込み、笑いへと誘う作り。そのような(おさまらない)ズレが(おさまりとして)在る(        、、          、、)、この映像表現の空間性という特異性へと繋がっているのではないだろうか。

この「八月十五夜の茶屋」という映画の持つ豊かさを、論点をおさえながら、特定の学問領域に切り縮めずに語っていく可能性をひらいておくことが重要だと再確認した。それは、映画を視るわたしたちの身体に刻まれ重なっている、さまざまな境界から紐解いていくことでもあり、まなざしが錯綜していくことでもあり、その錯綜を捉えることである。

 

2. 所感:議論する身体・空間と笑いについて
ここからは、これらの議論をうけたわたしの雑観を述べていく。お時間がある方、ご笑覧ください。
2.1 議論における身体性と空間性、〈あなた〉を切り離さないこと
個人的に非常に印象深かったことは、あの日の議論空間における空気感、といえば良いのかわからないが、議論の流れ方、重なり方が非常に心地よかったのはなぜなのだろうということだ。議論の材料となった映画の「劇場性、Theatricality」という要素を含み込んだテキスト性も関わってくるのだろうか。同時に経験をすることに重きをおくものを下敷きにしたことが要因になるのか。しかし、それだけには切り詰められない広がりを持つものであった。
場の空気感という空間性と同時に、織られていく議論の感覚を縒る身体性とはなにか。あの場では映像を共に見る身体、パフォーマンスを見る身体、そして議論する身体が同時に連なって、あった。そこからわたしは、他者へひらかれた、身体と他者の関係性、そして場の重要性を捉えたいのかもしれない。
ここで付け加えたいのは、これは議論一つ一つに優劣の価値をつけ良し悪しや正誤に序列化することではなく、場のメンバーシップや、議論における関係性が確保する拡張性に関わりながら、注視するものだという確信がある。ただ、「正しい」議論のすすめ方を高らかに宣言し提案することがわたしの試みでは、ない。分離的な態度や、楽観的な立場や、または学術的/政治的な正しさといった陳腐な文脈から、言葉を紡ぎ取っていく話し方。ナイーブな表現だが、新たな関係性や言葉のありかを探る可能性を、〈あなたたち〉との議論という〈場〉において見出したいだけである。
また、いま、あの場で、わたしたちがあの映画を見てしまったということは、なにをもたらすのか。どの学知、見地、立場から見たのか。見る経験の複数性、拡張性、多層性。そして、異なるものたちが同時に見る瞬間、なにが起こっているのか。横断性、と言い切っていいものなのか。これは、見方/読み方を狭める話ではない。この映画の読みを広げる可能性を確保しておきたい、と強く思う。それによって、戦争、占領、性、労働、そして日常…それらが連綿とつながっていることを発見することで獲得できる想像力を確保できるのではないだろうか。それぞれの読みが錯綜し、 交差し、異なる読みが重なりながら質感と連続性を伴っていく。そのような議論。そのような関係性。それを想像すること。〈あなた〉とのつながりを断たないこと。

 

2.2 笑いの暴力性と希望
笑いには、力がある。エンパワメントにつながることもあり、翻って誰かを脅威に晒すこともあり、または奇妙な力関係を浮き上がらせる効果もある。
『八月十五夜の茶屋』は、決して奇妙な笑いではなかった。ある種コメディという正統性を持った皮を被った共犯的で「不謹慎な」笑いであった。ただの大笑いよりも、どこか後ろめたさやすわりの悪さを伴った笑い。笑いについて、しばらく考えていた。今回の議論とはずれるが記していく。
上記で記したとおり、笑い方にはさまざまな種類がある。スカッと笑うとき、同時に笑い飛ばせ!という要請で立ち上がる共同性に含まれ、または零れ落ちるもの。ある種、脅迫のような、背筋をピンと張らなければ笑い飛ばせないということ。なにかを思い切り投げ棄てないと、笑えないような勢いのある笑い。その強引さは、なにかの痛みにも同時に出会うときには、一面的にはいささか暴力的に見える。「笑え!」という言葉(しばしば励ましの形もとる)を、いまそこで身動きが取れない人に向かって、果たして投げかけられるのだろうか。
しかし、笑わなければ、やり過ごせない状態や状況というものも、ある。目に涙を浮かべようが、口元がうまく作れなかろうが、頬が強張ろうが、声を上げねば、切実さを抱きながら、笑いの怖さに身を晒しながらではないと、身体が悲鳴をあげて引き裂かれそうな瞬間を、生き延びられないのである。絶望にじっと身を置きながらでも、一縷の希望をつかもうとする身振りにつながるのだろうか。否認や除外、棄却しながら、なにかを取り込んで獲ようとしているのだろうか。そんな笑いの怖さを、近づきすぎず、遠くになりすぎず、見つめていきたい。

 

*徒然
個人的な状況ではあるが、わたしは言葉や視覚の領域から、医療的見地からの身体の構造的な領域へと関心を移行させている。しかしそもそも、このように領域をわけることは無意味である。見る/見られる関係性における非対称性、他者への曝され、不可視なセクシュアリティを表面から読もうとする欲望、外見のコード、名付けの暴力と名乗りの効果、そして自分自身を説明すること。痛みをまなざすこと。聞く/書くということ。言葉の力。それらに伴う身体性。
わたしが身体を注視しようとすればするほど、距離を近づこうとすればするほど、物質性を前提とした認識が紛れこんでくる困難、他者との距離への戸惑いを先取りしてしまう。そして、やはりわたしが抱えこんだ上記の問いとのつながりを想起する。
戸惑いや想起は、他者への想像力を保ち続けること、そして絶望のなかでも希望を見出す読みや新たな関係性の在り方、築き方の模索の実践を続けようとすることなのかもしれない。つまり、わたし自身がサバイブする(生き延びる)ための場であり続ける。その身体感覚を議論、または(映像を)言葉に引き留めていくことには、そのような場をつなぐ力がある、と体感してしまった。
どのように問いをつなげていけるのか。議論における可能性を、新たな関係性を創出する方法を、期待を込めて、これまでとこれからの出会いに投げ入れてみることにする。そんな希望を紡ぐような火曜会という場、議論の場をつくりあげてくださったみなさま、本当にありがとうございました。ひとまず、この場を借りて、多大なる感謝を申し上げます。これからも宜しくお願い申し上げます。