火曜会通信(43)「田口卯吉における人種論の展開」について
「田口卯吉における人種論の展開」について
李 凱航
今回の発表テーマは「田口卯吉における人種論の展開:内地雑居論から黄禍論まで」である。議論において、みなさんからたくさんの示唆とヒントを頂いた。
以下、発表の内容を要約してから、皆さんの意見をまとめる。
田口卯吉とは、明治期に生涯を送った自由主義論者と文明史論者として名高かった人物である。彼の人種論については、先行研究は日露戦争期における田口の「日本人種アーリア人種起源説」だけを注目し、彼の人種起源論をその学問(言語学・歴史学・経済学)の興味として扱われてきた。今回の発表は田口の生涯的なスパンを取り、彼の人種論の展開過程に着目する。まず、若き田口の歴史学として名著である『日本開化小史』の人種意識の希薄の状況を、同時期の「自由主義経済論」を田口の思想根底になされている政治論「内地雑居論」に提示されている人種間の平等意識に起因することを明らかにする。その後、焦点を一八九〇年の田口の南洋行の経験にあてて、南洋に向かった田口の航跡を追いながら、彼の殖民論と南洋論との関わりを検討することで、南洋土人に対する差別意識と彼自身の人種意識を明らかにする。この時期にこそ、彼の人種間「平等的」から「競争的」関係へと転換することとして示す。最後に、日清戦争前後の田口の対清認識を検討することで、田口の大陸領土に対する野心を究明する。具体的にいえば、田口の日本人種起源論を三つの段階、各時期の政治的状況にそくして言えば、朝鮮半島の拡張を目指する「日鮮同祖論」、中国東北地方領土割譲を提案する「日本人種匈奴起源説」、そして黄禍論という外交圧力下に生じた「日本人種アーリア人種起源説」に分けられる。それらを通して、田口の人種論の射程と、大日本帝国膨張の軌道との内在的関係性を明らかにする。
以上の内容について、いろいろな意見を交わしたが、まとめて言えば、(1)思想史の書き方、(2)、田口卯吉の多面性、(3)人種というメタファーの役割という三つのことに分けられる。
まず、「思想史の書き方」についてである。従来、思想史は、ある人物の思想の展開過程を対象とするものと同時代におけるある思想と関係する言論対する分析を対象とするものとがある。今回の発表の形式は前者をとった。つまり、田口の生涯的人種論の展開過程を重点に置いて考察した。しかし、このような書き方は、田口の「人種」認識の転換過程を究明することができる一方、田口の思想の重層性には、「人種」だけをピックアップする恐れも指摘することができる。そのゆえ、思想の連関性を無意識的に破壊した。「微妙が大事だ」と、冨山先生が強調するように、思想史のなかに、不自然なところにこそ注意を払わなければならない。しかし、今回の発表には、ピックアップという書き方で田口の人種論の不都合のところを巧みに避けた。
次は、田口の多面性についてである。周知の如き、田口は単なる歴史家だけではなく、人類学家や考古学家でもある。彼は、日本自由主義の代表的な経済学者であり、同時に企業家、実業家、経営者であった(両毛鉄道、東京株式取引所)。ジャーナリストであり雑誌経営者(『東京経済雑誌』『史海』)でもあった。加えて、田口は東京府会、東京市会また衆議院にもそれぞれ議席を有していた。冨山先生は「乱反射を引き起こす多面体のような人」として田口を捉えた。しかし、今回の発表では、田口の経歴の複雑性を留意したが、彼の思想の複雑性を十分に究明することはできなかった。例えば、南洋行という説に、田口の「人種論」と彼の自由貿易思想との関係性を、より深められると言われた。
最後は「人種」という言葉の意味についてである。「文明開化」という時代に生きてきた明治人は、いろいろな西洋文化の衝撃に直面した。いろいろな西洋の概念も、日本に土着化させなければならない。田口が言う「人種」という言葉は、西洋社会における「Race」と一致するのか、を問題とする必要がある。もしかしたら、田口は「人種」という言葉を借りって語られた世界像をも提示したという可能性もあるだろう。つまり、人種は言葉自体の問題ではなく、認識の道具であるかもしれない。そうであれば、田口の人種論だけを論じ、彼を帝国主義者と断罪するのではなく、より周到な吟味が求められると思われる。
以上に指摘された問題は、研究課題の視野の広さと深さにも大変役に立つと思う。これから、上記の問題点を念頭に置きながら、論文をもう一回を考えていきたいと思う。
各席上でご指導頂いた方々、特に冨山一郎先生の指摘について、心より感謝申し上げる。
2017年05月18日