火曜会

火曜会は、言葉が帯びる身体性を押し隠すのではなく、それを多焦点的に押し広げることこそが研究行為ではないか考えています。また研究分野の境界は、分野の前提を再度議論する中で、連結器になるとも考えています。

火曜会通信(30)安丸良夫『出口なお』を読む

「安丸良夫『出口なお』を読む」(2016年6月29日)
りえ

 

6月29日は安丸良夫『出口なお』(大本教開祖の評伝)を読み、なおの「神がかり」と終末思想について、またその記述のあり方をめぐって議論を行いました。もともと私が本書に惹かれた理由は、なおが「決定的な零落体験」の後、一挙に現世の秩序を覆すというところに、近代的知によっては摑むことのできない超越性のようなものを感じ取ったことであるように思います。そして、いくつか疑問に残る箇所はありながらも、一貫してそうしたなおを書こうとする安丸の語りと視点に惹かれたということがありました。
しかし、火曜会では、議論をとおして、本書が投げかけるいくつもの問いが新たに見えてきたように感じています。以下に、ごく一部ではありますが、議論を受けて私自身が感じたことを書き留めておきたいと思います。

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近代が始まり発展を遂げようとしていた明治中期、出口なおにとって、近代は<すでに>終わったものとしてあった。すでに終わっている、終わりの「後」―遅延―を生きる人々…。そのとき救いは何処に見出されるのか。なおと信徒たちには何が見えていたのか。「発狂した」とのみ記述される人々も、本当のところは何を見ていたのか…。なおの神がかりが常に、終わりの「後」を生きる人々との関係性の中にあり、そのようにしていったん吐き出された言葉、言葉、言葉……が、なおのものでも誰のものでもない「神の言葉」となり、誰しもが、そこに巻き込まれていったとするならば、安丸も、それを読む私自身もまた、すでにそこに巻き込まれた者であり、筆先=神の言葉にどう向き合うのか―終わりの「後」を如何に生きるのか―を突き付けられている。
近代の<終わり>を直観した人々の間には、「五感に強烈に訴える神憑現象がつくりだされ」、「霊魂観に火がつけられ」、人々はそれに「つよい驚きと感銘」を受けた。神がかりとは<近代的な主体-客体の論理>とは異なる、感覚の領域が強く動かされる事態であり、確かに当時、綾部の上空に、または天井裏に、人々は神を見、あるいは神の声を聞き、あるいはより身体の深部感覚として―振動、筋の緊張、重量感として―神を感知した。そうした事態を、すでに近代的身体として完成を遂げた主体である<私>が、どのような言葉で語ることができるのか、ということも本書の投げかける問いであるが、安丸自身は、ある時は史料に基づいて、ある時は(不自然な)説明的な言葉を使って、ある時は全くの主観的見解によって、書き切ろうとした。
あるいは「書く」ということに関わって言えば、安丸は本書を教団信徒との具体的な関係の中で(それは必ずしも良好な、予定調和的なだけではなかった)書いていたが、それは宗教に限らず、研究対象との関係性において、あるいはそれぞれのフィールドにおいて(ときに拒絶されるという経験も含めて)、研究しようとする者が「書く」という行為において絶えず直面する問題でもある。「安丸の歴史記述も、一つの神学論争の場に立っている」という指摘が、そのことを象徴的に表しているように感じられた。
最後に、安丸とベンヤミン、両者の意図の類似性という主題も印象に残ったが、今後ベンヤミンを読みながら考えてみたいと思う。貴重な議論の場を設けて頂き、ありがとうございました。