火曜会

火曜会は、言葉が帯びる身体性を押し隠すのではなく、それを多焦点的に押し広げることこそが研究行為ではないか考えています。また研究分野の境界は、分野の前提を再度議論する中で、連結器になるとも考えています。

火曜会通信(39)マンガをよむという経験

 

「マンガをよむという経験」(2016年11月16日)

手嶋彩世子

 

2016年11月24日の火曜会で、修士論文のテーマである「マンガをよむ経験」について報告をしました。

冨山先生、福本さんについで、今期三人目の報告でした。前回、前々回と同様に、事前に文章をメーリングリストにて共有し、当日はそれにかんする質問やコメントを一人ずつ出し、報告者がコメントを受けて話をし、もういちど全体で話をする形で議論がなされました。

本報告では、マンガ『風の谷のナウシカ』をよむ経験について、いくつかの記述から読みとろうとしました。

「わからない」という声を何人かの人からいただきました。その「わからなさ」が、自分の説明に足りないものをかんがえるうえでとても大切な課題としてあるようです。問題意識において、「じゃあ、それがなぜ問題なの?」という大切な部分をしめさないままにしておくことが、伝わらなさにも、自分が書けないことにもつながっているとおもいました。コメントにあったように、よみを「現実と重ねる」こと、「分析をする意味」という言葉について、もっと考えて書いてみたいです。それは、自分のいう「『ナウシカ』が現実を再構成すること」を説明するために必要なことと思います。

今回も、実際にマンガ『ナウシカ』を提示することをせずに、よんだ記述を資料としてみました。そうすると、『ナウシカ』じたいをしらないとか、興味がないという人もいるわけで、その人たちがどのように話してくれるのか、という思いもありました。それは一方で、『ナウシカ』にある二つのバージョン:マンガとアニメ、そして作品と作者が、読みの領域において分かちがたく結びついていることを再確認させました。しかし他方では、マンガというテクストを丁寧に扱わないこと、作品と向き合い、自分がひらくことを避けていることが、どこかで議論のおもしろさを削ぎ、抽象的にせざるをえないということもあらためて感じさせました。

議論を通じて、マンガというものを言葉の領域であれこれいうことのややこしさをあらためてかんじます。それは、マンガのもつ領域(絵や物語や媒体)の複雑さであるとともに、読みのもつ複雑さでもあるかもしれません。このややこしさを放り出さないためにも、まさに「コマにかえる」ということだとおもうのですが、いま一度、マンガを丁寧に感じとりながら書いてみたら、どのように読まれるでしょうか。それは単純にマンガの表現論をやればいいということでもないはずです。文学批評の延長として語りきれないという指摘がある一方で、やはりその土台からいただいたコメントが、論の進め方に示唆をあたえてくれる場面も多くありました。

反省ばかりになってしまいますが、最後に、いただいたコメントや質問、論点のひとつひとつについてきちんと話しきれなかったことが一番の心残りです。すみません。

報告させてもらう機会をくださり、また、議論をしていただいて、本当にありがとうございました。