火曜会

火曜会は、言葉が帯びる身体性を押し隠すのではなく、それを多焦点的に押し広げることこそが研究行為ではないか考えています。また研究分野の境界は、分野の前提を再度議論する中で、連結器になるとも考えています。

火曜会通信(46)花森安治を読む

火曜会をおえて

花森安治を読むー戦後日本の「暮らしを守る思想について」(2017年6月7日開催)

西川和樹

 

今回の文章は、自分で書いていてもどちらの方向に向かうのか、つかみ難い文章でした。書き始めた当初は、花森安治の文章と『暮しの手帖』を読みながら、戦後の「暮しを守る思想」の一端をたどろうとしていたのが、話は逆に戦争の時代の方へと進んでいき、戦時動員における「生活」の問題へとたどりつきました。また、鶴見俊輔の文章に「家の神」というものがあって、「暮しを守る思想」に関連させながら参照しようと読んでいたところ、途中で「転向論」の方に注意を引かれ、これも「暮しの転向論」という主題にたどりつきました。文章の流れが自分の手から離れていく感覚は、いままであまり経験したことのないことで、それは興味深くもあり、苦しくもある時間でした。

こうしたことが起こるのも「暮し」がたどる勝手さに、まだ自分が追いつけていないからかもしれません。ディスカッションペーパーのなかにも少し書きましたが、「暮し」という領域、特に台所にはそれ独自の勝手さがあって、その勝手さをどのようにたどればよいのかという問いにぶつかっています。今回の火曜会の議論のなかでも、「暮し」が「美しさ」という側面と結びつくという問題、暮しがいつも「守る」という姿勢のうちに語られること、「暮し」/「生活」の言葉遣いの違いなど、「暮し」や「生活」の領域から引き出される様々な論点が浮かび上がりました。

そうした勝手さは議論のなかにもあらわれます。「暮し」をテーマにして文章を書き、それをもとに議論を重ねるうちに、みなそれぞれ暮しを持っているのだという、当たり前とも言えることが、少しずつ興味深く思えてきました。今回の議論のなかにも、「一生懸命暮らすことが大切と言われるときの、一生懸命さがいや」、「まずいみそ汁がでてくるはずがない」、「料理はしないよりはする方がよい。でも・・・」、「外食が続くと自分の変化に気づきにくい」など、自分の「生活」に根差した言葉がそれぞれ「勝手な」方向からやってきました。面白いと思うのは、みなが「暮し」や「生活」を持っていて、それらについて語りながらも、これらの言葉に託して語られることの内実や態度がそれぞればらばらだということです。

こうしたことは、視点をより社会的なものに移した場合にも、同じことが言えるかもしれません。「暮しを守る」「生活を守る」という言葉は、これまで様々な場で言われてきたけれども、その時に言われる「暮し」や「生活」は、例えば軍事基地のない風景だったり、環境汚染のない町のことだったり、あるいはコーヒーを飲む毎朝の習慣のことなど、とても大きな意味の広がりのなかで語られてきたものであるはずです。

その大きな広がりのなかには何があるのか。ひとつの言葉、ここでは「暮し」や「生活」という言葉が、それ自身を膨張させながら、他の様々な言葉や出来事を含みこむようになること。「暮し/生活は~だ」というときの「~」が際限なく広がっていく瞬間に見える世界があるとすれば、いまようやくその存在に気づき始めたばかりなのかもしれない。その広がりに途方に暮れながらも、もう少し考えたいと思っている。