火曜会通信(36)琉球華僑とは誰のことなのか
まなざしの変化が生み出す〇〇人―琉球華僑とは誰のことなのか(2016年7月27日)
安里陽子
7月27日は、沖縄・八重山における台湾系住民の方々がどのように自らについて語るのか、またどのように他者からまなざされるのかということを、八重山に渡ってきた背景や当事者団体である琉球華僑総会の会員の語りも交えて報告しました。八重山における台湾系住民は、戦前期に帝国日本の植民地であった台湾から八重山に渡りパイン産業を導入した方々をはじめ、戦後沖縄の基幹産業となったパイン産業に従事する「女工」として渡ってきた人、二・二八事件後の台湾から亡命してきた人、沖縄の日本復帰後に調理師などとして来た人など背景はさまざまです。また琉球華僑総会は沖縄の日本復帰を機に設立された団体ですが、その八重山分会というのは約80年前に結成された台友会という団体からつながるもので、那覇に琉球華僑総会が設立される際に分会のかたちをとることとなった経緯があります。
今回は、八重山分会の会員による、那覇の本部と八重山分会がいかに違っているかという語りに注目した議論が中心となりました。「〇〇とは違う」「●●という点で違う」「◎◎という点でも違う」というように、「・・・と違う」と言いつなぐことで彼や彼女たちは何を保持しようとしているのでしょうか。華僑・華人や移民にかんしては越境的なネットワークやディアスポラとして言及されることが多いですが、そういったくくりをも「違う」と払いのけ続けるような身ぶりによって、彼や彼女たちは何を表そうとしているのでしょうか。「違う」と言い続けることは、表現できる言葉や枠組みが見つからないということでもあり、それはゆじんさんの言葉でいう「煙幕」に包まれているような状態であって、「違う」と言うことで煙幕を払いのけるその瞬間にしか見いだせないものこそ、表現したいことといえるのかもしれません。
いっぽう、那覇の本部とは「違う」と言い続けながらも「八重山性」は肯定するときには、どのような力が働いていると考えられるのでしょうか。八重山は古くから日本本土や沖縄各地からの移民も多く「八重山合衆国」と称されることや、パインブームを生じさせた資本の力、米軍占領下の沖縄におけるアメリカの政策など、語りに出てくる「台湾の八重山人」とは何なのかを考える軸は重層的に存在し、当事者の語りも文脈に沿ってよりていねいに拾い上げる必要があることを改めて実感しました。
また、どのような場面で彼らは「農民」という言葉を使い、それによって何を打ち出そうとしているのだろうか、という岡本さんによる問いのように、語りにまつわる新たな問いも出てきました。
みなさま、貴重な議論の場をつくっていただき、ほんとうにありがとうございました。