火曜会

火曜会は、言葉が帯びる身体性を押し隠すのではなく、それを多焦点的に押し広げることこそが研究行為ではないか考えています。また研究分野の境界は、分野の前提を再度議論する中で、連結器になるとも考えています。

火曜会通信(35)台所からまなざす歴史について

 

台所からまなざす歴史について(2016年7月13日)
西川和樹
台所からみた歴史記述というものを考えている。台所から、暮しから社会をまなざすとは、いったいどのような営みなのだろうか。
暮しから紡がれる言葉のひとつとしてレシピを読んでいる。普段は眺めるだけのレシピの言葉を注意して読むと、注文の多いレシピや日常に寄り添ってくれるレシピ、深読みを求めるレシピなど、それぞれの表情が見えてくる。
レシピにも文体があって、野菜炒めをするにも「強火で3分」とするか「ガーッと一気に」とするか「野菜がしんなりするまで」とするかは、それを書く料理家によって違ってくる。料理のことを言っているようで、料理のことだけではない、こうした文章は何か、と思いながらレシピを読んでいる。
実際、レシピの言葉はいろいろな喚起力を持っている。レシピを声に出して読むことは少ないかもしれない。声に出して読むと、今日の夕食が目に浮かんだり、身体が動き出したり、記憶が思い出されたり、自分の生活を顧みたり、今回の報告でも様々な反応があった。

台所からまなざす歴史について、今回書いた文章のなかで、「昨日使い残した野菜の切れ端を今日の夕食に、そして今日の残り物は明日のまかないに使うようにして、歴史を考え、社会を語る」ということを書いた。書いたあとで、これは一体どういうことだろうかと、書いた自分もうろたえている。
けれど、ある部分ではもうしていることなのかもしれない。料理をすることと文章を書くことは似ている。どちらも完璧な素材とたっぷりの時間と明確な到達点がそろってから、はじめたいと願いつつも、そうした事態は決してやってこない。
昨日使い残した余りを使わないといけないし、時間はいつも足りない。これを書きたい、作りたい、と意気込んでみても、作っている途中にどんどんかたちがかわってしまう。料理することも書くことも、途切れのない日々の継続のなかで、いま動いているもののなかで、なされる営みであるとするならば、そうした継続性を大切にしたいと思っている。

今回も様々なコメントを頂きました。これからゆっくり考えてみたいこともできました。
まだ、曖昧な言葉づかいでしか書き記せない問いばかりの文章に付き合っていただいてありがとうございました。