火曜会

火曜会は、言葉が帯びる身体性を押し隠すのではなく、それを多焦点的に押し広げることこそが研究行為ではないか考えています。また研究分野の境界は、分野の前提を再度議論する中で、連結器になるとも考えています。

大学の危機?ー「火曜会」を考えるために

 

大学の危機?

『インパクション』(173号 2010年)

 

冨山一郎

1今何が起きているのか

国立大学は、二〇〇四年に法人化された。また私大も、二〇〇四年の私学法の改正により、理事会の位置づけを明示することが求められ、それをいいことに理事長権限の拡大をおしすすめた。また同改正により財務内容の公表といわゆる経営状態の格付けもなされるようにもなった。こうした中で登場した、財務主導の大学経営と意思決定における経営陣の独裁いう旧国立大学と私立大学を通低する共通平面では、大学という空間の管理強化と学生運動や新宗教団体をはじめとする「厄介者」の排除がすすめられている。すなわちこうした格付けの中で、やはり留学生を含む学生管理は極めて重要な評価基準になるのであり、それは、コスト&ベネフィットの中で学生を管理することにもつながるだろう。

いや正確にいえば、真の意味での経済合理性ではなく、経営という問答無用の印籠を手に入れたといったほうがよい。多様であるべき大学を構成する価値観は、極めて平板な理屈にもならない理屈となり、そこでは「過激派」と「カルト」は根絶対象であり、「不良学生」、「不良留学生」は監視され、排除される。本号所収の清水雅彦さんの「大学における監視カメラ」では、さまざまな不安を煽りながらすすむ監視カメラ設置の実態とともに、想定される監視対象が大学内の「規律違反者」にも向けられていくことが指摘されている。財務主導の大学経営は、セキュリティを唱えながら大学警備を経営の軸へと押し上げ、大学を恒常的な人権侵害の場に変えつつあるのだ。

さらに法政大学では、こうした大学の動きに公安警察が加わり、大学経営を理由に公安が動き、大学職員や教員が自発的に公安の手足として働くという権力構図をつくりだした。経営は教育の名において語られ、教育的措置は警備職員や教員による暴力的弾圧になり、公安の暴力は大学教育と地続きになる。ふつうに考えるとおかしな理屈なのだが、この思考停止を前提にした屁理屈が、「ルールを守りなさい」という一言で恥ずかしげもなく堂々と語られているところに、今の問題の深刻さがあるのだろう。特高以来、法を無視し続けてきた公安警察(そしてその無法を承認し続ける司法)と、教育機関である大学によって生まれた、大学という空間を舞台に経営者と教育者と無法な警察が野合したこの権力を何と呼べばいいのか、いずれ明確な歴史評価がなされるであろうが、こうした傾向は多かれ少なかれ、すべての大学にも存在する。

また格付けの中で大学経営は、現在の大学労働者の最も中軸である非正規職員のリストラ、雇い止め、首切り、労働管理強化に、加速度的に向かっている。旧国立大学に関していえば、法人化以降、非正規職員の数はうなぎのぼりに増え、私の大学では職員の七一パーセントが非正規である。またいわゆる外部資金やグローバルCOEといった3年から5年のプロジェクト型の資金投下は、多くの大学で特任研究員といった不安定雇用の研究職を大量に生み出している。本号所収の非正規職員労働組合の活動からもわかるように、こうした中で今、各大学では雇い止めへの抵抗運動が一気に拡大しつつある。またこうした労働運動は学生たちをも巻き込み、職員と労働者の新たな関係を生み出しつつあるのだ。

こうした法人化や私学法の改正に示される教育改革の流れは、これまでにも指摘されているように、日本だけのことではなくヨーロッパや米国を始め世界同時的な展開である。またこの展開は、たんに大学が単なるビジネスになったということを意味するだけではなく、大学が格付され、グローバルに活動する金融資本の運動にまるごと巻き込まれる中で、大学と資本の新たな関係が生じてきている証左だろう(崎山政毅さんの文章を参照されたい)。すなわちそれは、科学技術や労働力の産業資本への適用や供給というだけではなく、大学が占有する人文学をも含む知識や情報あるいは人材と、知識資本主義との新たな関係が構築されてきているのではないだろうか。そして今、グローバル資本に先導された世界に蔓延する教育改革の矛盾は、学生と非正規労働者に集中的に顕在化しているといってよい。学生と非正規労働者が重なり合う客観的状況は、明らかに存在するだろう。

 

2大学はだれのものか、あるいは危機について

こうしたあらゆる大学に通低する、財務主導の大学経営と意思決定における経営陣の独裁いう共通平面を成り立たせ、大学経営を一つの方向に突き動かし、矛盾を学生と非正規雇用に集中させている原動力は、経営破綻という恐怖である。実際、既にこの恐怖はあちこちで具体的に登場し、閉校や募集停止が次第に広まりつつある。また破綻を見越した合併交渉も盛んだ。広がる恐怖から逃れるためには、あらゆる手段をつかっても競争に勝たなければならない。その結果、自分たちは勝ち組であることを日々確認しようとする、歪んだエリート主義が蔓延する。経営という平板な理屈が印籠になり、大学は監視と暴力の場となり、勝ち組を自認したい恐怖におののく輩たちが主人公になるのだ。

だがしかし、こうした恐怖を前にして、「大学はだれのものか」と問うてみよう。そしてそのとき、大学は資産でも資本でもないはずだ。先取りしていえば、大学とはだれのものでもない空間であり、関係ではないのか。大学は所有物ではなく、そこでどのような集合性が生み出されるのか、どのような関係性が生成するのかということこそが問われなければならないのではないか。所有関係に規定されたメンバーシップではなく、誰がどのような形でこの空間に入り込むのか、誰がどのような空間を創造するのかということを、考えなければならないのではないか。

本号でも登場する、実際に経営破綻を経験している聖トマス大学は、尼崎という地域との関係を新たに生み出す試みを行なった。それは、一方で門を硬く閉ざした上で都合よくNPOや企業と連携するという今称揚されている展開ではなく、外部が大学に「ほっとけん」といって乗り込んでくるという展開だ。もちろんこうした展開が今後どうなるかは不明だし、その将来構想をここでうんぬんすることがここでの目的ではないが、はっきりしているのは、恐怖は実は新しい可能性の始まりでもあるということだ。またこうした地域と大学の関係は、米国のコミュニティ・カレッジのような展開と重なる論点があるだろう。

いわゆる1960年代のアフリカ系アメリカ人やアジア系アメリカ人、ヒスパニック系アメリカ人などが居住する貧困地域におけるコミュニティ運動は、無償で無試験の高等教育を受ける場としてのコミュニティ・カレッジを生み出した。それは貧困と闘う中で生まれたユニオン、住民自治、大学自治の重層的な関係の結節点であり、多くの場合マイノリティの運動拠点でもある。もちろん州からの援助が削減されている現在、今後どうなるか不明であり、ここでそれを理想モデルとして持ち上げたいわけではない。だがはっきりしているのは、グローバル資本の加速度的展開により世界に蔓延する総貧困化、総プレカリアート化は、自分の目の前からただ追い出すべき恐怖ではなく(実際追い出すことなどできない)、これまで既に試みられてきた「新たな」展開を発見する機会でもあるということだ。それはまた、「大学はだれのものか」という問いを立てたとき、大学に来る前に選別されていく人々を、議論の出発点に据えることでもあるだろう。

門を硬く閉ざし、敷地とよばれる大学に一歩でも踏み入れれば、公安とともに文字どおり暴力で持って「厄介者」を必死で排除するという、恐怖に憑かれた滑稽な展開があるとしたら、恐怖を正面から受け止め、招き入れて、大学という空間を新たに創造するという未来もある。そして「大学はだれのものか」という問いかけで考えたいのは、まさしく後者である。貧困化と大学については、本号所収の村澤真保呂さんの「スラム化する大学」を熟読していただきたいが、大学とは空間であり、関係であり、そこでどのような集合性が生み出されるのか、どのような関係性が生成するのかということこそが、やはり問われなければならないのだ。あるいはそれは、本号所収の李珍景さんの「コミューンの構成における空間・機械の問題」にならって、大学という空間こそが持ちうる共同性といってもいいかもしれない。所有関係に規定されたメンバーシップではなく、誰がどのような形でこの空間に入り込むのか、誰がどのような空間を創造するのかということを、考えなければならないのである。またこうした共同性と空間に注目するなら、自治とは制度ではなく、空間創造の意である。そこには、労働組合、学生自治会といったこれまでの系譜もあるだろうが、こうした既存の制度がそのまま空間創造というわけではない。文字どおり制度を作り上げる運動として自治がある。自治や組合をふくめ、様々な運動を担う若い学生・院生たちが、いまこうした関係性をどのように作ろうとしているのかについては、冒頭の座談会を読んでほしい。

ところで注意すべきは、こうしたグローバルな資本の活動に対応する共通平面の広がりを根拠に、抵抗運動を一元化してはならないということだ。いま教育改革に対する抵抗運動は、世界規模で広がりを見せているのは確かだ。またこうした運動が、反グローバリズムや反貧困の運動と同様に、闘う共通の基盤を生み出しているのも重要だろう。だがそうであればこそ、これまでの運動との注意深い連携が求められることになる。所収のサミュエル・バナール(Xamuel Banales)のケレンミのある文章は、教育改革に対する「教育を守れという」運動が、既に教育から排除されている人々、あるいはこうした人々のこれまでの教育をめぐる闘いを消去する傾向にあることを、鋭く指弾している。それは、大学を論じる数多くの議論が、青砥恭さんが「学校は子どもを貧困から救えるか」で述べている子供たちを問題の外に追いやっていることと、ピッタリと重なるだろう。

あるいは、大学に限定されたことではないが、ネオリベあるいは格差社会や貧困に反対する運動の論理が、これまでの複数の運動の系譜を平板なものにしていくという問題は、やはりある。差別は貧困化の中で再定義されるのであり、また貧困化は差別の形をとって具現する。総プレカリアート化の中で拡大する非正規雇用の労働運動に、すべてを流し込み一元化するのではなく、複数の連携を丁寧に模索する努力が必要なのだろう。前述した、大学において学生や院生も巻き込みながら活動する小さな組合は、こうした試みでもあり、大学という空間が作り上げる集団性の意義も、こうしたもやいのような作業にあるといえるのではないか。

 

3大学解体?あるいはセンセイのお仕事

ここで、逃してはならない論点が浮上する。研究とは教育とは何かという問いである。大学はやはり会社や工場ではないのだ。資本家にかわり労働組合が権力を取ればいいとか、今の大学経営陣ではなく学生自治が大学を握ればいいという、主体の置きかえだけでは圧倒的に不十分だ。あるいは大学を守れ、基礎研究を守れという、いい部分と悪い部分を切り分けて前者を後者に対峙させる単純な構図では、「大学はだれのものか」という問いに応えたことにはならない。大学という場の固有性に密着した議論が、必要なのだ。

 

「我々が制度をトータルに否定した時、我々は言葉を失う。帝国主義的大学解体、ブルジョア大学解体と叫ぶことはできるが、肯定的なスローガンは持ちえない。我々の運動は、既存の体制、制度の告発でしかない。ブルジョア的学問の粉砕を叫び、近代主義的科学論をトータルに否定しようとする時、我々はいかなる方向にそれらを乗りこえたらよいかとまどう。革命的な学問、人民のための学問という言葉でもって対置することは容易ではあるが、未だ内実に乏しい。『反大学』ないし『批判的大学』という、我々がなんとか求めんとする方向も未だ空中楼閣にすぎない。」(「自主ゼミの思想-戦後知性を告発せよ。」『京大闘争』京大新聞社編京大全共闘協力、三一書房、一九六九年・・・傍点引用者)

 

いまはやりの六〇年代末を、過去の歴史として切り取るために上記の文章を引用したのではない。重要なのは、問題は確かに続いているということなのだ。そして今の状況は、かつて大学解体を叫んだ輩が、問題をごまかし先送りしながら、「失った言葉」を大学経営により補填しているという側面が、やはりある。どうしようもない連中がいるということだけならあえて言及する必要はないが、私にはそれが現在の大学が抱え込む典型的な症状のように思えてならない。経営合理化にいそしみ、非正規職員の首を切り、嬉々として学生を弾圧する連中のエクスキューズ、「本当は研究がしたいのだけれど」というあの言い回しは、研究において向き合うことができなかった空虚さが経営や管理への欲望において補填されていることの証左のように私には響く。先ほど大学と資本の新たな関係といったが、大学の資本への過剰なにじり寄りや連中の学生管理への執着は、経営破たんの恐怖や新たな大学と資本の関係というだけではないように思う。すべてではないが、この輩の大学管理への異常な欲望は、検討すべき論点なのであり、またその欲望は世代の問題ではなく、後続の若い輩にも模倣され続けている。

要するに、消去された上で置き換えられたセンセイの欲望は、これまで自省的に検討すべき出来事があったにもかかわらず、語られることなく消し去れることにより成立してきた大学という空間にかかわる問題だろう。そしてやはり忘れてならないのは、研究とは、教育とは何かという問いである。また大学解体を問うとしたら、過去の歴史や教訓ではなく、こうした今の大学の状況の中でもう一度「言葉を失う」必要があるのかもしれない。

 

「我々は、自主ゼミナールを開始した。/手さぐりの形ではあるが、すすめる他はない。我々は我々の想念を形に表した。制度的保証を何ら欲することのない<塾>の構築である。批判的に乗りこえられていくことを期待し、バリケードの中で闘う諸君の主体的加担を要請する。」(同)

 

「想念を形に」したこうした<塾>は、地域闘争とあいまって七〇年代を通じて多焦点的に拡大し、今も続いている。そして大学は、四〇年かけてこうした<塾>やそれを志した人々を、大学の空間の外へと追いやってきたのだ。大学に残る残党がどうしようもないのは、あたりまえかもしれない。そして今、経営破綻の恐怖の中で、すなわち大学解体の予感の中で、大学が外へと追いやってきた「想念」や<塾>のことを考えること、すなわち研究や教育に関わる真の意味での系譜を丁寧に見出し、空間を発見していく作業は、今、必要だと思う。またこうした作業は、近代自体の学知自身の系譜としても、検討しなければならないだろう。

ところで先ほど述べた大学経営に邁進し、学生管理を嬉々として行なうセンセイ方の欲望以外にも、気になることがある。それは最初にもすこしふれた、自分と自分たちを、あるいは場合によっては自分の所属する大学を、危機の中で生き残るべき勝ち組として思い込もうとするエリート主義であり権威主義である。またそれはやはり、ゆがんだ形での危機への恐怖であるだろう。

常勤教員の仕事を労働問題として明確にしていく作業は、今急務である。とりわけ労働法制に位置づけられた法人化以降の旧国立大学においてはそうだ。またこうした作業により、他の労働運動との連携も見出されるだろう。では、教員の仕事とは何か。例えば私が働く大学では、定期的に「教員基礎データ」という個人データ収集がウェッブ上で行なわれている。こうしたことは多くの大学でもなされているだろう。また、こうしたデータ収集の目的は明かにされていないが、これがいわゆる労働評価の基礎データであることはまちがいない。項目は論文、本などの以外には学会発表、国際シンポ報告、また学会などの役職の有無であり、外部資金の獲得、つまりどこかからお金を持ってくることも項目として入れられている。また最近では大学経営にかかわる役職の報告も求められるようになった。とりえずいえることは、こうした項目メニューが、センセイのお仕事なのだということだろう。しかし、学生や院生と長い時間話し込んだり、院生以外にも多くの人々と自主ゼミをしたり、また職員の人たちと共にシンポジウムをしたりすることは仕事ではないのか。あるいは機材を準備したり、コーヒーを沸かしたり、お菓子やワインをそろえたりすることはどうなのか。雑用と呼ばれる書類書きはどうなのか。毎日の自分の営みと照らし合わせて、このメニューはいかにも窮屈だ。

何がいいたいのかといえば、大学の中での営みは、どこかで仕事の上下関係に支配されているということだ。そして自分たちの仕事は限定された意味での研究(つまり論文を何本書くか)と大学管理そして研究費をとってくることと、センセイは徒党を組んできめこんでいるのではないか。あるいは、それ以外の仕事は、本来の仕事ではなく、事務や非正規職員、あるいはチーティング・アシスタントや非正規研究員にできるだけ振りたいと思っているのではないか。誤解のないようにいえば、今、具体的な仕事の分担方法を問題にしているのではない。その背後にあるセンセイ方の仕事への意識、あるいは自分たちこそ大学の中で重要だと思い込む意識を問題にしているのだ。

もちろんこうした意識は古くからある。ただ、大学経営ということが前面に押し出され、経営危機が恐れとして登場し、人々を一方向に向けさす問答無用の根拠となる中で、評価される仕事に自分の営みを限定しながら自分は勝ち組であると思い込みたいという歪んだエリート主義が、やはり、急速に蔓延しているのではないか。そしてこの五年余りの間に急激に広がった大学の非正規雇用の拡大の背後には、こうした差別感情とでもいうべき意識が醸成されているのではないか。ここでも、「本当は研究がしたいのだけれど」というエクスキューズが顔を出す。この種の人たちにとって、非正規職員は確かに必要であり、いなくなっては困るのだろう。だがその困り方は、家事を一切押付けて、会社こそが自分の本分だと思い続けているおやじが放り出された時の困り方と、似ていないこともない。大学という空間の共同性ということを考えるなら、もういちどセンセイの仕事とはなにかということからキッチリと始める必要があるのではないか。かかる意味でも、恐れられている危機は、好機なのかも知れない。

 

4大学の可能性

教員の仕事も含めて、大学という空間にかかわるすべての営みを、共同性の創出として考えてみたいと思う。もちろんそれは、最初に述べたグローバルな資本と教育改革の中で想定される危機への応答であり、そこには抵抗運動が含意されている。だが大学という空間にこだわるなら、「我々が制度をトータルに否定した時、我々は言葉を失う。帝国主義的大学解体、ブルジョア大学解体と叫ぶことはできるが、肯定的なスローガンは持ちえない」という失語を、ごまかしてはならないと思う。学生であれ、院生であれ、非常勤教員であれ、非正規職員であれ、常勤教職員であれ、地域住民であれ、それぞれがこの失語から再度関係を作り直す作業をおこない、大学という空間で自らが何を求め、何を欲するのか、「想念」をいかに形にするのか、ということから再度研究や教育が創出されるとしたら、大学はとても面白い場所になるに違いない。

たとえば先に述べた座談会も、単なるジャンルに分類された運動の解説や決表明ではなく、一人ひとりが何に苛立ち、何を欲しているのかが、それぞれの言葉で提示されているといえる。他にも本号では、たとえば久保田みおさんの「大学に共有の空間を作る」は、集団性を作り上げる技術(アート)としての大学のありようとしても受け止めることができるだろう。またそれは、今分断されている人々をつなげていく、もやいのような作業でも、やはりあるだろう。そしてがんらい学知とは、このような、もやい作業にかかわることではなかったのか。そして、この自らの欲望を何かに置き換えることなくきちんと言葉にすることほど、センセイと呼ばれる人々が苦手とすることはない。一番変わらなければならないのは、勝ち組だと思い込んでいるセンセイたちなのかもしれない。そして、そのことは、ある意味、戦後啓蒙や教養主義の問題でもあるだろう。

そして、大学が大学であり続ける最大の要点は、やはり学生である。それはかつてのような「層としての学生」いう均質な意味としてではなく、またよくいわれた高級労働力商品としてでも、もちろんない。経営危機の恐怖におののきながら一方方向に突き進む大学という制度が、最もないがしろにしている欲望の存在として、学生が存在しているのではないかという意味である。社会人予備軍にしろ研究者予備軍にしろ、こうした予備軍としての学生にとって、大学はその先のための道具でしかない。大学は自らの道具としての有用性のみを学生におしつけ、学生には予備軍であることが強要される。そして今危機の中で、道具としての有用性が、失われつつあるのだ。大学がどんなにとり繕うと、それは真実だろう。そしてこうした危機を前に、センセイたちのように勝ち組であろうとする、いや正確には勝ち組であることを確認したいと思う心性も、当然ながら学生の中に蔓延するだろう。また大学は、そこにつけ込み、確かに一定の満足が生まれるのだろう。

今こうした満足感を、否定しようというのではない。だがしかし、予備軍という名において隠されていた欲望は、やはり姿を表すのであり、それは言葉として紡がれ、「想念」は形となって大学の中にこれまでにない関係を生み出すだろう。若きフェリックス・ガタリが一九六四年に全国フランス学生共済組合で学生のノイローゼや精神衛生問題について、「この問題を検討する仕事は学生運動が担うべきである」と述べたことにならって、私も、この予備軍という足枷から解放された欲望を検討し集団性へとつなげていく作業は学生運動が担うべきである、と主張しよう(フェリックス・ガタリ「制度的治療法と学生社会における精神衛生問題に関する考察」『精神分析と横断性』杉村昌昭・毬藻充訳)。勝手なことをいうなと怒られるかもしれないが、学生が「思想を求め、論理を求めている主体の集まりであることを大学制度は、忘却している」(同)のだ。そしてこの主体の集まり(集団性)が、多様な形をとって現れ、大学外も含む複数の場と接合していくプロセスにこそ、大学の未来がある。またその多様な形をつなげていく方法として、李珍景さんのいう「コミュネット」は、とても魅力的な技術(アート)として検討できるのかもしれない。危機は、やはり好機なのだ。