火曜会

火曜会は、言葉が帯びる身体性を押し隠すのではなく、それを多焦点的に押し広げることこそが研究行為ではないか考えています。また研究分野の境界は、分野の前提を再度議論する中で、連結器になるとも考えています。

火曜会通信(57) 「大島渚の《夏の妹》」をみる

 

「大島渚の《夏の妹》」(2017年12月13日報告)の後記

高恩美

 

火曜会という所で行う議論は囲碁のようなことではないかとときどき思うのです。

決して広いとは言えない決められた空間で、順番に石が飛び、席をとる。暗黙のルールがあるので荒れた戦いにはならないし、一つ一つの打ち方には小さな世界がある。

みなが持っているのは黒白という同じ重さの石だけであるのに、一つの石で囲むことができる領域の広さはそれぞれ違い、時にはその囲み方は駄目だとも判断される。ただ、特に面白いのはその「駄目だ」と呼ばれるような打ち方やその碁石の変化です。「駄目」だと思われた部分が改めて考え直されたり、「打つ価値がない」と思われた言葉から意外な可能性が生じます。「もう駄目」もあるが、「駄目でもともと」もある。「駄目、駄目、やり直し」のような態度で打つこともあるし、「駄目出し」や「駄目押し」のような局面もあります。少々違いますが「きりだめ」の場面も考えられるでしょうね。

過去3年、様々な対局に参加し、他者同士の対局を拝見しているうちに、私も少しは自分の石で喜びを味わえるようになったと感じています。《忘れられた皇軍》(1963)、《絞死刑》(1968)、《夏の妹》(1972)という三本の大島渚の映画を皆さんと一緒に観るために私が用意した布石のディスカッションペーパーは、映画を有益に読み解くことより、むしろ打開の難しい局面にどんどん迷い込んでいきましたが、それこそが囲碁の妙味ではないのでしょうか。

映画を毎回見る度に、「映像―イメージ」というもの、とくに「映画」という生き物の持つ力、潜在性の恐ろしさに感服します。そしてテキストを共有する歓喜。なぜ人と共に観るとまた新しい場面が見え、新しい音が聞こえてくるのでしょう。

一緒に鑑賞した三本の映画は、「捨て石」のように打たれ、恐怖と魅力の両義で駆け引きされてきた他者についての大島なりの対局です。在日朝鮮人、死刑囚、沖縄。あるいは日本の青春、または日本という概念。

犯罪性と性の問題、リアリティーと再現/表象の問題、「生きさせるか死へと廃棄するかという権力」の(日本)近代国家というテーマについて、大島渚の映画の周辺から考えようとしている私の野望は未熟ですが、皆さんのおかげで種はかなり集まったような気がします。何人かのコメントや質問が難しい位置から動かないのです。この種を育てる復碁をしながら、いつか妙手を報告したいと思います。

映画のなかで問題視された要素やコメントのあったシーン、多様な論点について具体的な応答はいつか別の所で別の形でしたいと思います。ここでは一つだけ、大島渚をめぐる「吐き気」について話したいです。大島は「感度が鈍いことは罪悪である」と言いました。彼の映画には様々な犯罪者が出てきます。彼らが罪をおかす状況に追い詰められたり、罪をおかすことを欲望したり、あるいは、ついに罪を犯してしまうということは、われわれが「ある時代の犯罪性」のなかに「閉じ込められている」ことを表すのであると思います。現実は胡散臭い芝居として現れ、鈍感な私の不感症と向き合えと言います。彼の映画は遅れて到着する「時代の犯罪性」への感覚、その症候である「吐き気」、そのものです。それを見つめ、耐えるところに同席してくれる仲間がいるのは心強いことでした。

さて、ある伝説によると神仙のような高段者たちの囲碁対局は永遠に続けるそうですよ。