火曜会

火曜会は、言葉が帯びる身体性を押し隠すのではなく、それを多焦点的に押し広げることこそが研究行為ではないか考えています。また研究分野の境界は、分野の前提を再度議論する中で、連結器になるとも考えています。

火曜会通信(58)不穏な東佐代子

 

料理家、東佐代子について(2017年12月6日)

西川和樹

今回の火曜会では東佐与子という料理家のことを書いた。彼女が料理家としてたどる軌跡は不穏である。料理に対する妥協ない姿勢は、いつも傍らに意識されているけれど、正面からは決して顧みられることのないものを明るみにだしてしまったのだろうか。様々に明るいイメージが付せられる「食」には、一方で何者かの命を奪うという行為が前提とされている。「食」に携わるものは、こうした事実を真摯に受け止め、食物が持つ力を余すことなく自らの滋養としなければならない――東の言葉に通底する思想を端的に述べるとすればこのようになるだろうか。しかしながら、このような信念は東に限らず、他の多くの料理家によっても主張されてきたと言うことができる。だとしたらなぜ、東が描いた軌跡は、他の多くの料理家が描く軌跡から外れ、険しく妖しいものとなり、社会の暗い部分に触れることになったのか。火曜会の議論ではこの問いを一つの指針として、みなで東の生を語る言葉を探していった。

一方には、歴史の問題がある。1892年に生まれフランスに留学して料理を学んだ東は、海外を目の当たりにした早い世代に属する。彼女が記す料理本は、まだ世界を知らない人びとに向けて描かれた一つの世界地図であった。その地図には、例えば北アフリカ料理の頁にフランス料理の影響が指摘されるなど、食の領域からまなざした帝国の展開が書きつけられている。また晩年に東が巻き込まれることになった事件は、戦後まもない時期に起こったものである。彼女が生活していた大学という場、また彼女の監禁を可能にした精神医療の制度が、戦後の価値観の転換を背景にした変化の過程にあったこの時期、東が語る不穏な言葉はどこに届いてしまったのか。

もう一方には、東が占有していた空間の問題がある。東が生活空間としても使用していたその場は、東によって道具や設備が整えられ、多くの人びとが忘れられない味として回想する料理が生まれた教室であった。料理という行為を結節点として生まれるこの自治的な空間はどのような場であったのだろうか。

議論は以上の点に収れんされるようにして進んでいった。そしてこれらの論点は、自分が事前に記したペーパーのなかで焦点化したものでもある。書いたものと議論されるものが一致するのは有り難いことである。貴重な場に立ち会った気がした。

今回の文章を書いているとき、結末に向かうにつれて、不思議な感覚を覚えた。自分は走らないのでわからないが、これは一種のランナーズハイのようなものだっただろうか。自分の呼吸と言葉が一致するような感覚があり、言葉でどこまでも届くような感覚があった。書くことによって、対象に近づいているということがわかった。結末まで書き進めるにいたって、料理をつくり学生に講義をしていた教室の風景を垣間見た。

それは、この瞬間に書いていなければ、同じことはおそらく書けなかったのではないかという経験でもあった。この部分だけでなく、力を入れて書いた部分、あるいは迷いながら書いた部分、それらが議論の場で確信的に取り上げられていたのは、不思議なことだった。書くということは油断ならないことだと思った。それと同時に、火曜会という場の形式が、書くことと読むことの関係を新しく作り直していくようにして、つなげ合わせているのだということもある。毎週送られてくるペーパーの読み手としてもまた、これは油断ならないことだと思った。