火曜会

火曜会は、言葉が帯びる身体性を押し隠すのではなく、それを多焦点的に押し広げることこそが研究行為ではないか考えています。また研究分野の境界は、分野の前提を再度議論する中で、連結器になるとも考えています。

火曜会通信(41)阿波根昌鴻の言葉から考える<戦争の傷>

 

阿波根昌鴻の言葉から考える<戦争の傷>(2016年12月14日)

岡本直美

 

今回は、「阿波根昌鴻の言葉から考える<戦争の傷>」というタイトルのペーパーをもとに、火曜会のみなさまと議論ができたことに感謝いたします。

私は、沖縄県伊江島で反戦平和運動を実践した阿波根昌鴻(あはごん・しょうこう)という人物を出発点として、沖縄の人びとの歴史経験を考える作業をしています。阿波根は米軍基地に関わる土地闘争の文脈において注目される人物です。特に1950年代沖縄での米軍による強制的な土地接収は「銃剣とブルドーザー」と表現され、阿波根を含めた伊江島の地主たちの闘いが土地闘争の文脈で注目されるのは、その「非暴力的」とされる闘争方法のためです。米軍によって住居を破壊された農民たちは、テント幕舎に収用され劣悪な生活環境を強いられるなかで、琉球政府や米民政府(USCAR)に陳情や折衝を繰り返しました。その過程で、米軍への態度を共通方針として具体的に定めた「陳情規定」や、沖縄県内や本土に向けて自らの実情を晒した「乞食行進」といった独自の方法を生み出し、米軍に抵抗しました[1]。また、阿波根は土地闘争と併せて、社会科学の学習活動や福祉・生協活動をしました。それらを通してあらゆる場所と関わることで、平和の実践を試み続けました。晩年は伊江島に「わびあいの里」を建設して、そこに反戦平和資料館(「ヌチドゥタカラの家」)や平和活動の拠点(「やすらぎの家」)をつくり、戦争のない日常を希求し続けました。

 

阿波根は、沖縄戦における一人息子の死こそが、自身が戦後の人生を平和運動に捧げた動機であると述べています[2]。また、伊江島では土地闘争の経験のなかで、人びとの経験が言葉にされていきました。かれらは、戦前の徴兵忌避の経験を語り、生活改善の経験を語り、沖縄戦の経験を語りました。必ずしもそれまでは明かされなかった各自の経験が、土地闘争を契機に言葉になるのはどういうことなのだろう、という疑問が私の中で浮かんできました。伊江島の「非暴力的」な闘争方法は、確かに戦後の土地闘争の過程で具現化されました。しかしながら、かれらの言葉が出てくる様子から考えると、沖縄戦以前の経験の蓄積が、戦後の土地闘争で抵抗する動機ともなっていたのです。そうであるならば、かれらは米軍基地の反対を訴えることで、何に抗していたのかを考えてみたいと思いました。「戦争に反対」というかれらの言葉に、どのような経験が込められているのか、かれらにとって「戦争」とは何か、知りたいと強く感じました。

 

前提が長くなってしまいましたが、このような問題関心をもって、まずは阿波根の言葉から<戦争の傷>を考えることにしました。まとまらない論点を無理に絞って、今回は3つの視点を提示しました(①戦時動員の経験、②「アメリカ様々」という意識、③見出される「無学」の人びと)。

まず、【①戦時動員の経験】では、「戦争に抗いもしなかった」[3]阿波根の経験から<戦争の傷>をみようとしました。自分たちの生活空間そのものに軍隊が覆いかぶさってくるような状況下で、戦争への抗いを表現することも許されなかったがゆえに、「抗いもしなかった」経験は阿波根にとってどのような<傷>となったのか。また、「信じる」という主体性をもつような自動詞を、「無理に信じ込む」と強制力を伴って使用したことから何がみえてくるのか。その語法には、外部から信じ込まされるという強制力に加えて、自身が自身に無理を強いたということが表われているのではないだろうか。このような自分自身の行動ゆえ、それは<戦争の傷>となったのではないか、と考えようとしました。

そして、【②「アメリカ様々」という経験】では、アメリカ軍によって日本軍から解放され、これでもう戦争に巻き込まれない、動員されることがないという意味が「アメリカ様々」という言葉に込められていることを提示しました。戦場や収容先で米軍の行動を知っているはずの人びとが、手放しにアメリカを信じていたわけではないでしょう。日本軍に戦時動員で巻き込まれた経験があるからこそ、アメリカが自分たちに平和な生活をもたらす存在であると信じたいという願望が「信じていました」という言葉に込められていたのではないかと思いました。つまり、米軍の暴力の可能性を感知しつつも、別の可能性をもつものであってほしいという願いが、アメリカに託されていたのではないかと。それは、アメリカを救世主であると人びとが考えたというような短絡的な意味ではなく、何か別の可能性を「アメリカ」という言葉に託そうとしたことを私は表現しようとしました。戦後の土地接収によって生活の場を奪われた人びとは、この信頼(願い)が裏切られる経験を闘争のなかで蓄積していきました。このようにアメリカの支配を受けとめようとしたときの意識のあり方自体が<戦争の傷>の一つの現れなのではないかと思いました。

さいごに【③見出される「無学」の人びと】では、上記のように信じては裏切られたという経験を通して、阿波根が「無学の人々」、「無学の農民」という存在を見出したことを扱いました。阿波根は、戦場で人びとが生へと向う行動を取ったことについて、「無学の人々」という言葉を用いて表現しています。阿波根が沖縄戦を振り返るなかで見出した「無学の人々」は、当時の阿波根自身とは異なる存在であったとかれ自身は述べています。それは、抗うことを許されない戦時下で生きのびようとした人びとであり、当時の阿波根にはできなかったことをした人びとであったと。ここでの「無学」は、学校教育を受けたかどうかという文字通りの学歴を指針とした「無学」でもありません。「無学の人々」は、<戦争の傷>を、ある可能性に転換するかもしれない人びとであり、阿波根がなろうとした人びとでありました。阿波根は、壕の中で囚われていた自分とは何かと振り返るなかで、その自分とは異なる存在を「無学の」という形容詞で表現しようとしました。阿波根にとって「無学の人々」を見出すことは、壕のなかで日本軍と運命を共にすると諦め、生に執着しないと信じ込もうとした自分からの解放でもあったのではないかと考えました。また、戦後の土地接収に抗った経験を語るときにも、阿波根は「無学」という言葉を用いています。そのときに阿波根が強く意識したのは、かつて徴兵忌避をした人びとの存在でした。戦場で見出した「無学の人々」と、土地闘争で見出した「無学の農民」を阿波根はどこかで重ね合わせているように感じます。この「無学」という言葉に阿波根が込めようとした想いと、<戦争の傷>との関わりを考えようとしました。

今回はペーパーに加えて、阿波根の妻の証言も資料として配布しました。抵抗者の象徴として捉えられがちな阿波根ですが、かれの生活を支えた妻の言葉から沖縄戦を振り返ることも重要だと思い、共有しました。

 

火曜会での議論では、みなさまから多角的な意見をいただきました。例えば、「抗わなかった」「信じていた」という言葉で私自身が何を表現しようとしたのか。抗おうとして抗えない経験を「抗わなかった」と言えるのか。また、阿波根の言葉は自身の経験を話しながらも他人の経験を発見している言葉でもあるのではないか。さらに、阿波根自身のスパイ容疑を受けた経験をどう考えるのか。沖縄戦の語りの中で関東大震災の経験が出てくることと、戦争の記憶とにどのような関係があるのだろうか。沖縄北部の本部における沖縄戦の経験と重ねて考察することの重要性など、とても重層的な示唆を与えていただきました。みなさまからの豊かな応答を消化しきれていませんが、とても刺激的な時間でした。

 

約束の日までにあらかじめペーパーを配布することができず、ご迷惑をおかけして申し訳ございませんでした。今期より、火曜会ではディスカッション・ペーパーを事前に共有しての議論が試みられることになりました。これは、必ずしも報告者の言葉で書かれたペーパーである必要はないので、私は最初、阿波根昌鴻が「戦争」について語る資料を数点みなさんと読んでみたいと考えていました。しかしながら、私自身が阿波根の言葉を読み取る際に抱える問題を議論するには、かれの経験や、かれの言葉の持つ独特な重層性・複雑性をある程度共有する必要があると思い直し、<戦争の傷>を考えるペーパーを準備しました。それは、今回の議論でも指摘のあった、「“抵抗者の象徴としての阿波根昌鴻の定型”を支えているものは何か」ということを問うこととも関連すると思います。議論では「報告者に阿波根が乗りうつったような記述」や「報告者が断定的な言葉で書いてある箇所に、報告者の確信があるのではないか」とのご指摘から、私自身が半ば無意識に書いている記述に、まだ言語化されていない予感的なものがある可能性を教えていただきました。今回も貴重な議論の機会を、ありがとうございました。

 

[1]鹿野政直は伊江島の非暴力的な闘争方法を「より正確には、暴力以外のすべての手段を駆使しての闘い」であると述べている。(鹿野政直「阿波根昌鴻―『命どぅ宝』への闘い」テッサ・モーリス-スズキ編『ひとびとの精神史第2巻 朝鮮の戦争―1950年代』岩波書店、2015年所収、110頁)

[2]『命こそ宝―沖縄反戦の心』岩波書店、1992年、66頁。

[3]鹿野政直、前掲書、106頁。鹿野は「しかもその戦争に抗いもしなかったという想いが、阿波根を締めつけていったに違いない」と述べているが、これまで阿波根の軌跡を丁寧に調査している鹿野があえてこのような表現をしている点についても、今後考える必要がある。火曜会の議論では、鹿野自身の戦争経験とも重ねて考察することの重要性も提起された。