火曜会通信(38)私の沖縄経験
私の沖縄経験
福本俊夫
2016年11月9日(水)
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以下は一年前に火曜会のメーリングリストへ参加した時の自己紹介文です。
2015/11/30 火曜会の皆様へ
最近、火曜会に参加させていただいている福本俊夫です。
富山センセイから自己紹介をせよというご指示がありましたので、自己紹介文を書きます。
1948年9月生まれで、現在67歳。松下竜一センセイのお亡くなりになった年齢と今一緒です。
36年前に印刷屋を開業し、これまで一人でオフセット印刷の仕事場を維持してきました。
コンピューターの時代となり、時代遅れのアナログのシステムのままですので仕事が減り、暇になりました。
自由になる時間が、少し出来ましたので参加できるようになりました。
これまで一人で仕事を続けてきましたので、対話するという場(空間)から離れていました。
学歴も高卒です。議論するということに不慣れで、また不十分な言葉しか持ち合わせていません。
いま、火曜会の方々の議論を聞かせていただくことがただただ楽しく、参加させていただいています。
たくさんご迷惑をお掛けしていると思いますが、厳しくご指導くだされば有り難いです。
よろしくお願いいたします。
1984年から沖縄戦1フィート運動の支援体として「沖縄を考える会」を作り動いてきました。
沖縄戦関係の映像資料はいろいろ保管しています。
その他、沖縄「日の丸」裁判公判資料、沖縄一坪反戦地主関係資料、岩波大江訴訟資料なども持っています。
貸出できます。ご利用ください。
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「私の沖縄体験」報告文へのコメント
私の欠点と指摘されている「傲慢な為人(ひととなり)とそして語り」をしないように心掛けて(伝わりやすい丁寧な言葉を選ぶようにし)2週間以上前に書き上げました私自身の報告文を再読してのコメントをしたいと思います。
私の沖縄体験とは何だったのか? それを若い火曜会の方々へどう伝えればいいのか? 正直に書けるだろうか? まず、読むに堪える文章が書けるのか? 不安な心を抱えたまま冨山センセイの紹介文をパソコンの画面に張出して書き始めました。
仕事で依頼された文章を編集することはあっても、これまであまり「文章を書く」という作業はしてきていませんので、うまく書くことより、沖縄での体験がわたしにもたらした私の「内面の変化」を正直に書くことを心掛けました。
読み直してみますと「チビチリガマ」や「下嶋哲郎さん」のことなどを何の説明もせずに書いていることに気が付きました。しかし、チビチリガマや下嶋さんのことは冨山センセイの「火曜会通信(23) 言葉の停留と始まり-「火曜会という構想(14)」の中に詳しく書かれていますので、その文章の参照していただくということで、今回はこれ以上の説明は省かせていただきます。
沖縄での出会った人、文化などその「豊かなモノ」は「けーし風」などの記事の添付や私が撮影した映像を見ていただくことで伝わると考えましたがどうだったでしょうか。
なぜ沖縄へ行くことになったのかを再考した時、主体的な行動ではなく、この旅もまた「依頼された旅」であったことに気が付きました。
主体性がなぜ持てないのか? 私にとって「依頼」とは何なのか?を考えた時、自己を肯定できず、宙ぶらりん感の中で過ごしていた高校生時代からの出発の始点を書かねばと思い、文章にしました。
現在68歳、思い返せば「依頼されたことに応えよう」としただけの単調な生き方をしてきたのだなあ~と実感しています。沖縄への旅もそうでした。正確ではないかもしれませんが、キェルケゴールの「人間とは自己に関係するところの関係である。」(「死に至る病」より)という言葉に出会い、「関係」という言葉を手掛かりにして、彷徨い躓きながら生きてきたように思います。
人との出会いの中で私への「依頼」は私にとってはかけがえのない喜びでした。何ものでもない「私」が何ものかとして生きる「意味」、生かされてある「意味」として、「依頼」されることは喜びだったのです。
沖縄への旅はさまざまな困難が待ち受ける大きな「依頼」でした。しかし、「日の丸」裁判の8年にわたる旅とその後の沖縄への旅はいろいろな人との出会い=「関係」を私にプレゼントしてくれました。
裁判の被告の知花昌一さんとその家族、村の平和のための読谷村実行委員会の仲間たち、・・・そしてまた、東京在住の絵本作家、下嶋哲郎さんとの出会いもそうした中にありました。チビチリガマでの「集団自決」からの生存者の方々への取材や伊江島の阿波根昌鴻さんへのインタビューの旅や戦後すぐにハワイの沖縄の人々が故郷復興のためにアメリカから送った豚のことの聞き取りの旅など、「日の丸」裁判で出会って親しくなった下嶋さんの運転するレンタカーで沖縄中を取材に同行させて頂いて走り回ったことが懐かしく思い出されます。
1980年代後半から1990年代中頃までの沖縄を駆け巡っていたのです。1980年代の沖縄を「平和運動の底」(低迷期?)と表現された方がおられました。大きな団体が取り組んだ運動としてはそうだったかもしれませんが、沖縄の人々の存在、その暮らしは大きな団体の運動史の枠のなかにあるわけではありません。民衆一人一人の闘いとその暮らしは「〇〇年代」という枠を超えて・・・過去から現在へと連続して繋がっています。
沖縄への旅は、沖縄の友人と共に今この時を生きている、あったこととしてあり続けるだろうものの中を、「真っ只中を生きている」という強い感覚がありました。
しかし、「日の丸」裁判の終わりはヤリキッタ感と共に、なぜか空虚な感じが襲ってきました。「依頼」されたことが終われば、また私は空っぽのままなのでした。
丸木さんに描いて戴いた「丸木美術館のシンボルマークである鳩の絵」に「命どう宝」と字も添え書きしていただきましたが、命を宝として生きる生き様からは遠い暮らしをしている私が一人残されていたのでした。
沖縄通いしていた間に一緒に暮らしていた(子猫の時に路地の入り口に捨てられていた)猫も死んでしまいました。空っぽな気持ち、さみしさを抱えて暮らしていたときに、猫が化けて帰ってきたのかと思う出会いがありました。いなくなった猫の代わり・・ではないですが、この人と一緒に新しい生き方をしてみたい、もっと自分にも人(他者)にもやさしく(存在(肉体)への違和感(復讐心)を捨てそのままに肯定する)、力を合わせて命を育む暮らしをしてみたいと願う私がうまれていました。これが、それまで家庭や子育てなど自分とは無縁と考えていた世界を生きることが出来る機会を与えてくれた人との「出会い」でした。
44歳で結婚し現在68歳。子どもも2人授かりました。しかし、子育ても終わりました。仕事も暇になりました。こうして火曜会にお邪魔するようになりました・・・・・。(最初に戻ってしまいました)
いま長女のみなみさんが琉球大学の法文学部に入学し(現在3回生)大学の寮で暮らしています。私は沖縄との繋がりは「依頼された任」を果たし、終わったと思っていたのですが、予想もしない形で新たな沖縄との繋がりが出来ました。
私の説明力の無さを補えるかなと、みなみさんからもらった2年前の手紙(メール)を借用させてもらいました。大学の「基地と戦跡」(教官:北上田源さん)というゼミで「身近な人に手紙を書く」というテーマがあり、私に対して以前から思っていた疑問を書いて手紙をくれたようでした。子育てが終わり、親と子ではなく「対等な人として対話をする」という時が来たことを実感しました。
「私には対話力がない。他者の意見を聞かない傲慢な人間である。」などの欠点を抱えた人間である事の自覚はあるのですが、今のままでは、「対話」など私の能力では「夢のまた夢」だなあ~、さて?どうしようか?と焦っていたときに、火曜会という議論の場があることを知り、対話(議論)が出来る人になりたいと、厚かましくもお邪魔するようになったのでした。(また、最初に戻ってしまいました)・・・・・・・・・・・・
本日の議論の為に前もってメールで配布しました私の文章「私の沖縄体験」は宿題(報告文としての)の課題をクリアしているのかどうか分かりませんが、堂々巡りになってきましたので、以上で「私の沖縄体験―まだ終わらない旅?―」へのコメントを終わります。
以上の文は当日コピー作り、配布しましたコメントです。
報告会の当日は私が事前にメールで流した文章への参加者の皆さんからのコメントを頂きました。
記憶している参加者の皆さんからの質問や感想を書きだします。
●「鯉」ではなく、なぜ「飛び魚」なのか?
●断った「依頼」はあるのか?
●「空っぽな私」とは・・・
●農民芸術概論綱要は理解できない。
●突然「福本さん」と語りが変わるのはなぜ?
●むすめさんとのメールの返事がズレている。
●交流会で酔った福本さんが沖縄のことをいっぱい語り出すが、早口で半分も聞き取れない。
語りたい体験があるということは分かった。
●沖縄に「巻き込まれる」という体験
●「私の沖縄体験」というこの文章は想定した依頼の予想外のものだった。
●なぜ突然第三者の事を語りだすのか、その理由が分かった。
皆さんからの質問に私が当日答えた発言内容を今ここで再録するのではなく、じっくりと自分のなかに抱え込んで考えてゆきたいと思います。メールで配布した文章は沖縄にいるむすめにも送ったところ、一年前に送った本「安心貧乏生活」の感想文が送られてきました。読んで思わず涙してしまいました。文の最後に「あと転載禁止でお願いします。」とありましたので、転載できません。
今回の「私の沖縄体験」を書くという課題は、私自身の有様を振り返り把握する機会となりました。
感謝しています。ありがとうございました。