火曜会

火曜会は、言葉が帯びる身体性を押し隠すのではなく、それを多焦点的に押し広げることこそが研究行為ではないか考えています。また研究分野の境界は、分野の前提を再度議論する中で、連結器になるとも考えています。

火曜会通信(49)「銃剣とブルドーザー」を考える

 

「銃剣とブルドーザー」を考える―伊江島の「宣言」がつくり続けた言葉の在処―

(6月21日報告)

岡本直美

 

今回の火曜会では、上記タイトルのもと、占領期の沖縄県伊江島で、米軍による土地接収を経験した人びとが、どのような言葉の空間をつくり続けたのかということを、みなさまと議論しました。当時起こった出来事の一つ一つが伊江島の人びとの言葉を構成する根拠として重要であることは痛感しているものの、ディスカッションペーパーに「まとめる」うえで、限定的な側面しか提示できていませでした。しかしながら、火曜会のみなさまから、とても多様で重層的なコメントをいただけたことで、伊江島の人びとの行動を考察することの重要性を再確認することができました。ありがとうございます。(それらをどのように「論述」するのか、ということは、果てしなく大きな課題ですが)。

繰り返しますが、当日出されたコメントのどれもが核心的なものであることを承知しつつ、ここでは現時点で言及できそうなことだけ、記します。

 

【「座込み」という行為について】

議論の中で、なぜ伊江島の人びとが「座込み」という方法を取ったのか、という疑問が出されました。さらに付言すれば、「座込み」という、自らを物体化するような行動が、なぜ“言葉の在処”ということに関わるのか、ということでもあったと思います。そのような疑問に応答する際に、わたしは「伊江島の人びとは、座り込みという戦術を意識して行動したというよりは、統治者からの回答を待つための行為(回答を得られるまでは島に帰れないという粘り)として、結果的に座り込んだようです」と言いました。

改めて考えてみると、伊江島の陳情者たちの「座込み」は、統治者が伊江島の問題に向き合わざるをえない空間を陳情者自身が設定する行動でありました。それは、これまでの折衝経験のなかで、自分たちが苦労して書いた陳情文が琉球政府の役人の引き出しに入れられたまま放置されていたことを目の当たりにしたり、USCAR高官との会談中に米人の書記係が「ほとんど白紙で、農民の訴えを全然書いていないのにおどろいた」りした経験が前提にありました。

当時の陳情団代表は「自分たちは座っているのではなく、座らされているのです」と、表現しています。座り込みに至った経緯を説明したものとして、例えば以下の言葉があります。

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「(…)生活補償がない今日立退きに承諾がなされないままに、軍隊による強制立退きをさせられた真謝区民は直ちに生活に困窮するので、その暫定措置による生活補償がなされなければならないのであるが、政府はこれに対し十分なる考慮をするからと申されたが、我々は過去における考慮が実現されなかった苦い経験からして信がおけなくなり政府の具体的案の確定するまでは主席室の前を離れるわけにはいかなかったのであります。」

 

「われわれはセメントの上にも座らねば解決は早くならない。どうせ二十円ソコソコではタバコ一個とお茶しかなく生きて行けないので座っていれば解決は早くなる。事実きのうも座込んだためフライマス連絡官と話合うことができ実情を訴えることができた。」

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つまり、伊江島の人びとが座り込みという行動をとったのは、生活補償に関する確答をその場で待つためでした。伊江島で農地や住居を破壊されてテント幕舎に収容され、現在の食料も確保できない人びとを背負っている陳情員は、そのまま帰島することができなかったのです。そしてそれは結果的に「座込み」になりました。最初は確答を得られるまで“その場に居続ける”という行為だったのですが、居続けることで、統治者が陳情者と言葉を交わさなければならない(折衝しなければならない)言葉の空間をつくり出すのだ、ということを伊江島の陳情者たちは発見したのです。「座込み」は、“居続ける”ことと“統治者と言葉を交わす空間をつくり出す”ということが接続した行為だったのではないでしょうか。

米軍からの指示で琉球政府主席室前から追い出された人びとは、政府庁舎の玄関前に座り込み、再び排除され、「座込み」の場所は路上になりました。陳情者たちが路上に出されたことで、統治者のみならず、道行く人びとの目にも、伊江島の陳情者の姿が晒されるようになりました。

 

【乞食になること―“何者でもない者”になること―】

路上でプラカードを掲げながら陳情を続けるなかで、陳情者たちと繋がる人びとが出てきました。かれらは、陳情員に砂糖水を届けたり、古新聞を持って来ました。また、「市場の米売り婆さん」たちから貰い集めたお粥を届けました。かれらは、なぜ慰労物資を運んできたのでしょうか。市場のおばあさんたちはなぜ、お米を提供してくれたのでしょうか。かれらは、少年時代に奉公を経験した人であり、市場のおばあさんでした。かれらは、いったい「誰」なのでしょうか。

統治者への陳情だけでは自分たちの要求する恒久補償をのぞめない。また、伊江島の被接収者への食料援助に関して、「せめて臨時措置として生活保護法に準じた食糧援助を」という話が、「伊江島の被接収者は、生活保護法を適用させる資格があるか」という話へとすり替わっていきます。そのような現状に「我々は被救済者ではない」と、伊江島の被接収者たちは「乞食になる」という宣言をしました。これをどのような宣言として読むことができるのでしょうか。

かれらが乞食になったのは、ある面では「伊江島」の集団としてまとまることが困難な時期においてでした。当初は2つの区で接収された話が、米軍の変更によって真謝区のみの問題になりました。また、接収地に建てられた柵(フェンス)をめぐって、米軍から発行された通行証を受理するのであれば1週間のうち決められた日にだけ農耕しても良いという許可が出され、飢えが勝った人のなかには、これを受取る人も出てきました。伊江島の被接収者が「伊江島の農民」ではなく、乞食になったとき、路上で多様な人びとと関わりが生まれ、またその人びとが自らの生を語る言葉の空間も生まれました。乞食と思わず関わってしまったのは「誰」だったのでしょうか。乞食に接することで自らを語った人びとは「誰」だったのでしょうか。

現時点でわたしには「何者でもない」としか表現できません。ただ言えそうなことは、コメントにもあったように、占領という、言葉が無用とされる場所で、人びとが集まり言葉を発する空間が生まれるきっかけを、乞食が結果的につくり出した、ということなのだろうと思います。それは、伊江島の乞食が最初から意図していたというよりは、訴える行動をしているうちに、結果的に周りがそのように動いたということなのかもしれません。そして、何が起こるかは分からないけれども、自分たちが(生きるというよりは)死なない可能性にかけるために、伊江島の人びとは「宣言」をぶつけ続けたのかもしれません。

 

【「銃剣とブルドーザー」を考える】

このように考えると、戦後の沖縄における自治希求運動の源流とされる「島ぐるみ」闘争、その発火点であるとされる「銃剣とブルドーザー」の時期に、とても多様で豊かな言葉の空間があったことが垣間見えるのではないでしょうか。そして、これらの言葉を発した人びとが、その空間をつくり続けた人びとが「誰」だったのかを考えられた時、「島ぐるみ」闘争に集まった人びとがもう少し別の存在として見えるのかもしれません。

また、運動ということを考えるとき、わたしたちの意識は、誰が主導したのか、どのような組織だったのか、という事に焦点を当てがちです。ですが、少なくとも「銃剣とブルドーザー」から「島ぐるみ」前の伊江島を通して情況をみてみると、集団は特定の人物によってまとめ上げられるようなものではなく、常に流動性のあるものであった様子が想像されます。(例えば、“目的があったわけではなく、くやしさをぶちまけたくて有刺鉄線を切った人びと”、“離島である伊江島から那覇へ陳情に行く際に、バス移動が楽しくて行楽気分になってしまった人びと”なども、土地闘争を担った人びとでした。)

沖縄の「自治」「独立」というとき、それはもちろん基地問題の対立としてのみ、これらの語が発せられるわけではありません。しかしながら、沖縄の人びとの日常、生活を考えたときに、占領以降ずっと、かれらの生は基地に抱え込まれた空間で営まれてきました。そのような「基地に抱え込まれた生の集合」が発する言葉たちを、できるだけ豊かに重層的に聞き取れるような身体を持っていたいと、戒めを込めてわたしは思います。

さいごに、伊江島の陳情者の一人は、当時を振り返って以下のように書いています。

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(伊江島での接収前、1955年1月の米軍との面会の帰り。普天間にて。)

「(…)地主たちは雨靴もデブデブの米軍のお下がり服も気にならず、かえってこの地の主人公はわれわれだと、行きよりは元気づいて、下の庭に下りて行った。広い芝生のはるか向こうの方に未亡人らしい三、四十歳位の年配と思われる沖縄婦人が、頭に日本手拭をかぶって、男たちの刈った草を集めていた。あれがほんとのこの土地の主人公だと思うと、悲しさと憤りが胸に迫ってきた。」

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当時の沖縄の人びとにとって、沖縄戦の延長に米軍占領があり、戦後をどのように生きるのかという中で、基地があまりにも深く絡んでいたということは、沖縄戦後史をどう記述するのかということに深く関わるでしょう。そして、伊江島の陳情者がふとこの沖縄婦人に気づいたということから、どのように乞食を考えることができるのか、引き続き課題としたいです。あまりにも重層的なことについて考察することは、孤独に思うことが多いですが、今回火曜会のみなさまと議論で繋がることができたことに感謝いたします。