火曜会

火曜会は、言葉が帯びる身体性を押し隠すのではなく、それを多焦点的に押し広げることこそが研究行為ではないか考えています。また研究分野の境界は、分野の前提を再度議論する中で、連結器になるとも考えています。

火曜会通信(52)  1950 年代映画の「記録性」を問う:映画『女ひとり大地を行く』(1953 年)を中心として

1950 年代映画の「記録性」を問う:映画『女ひとり大地を行く』(1953 年)を中心として(2017 年 7 月 12 日)、が終わって
姜文姫 カンムニ
今回の火曜会での報告は、準備が足りなく映像をみる時間も長かったせいで議論の時間が物理的に少なかった。にもかかわらず、参加された多くの方々から有益なコメントや感想を聞く ことができ、よかったと思っている。 テクストもそうであるが、映像を他の人といっしょにみる経験は何よりも楽しい。まず、い ま同じ空間をみんなで共有しているという、感覚がある。この感覚は次の議論の時間に対する 楽しみを高めるから楽しいのだ。いま私がみているこのシーンについてどのような議論がされるか、ワクワクする。 議論の時間ではないときに映画に関して素直に感想を言ってくださった方もいた。また、デ ィテールな部分(星、歌、ラジオなどなど…)についてコメントをしてくださった方々にも感謝す る。以下は当日いただいたコメントと論点を中心にしながら今後研究のため雑駁にまとめてお く。 私は『女ひとり大地を行く』というタイトルもあり、自分の興味を持っているところでもあ る女性の労働、恋愛、結婚に焦点を合わせようとしたが、「喜作」という人物に関してコメン トしてくれる方がたくさんいて、意外だった。確かにタイトルの「女」は「喜作」の復帰(帰 還?引揚げ?)によって厳密に言うと「母」にもなりうるし、「喜作」の苦難が決して見過ごし てはいけない経験でもあるからである。 報告が終わったあと、この映画と同じ年封切りされた、あの名作を映画化した『蟹工船』 (1953 年、山村聰監督)をみた。「喜作」の流浪の履歴にこの蟹工船が入っていることを真剣に考えてなかったことに気づいた。蟹工船こそ、百姓とヤマからの労働者が集まる場所であった (もちろん夕張炭鉱からの労働者も映画『蟹工船』に登場している)。小説の描写はいうまでもな く、映画における蟹工船の労働の様子は、「喜作」が「真の労働者になった」というナレーシ ョンにふさわしいものである。 ところが、『女ひとり大地を行く』の「女」が、「喜作」の存在によって結局「母」としてあったというコメントはもうちょっと慎重に考えたい。私は映画に出てくる恋愛と結婚、つま り「サヨ」と「金子」・「喜作」、「喜一」と「文子」、「喜代二」と「孝子」といった人間 関係において映画の「記録性」を抽出しようとした。ここでの「記録性」とは、亀井文夫監督が戦後のイタリアリアリズム映画の影響を受けながら、現場の映像を映画の中に入れていくと いうことのみを意味してない。男女、炭鉱会社と労働者、労働者同志など様々な人間関係によ って炭鉱における労働が成り立っているという関係性としての記録という見方を導くことである。 そのゆえに、『女ひとり大地を行く』には炭鉱という場所には収斂できない恋愛もある(基地 での恋愛)というコメントは、この映画が持っている豊富性を再び感じさせた。 また、『女ひとり大地を行く』には「記録された「現実」が二つある」という指摘には、蟹 工船もことも含まれていたと思う。映画の時間(1929~1949 年)と映画が封切りされた時間(1953 年とそのあたり)。 また、「雷さん」の存在と彼が送ってきた旗、「喜作」が満洲の撫順炭鉱を経ってきたこと から「中国」の位置が一段階違ってくるというコメントがあった。ことに「喜作」の満洲経験 は、まるで日本統治期の朝鮮のプロレタリア文学と当時されていた議論における「ロシア」の 表象のように考えられた。大げさに言えば、革命と労働者の聖地として「中国」が描かれてい たのではないか。そうならば、『女ひとり大地を行く』の「大地」の意味ももう一度考えなければならなくなる。(注1)

以上のいただいたコメントからみれば、「サヨ」と「金子」の関係を単純にまとめてはいけ ないと思う。「中国」が絡んでくる文脈(「喜作」の存在が重要となる)と如何に結び付けるかを今後考えていきたい。そして「サヨ」「金子」の関係を「恋愛関係であった」と整理してしま うことの危険性は、「金子」が「喜一」「喜代二」のお父さんの代わりにもなったと指摘され て気づいた。これは議論にあたって「恋愛」と「結婚」の定義をしてなかった私のせいでもあ るが、炭鉱における二つの「区分けにくさ」を表しているともいえるだろう。 運動と歌がピタっとこない・違うときに感じる感覚、戦前の総動員体制と戦後の増産体制が 同じノリで描かれているところのすごさ、演説シーンの「ぎこちなさ」から「代表する」こと の「むずかしさ」を指摘された冨山先生のコメントもあった。 自分一人ではたどり着くことのできない様々な観点と考え方が得られて、本当によかった。 皆さん、今度報告する機会、議論の時間を与えてくださってありがとうございました。今後も よろしくお願いします。

 

(注1)これは、亀井監督が映画『女ひとり大地を行く』のタイトルを、中国大陸へ興味を持ち、日中 戦争期にも取材を行ったアグネス・スメドレーの自伝的著作『女一人大地を行く』から付けた ということとも関係があるかもしれない。