火曜会

火曜会は、言葉が帯びる身体性を押し隠すのではなく、それを多焦点的に押し広げることこそが研究行為ではないか考えています。また研究分野の境界は、分野の前提を再度議論する中で、連結器になるとも考えています。

火曜会通信(44)関係性としての知

「その場をどうにかしようとするときに生じる問題」

-「関係性としての知」、議論の場を借りて-

鄭柚鎮

 

2017年5月17日の火曜会は、これまでとは異なる「5人報告・担当」という破格の場であった。その点に連動していたのだろうか、普段とは異なり、時間に対する緊張感が終始拭えなかった。

しかし、あとになってふりかえしてみると、破格ということのポイントは、報告者の人数のことというより、既存の規範や前提にどう接近すればよいのだろうかといった、先行研究にかかわる型破り、その破り方にあったのではなかろうかという気がする。

報告者のひとりであった私をふくめそれぞれの担当者は、「歴史」や「研究」の語り方、あるいは「知」のあり方に拘っていたようにおもう。それは、ある正解を求めるというより、これまで自明なこととされてきた知の基盤たるものに対しての、自らの違和や疑問を言葉にしようとする、ある構えの表明であったというふうにも言えるかもしれない。

かかる営みは「これまでこういう研究は無かった、だから意義がある」という埋め合わせ的なアプローチでなければ、「こういう捉え方こそ正しい」という更なる正しさを正しく解説する方式とは全く無縁な作業であるだろう。

ある意味、話は逆であったかのように思える。「有」対「無」でなければ、「正しさ」対「非正しさ」でもなく、その構図自体が何だったのかを問いかけ煩悶しつづけるのである。それは型破りにともなう-必然的ともいうべき-「苦」・「痛」、当たり前のことであるかのように扱われてきた事柄に亀裂が発生するさいの痛みのような感覚であったかもしれない。

「関係性としての知。それを他者と私の関係における知と考えたとき、私と炭坑の女性たちの関係は、ないと言えばない。しかし闘争や労働の場が、自分が求める解放とは全的に一致しないにも関わらず、その場をどうにかしようとするときに生じる問題は、いま自分が生きている時間においても繰り返され続けている普遍的なテーマだとも言えるだろう」と、庄子響子があぶりだしているように、議論されつづけたのは、一貫して「その場をどうにかしようとするときに生じる問題」の方に絞られていたようにおもう。

そのとき「生じる問題」にどう立ち向かうかという、知の身体性、その構えこそが、俎上にのせられていたのである。

私にとって、2017年5月17日、京都・同志社で行われた火曜会は、状況的で局所的な知のありかたに拘りつつ、敏感に書きとどめようとするさいに浮かび上がる世界への期待感や、事後ということの現在性が問われ続けた、知の感受性にあふれる、またそれにかかわる疲労感に満ちた時空であった。

言葉をかわすという体験、冨山一郎のいう「身体レッスン」、肉体に刻みこまれていく痕跡こそが論点であるということに、知というものの動詞性、議論するという過程性に、改めて考えさせられた。それは「集団性としての知」をどこまで想像できるかどうかという問いでもあるだろう。

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Bodies that Matterを「問題なのは身体だ」という訳から「問題=物質となる身体」へ書き直した竹村和子さん、書き直したのを「わざわざ」文章に残した彼女に、無性に会いたくなってきた(先週土曜日ディスカッション・ペーパーを提出するときとは、また違う感覚の猛烈さがやってくる)。

だが、この「無性に」という副詞、または「会いたい」という動詞形形容詞と同様(いやもっと重要であるかもしれない)、やはり問われているのは言葉が遺されているという、ある進行形の状況であろう、と、言い聞かせなぐさめてみる。(2017年5月22日)