火曜会

火曜会は、言葉が帯びる身体性を押し隠すのではなく、それを多焦点的に押し広げることこそが研究行為ではないか考えています。また研究分野の境界は、分野の前提を再度議論する中で、連結器になるとも考えています。

火曜会通信(37)サンフランシスコ・ベイエリアにおける慰安婦像建設の是非を巡って

私たちを隔てさせるものは何か
〜サンフランシスコ・ベイエリアにおける慰安婦像建設の是非を巡って〜
(2016年7月27日)
高橋侑里
2015年9月17日、サンフランシスコ市役所で行われた慰安婦像建設(「従軍慰安婦」問題として知られている)を巡る公聴会には、様々な史的背景を持つ人々が集まり、参加者たちによって慰安婦像建設についての意見が述べられた。彼らの意見にはどのようなポリティクスが働いているのであろうか。この研究において全ての意見に言及することはできないが、公聴会で発せられた言葉、そして背景にあるサンフランシスコ・ベイエリアに暮らすアジア系アメリカ人の歴史的背景を辿ることと合わせて、慰安婦像建設を巡って浮かび上がる政治空間について考察する。様々な史的背景を持つ人々がひしめき合う日常空間に戦争経験が現在進行中の問題として絶えず問われ続け、それぞれの記憶が重複、横断、分裂し続けている場所、サンフランシスコ・ベイエリアから考えてきました。
アジア・太平洋地域における第二次世界大戦後、アメリカ合衆国のヘゲモニーとその支配的語りは、旧日本軍による植民地支配、侵略戦争といった日本の戦争犯罪をアメリカによる解放とリハビリの神話へと塗り替えていった。アメリカの戦闘行為の正当性と戦後のアジア地域を共産主義から守るという大義のもと進められたアジア地域の占領に対する正当性を支えてきた。また、アメリア主導の戦後秩序の登場は、日本の保守主義者たちの容認のもと進められてきたことも忘れてはならない。また加えて、同時に韓国は、日本の植民地支配からアメリカの支配下へと置き換えられていくことになった。このように、戦後秩序に国際関係論的大枠を与えることによって一先ず整理することができる。
サンフランシスコ・バイエリアに従軍慰安婦像が建設されることを通じて、いま何が問われているのであろうか。アジア地域における日本の大東亜共栄圏支配から太平洋戦争を経て、冷戦時代、グローバル時代と変遷するなかで、従軍慰安婦像が建設とその論争や運動を考えることにとって、とりわけアジア系アメリカ人にとっての戦争経験と歴史認識を検討する作業が必要なのである。
では、日系アメリカ人にとって、サンフランシスコにおいて慰安婦像建設は、彼らにとってどのような事態であるのだろうか。この事態を紐解くために、彼らの歴史経験をここで振り返ることにする。日系アメリカ人にとって第二次世界大戦は、日本の真珠湾攻撃と同時に強制収容所への収容を余儀なくされた。強制収容所に送られた後に行われた忠誠登録では、アメリカか日本のどちらに忠誠を誓うかということが彼らに問われた。これまで多くの先行研究では、これらの一連のながれに対して、アメリカ政府はアメリカ在住の日本人、日系アメリカ人を「敵性外国人」と呼び、「戦時のヒステリー」や「レイシズム」として理解されてきた。これらの見解は、日系人の経験を考える際に、地政学的配置によって生産される知識生産のあり方、もっと言えば地域研究のあり方と深く関連している。乱暴に言ってしまうならば、日系アメリカ人が、アメリカのなかの日系人、日本人として思考された結果である。ここでは、思考する際の空間的分離が起こっているのである。この地政学的、空間的分離に抗うために、日系アメリカ人が背負っているアンビバレント性についてもう少し丁寧に考察すると、どのように思考することができるのであろうか。「強制収容所と忠誠登録は、日本国家の戦争責任が日系アメリカ人に問われた事態であった(冨山)。」この冨山先生の発言は、日系アメリカ人を考える際に、地政学的、あるいは空間的にアメリカと日本を分けて考えてしまう認識パターンに対して、日本とアメリカの間で生じた国際関係論的な流れと、アメリカにおける日系人という認識枠組みに連続性を与えたのである。
アメリカのなかの日系人、日本人の経験を思考するにあたって、日系アメリカ人にとっての日本とは、どのような場所なのかということを考えることがとりわけ重要である。それは、日本文化や伝統という類の話ではなく、日本国家という点においてである。日本国家との関係性、彼らの出自に関わって、有事になると必ずアメリカ国家への忠誠を問われてきたのである。いくらアメリカに長い間暮らしていても、アメリカの出生証明書を保持していたとしても、市民権の有無に関わらず、何者かを問われることを免れることはない。それが顕著に現れた事態が強制収容所で行われた忠誠登録であった。慰安婦像建設を巡る一連の動きに含まれていることの一つには、占領地で旧日本軍が行った犯罪の責任といったものが再び日系人に対して問われた事態なのである。戦時の忠誠登録と慰安婦問題のあいだには、このような連続性を見出すことができる。
日系コミュニティのなかでも建設賛成派、反対派といったように意見が分かれていたが、それら賛成も反対のなかにおいてもなお多様な意見の層が見受けられた。今回の報告で言及した、日系コニュニティのイベント「追憶の日(Day of Remembrance)」において上映された日系二世兵士に関わるドキュメンタリー映画では、沖縄戦において日本軍から救出したヒーローとして日系人兵士が思い起こされ、再びコミュニティの内でこうした経験が共有された。これは、強制収容、忠誠登録が行われたにせよ日系人自身が参加した戦争への正当化の動きに繋がっている。また、アメリカの対日戦争が、日本人とその他のアジア人を解放し、治癒・更生した(リハビリ)「よい戦争(good war)」として再記憶されること、加えて日本の戦争犯罪のアメリカ化[Americanization of Japan war crime]との連続性について注意深く検討する必要がある。
慰安婦像の公聴会やサンフランシスコ州立大学で行われた慰安婦像建設運動に関するドキュメンタリー映画の上映会などにおいて、サンフランシスコにおいて慰安婦像建設に賛成することがリベラル、ラディカル、左派であるという風潮が見受けられた。しかし、ここでもう少し立ち止まって考える必要があるように思う。また、 慰安婦像建設に反対する人の中には、日本帝国の慰安婦制度自体がなかったと、主張するものもいた。彼らの存在や主張は、慰安婦像建設の是非に関わる対立をより二項対立的な性質へと推し進める側面がある。そうではなく、この研究で考えようとしている領域は、このような否認主義とは異なる領域である。サンフランシスコにおいて慰安婦像建設すること自体が含み込んでしまっているポリティックスとは何かということを今後注意深く検証していくことが重要である。
また一方で反対派の意見の一つには、活動家の日系三世の女性の建設反対の理由として、慰安婦問題が浮上することで、戦前のように日系人コミュニティに対する反日(日系)感情(anti-sentiment)が再び捲き起こることに対して懸念を示していた。私は、ベトナム系アメリカ人二世で、アートカレッジで教鞭を取っている友人に、この日系女性の話をしたことがある。そうすると、「今と戦前は違うよ。」という返答が返ってきた。確かに今と戦前は異なる時代であり、それぞれの諸条件も同じではない。しかしながら、時代が違うという理由で、この女性の懸念というものを、そう簡単に片付けるわけにはいかないのかもしれない。この女性の懸念は、まずもって日系コミュニティや彼女自身に向けられるかもしれないネガティブな感情に対する不安がある。戦前のようなレイシズムが繰り返されることはないにしても、これまで緩やかに繋がっていた隣近所の人たちとの関係性が変わるかもしれない、壊れるかもしれないといった不安である。ここで重ねて重要なことは、この不安は、日本国家の戦争責任が日系アメリカ人に再び問われる事態が察知されているのである。この点において日本の過激な保守主義者が慰安婦の歴史自体を否定しようとし、慰安婦像建設を反対する態度とは著しく異なるという注釈を入れておく。彼女の慰安婦像建設反対に関する主張には、個人として日系人であることと、日系コミュニティとして日本国家の問題を再び引き受けざるおえない事態が重なり合った場所から発せられたのである。それは、彼女にとって日系人であるということと、日系コミュニティの一員であることが分かち難く重なり合っていることなのである。慰安婦問題が契機となって、サンフランシスコにおいて日系人であるということが再び問われる事態となって現れたのである。
サンフランシスコ、ジャパン・タウンにある日系コミュニティ組織のディレクターを務める日系二世の男性は、昨年の慰安婦像建設の是非を巡る公聴会で2分間スピーチを行った一人である。2016年5月、彼に慰安婦像を巡る一連の動きについて、尋ねたところ以下のように語ってくださった。「韓国系や中国系といったアジア系のコミュニティは、いつもは協力して何かすることが多いんだけどね。イベントやお祭りなんかを一緒にやるために頻繁にやりとりして協力してるよ。でも、慰安婦像の時は、違ったねえ。何も知らされないままことがすすんでいたから、何もできなかったよ。一言声を掛けて欲しかったよ。」、続けて「何十年も前に旧日本軍が犯した犯罪を我々にどうすることができるというのか。」と、困ったように話してくれた。彼の話は、様々な史的背景を持つ人々が暮らすサンフランシスコ・ベイエリアが持つ特有の場所性や、そこでの人々との付き合いや暮らし方といったものを見受けることができる。そして、彼らがエスニック・マイノリティーの日系人であるがゆえに日本国家の問題から逃れられないことが浮かび上がる。言い換えると、彼らは、アメリカ人としてアメリカで暮らしながらも、自分の出自に関わる民族性や国家の問題を背負い、引き受けなければならないということである。アメリカ社会においてエスニック・マイノリティーとされるがゆえに責任が問われ続けるのである。そして同時に、サンフランシスコで暮らしていくために、他のコミュニティと隣にいる人とどう付き合うか、どう一緒に生きていくかということが彼らの日常においてとても大事な実践であるのだ。
二年前同志社に二ヶ月間、教えに来てくださったウエスリー・ウエウンテン先生は、ベイエリアで暮らし、サンフランシスコ州立大学、アジアン・アメリカン・スタディーズで教鞭をとり、三線を弾きながら日系コミュニティに関わり続けている。いま思えば先生が公聴会にたまたまサンフランシスコに滞在していた私を誘って下さったことがこの問題を考えるはじまりとなった。「この20数年の間、日系コミュニティに関わってきたが、いままで色んな問題を抱えつつも比較的静かであったコミュニティだが、今回ほどコミュニティのなかで動揺や意見のズレが如実に現れたことは珍しい。」、「だからこそ今、対話を始める機会でもあるのだ。」と、ウエスリー先生が語った。また、場所と時を超えて、火曜会の議論のなかで、冨山先生がウエスリー先生の講演会「ベイエリアの磁場」を思い出しながら、以下のように語った。「サンフランシスコ・ベイエリアで、誰かと一緒に何かをするには、誰かを置いていかなければならないことがある。一つにまとまることは難しいが、それでも何かが始まる。何かを始めるのだ。ウエスリーの”Fence”という歌は、ベイエリアで何をしても壁にぶつかるが、それでもベイエリアで三線を弾くことで、その場に留まり続けているウエスリーの姿と重なります。そして、一緒になれなくても(合意できなくても)、横にいることには違いないということです。」この二人の語りと、ベイエリアでのフィールドワークを思い出しながら考えるなかで、日系コミュニティと韓国コミュニティといった単純に、民族性によって括りあげた集団性の話だけではない。まずもって大切なのは、そのように民族性によって括りあげた集団性、またその意味でのコミュニティレベルにおいて思考するだけではなく、自分の隣にいる人と対話を始めることから何かがはじまるのかもしれない。