火曜会通信(61)ー『はじまりの光景』の「はじめに」をめぐって
『はじまりの光景』の「はじめに」をめぐって(2018年1月17日)
森亜紀子
今回の火曜会では、2月頃に発刊を予定している『はじまりの光景―日本統治下南洋群島に暮らした沖縄移民の語りから―』という証言集の「はじめに」(序章)として書いた文章を議論してもらうことにした。
MLに文章を投稿した後に読み直していて、自分が今回の文章を書く中で何をしたかったのか、改めて気づかされることになった。そのため、火曜会の場では、まず、自分が半ば無意識の中でやろうとしていた次の三つのことについて話させてもらった。一つ目は、沖縄・南洋群島という<現場>からはできるだけ遠い所から書き出すということ。沖縄から南洋群島へ移民したひとびとの経験は、沖縄史の中でも周縁に位置づけられており、特殊な経験のように語られがちだが、私の中には、本当はもっと普遍的な経験のはずなのに…という思いがあった。だから、一見無関係に思えるアラスカの写真家・星野道夫の言葉から語り始め、周縁化・特殊化されたひとびとを私たちの日常世界に引き寄せようとした。二つ目は、「出来事を時系列に書く」という歴史学の作法を放棄し、現在の時点から過去を想起するという<記憶の語られ方>に従って書いてみるということ。これまでの私は、証言の内容のみに着目し、その語られ方を軽視してきた。しかし、それでは語り手を疎外することになり、私という人間が聞いたことの意味も薄めてしまうことになる。そうではなく、語りが生まれた時・空間から<過去へと遡る歴史>というものを描いてみたかった。三つ目は、<私>を描き込むということ。前に発刊した証言集の「はじめに」では、証言を理解する上で必要な歴史的な背景(沖縄近現代史と南洋群島移民の関係)について書いていたのだが、それを読んだ友人に、「これはこれで知識として必要かもしれないけど、もっと自分を押し出してみたら?」との感想をもらった。つまり、なぜこれを私が発刊しようと思ったのか、私自身の問題意識が伝わってこないと言われたのである。そこで今回は、「こうかくべき」という固定観念を脇に置き、<私がどう何を感じたのか?何を書きたいのか>を徹底的に突き詰めていこうと試みた。
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議論の部では、本当にたくさんのコメント・感想が寄せられたが、それらはどれも有意義で、私に一歩前へ踏み出すための力を与えてくれるようなものであった。
【媒介としての世代】複数の人が、世代区分をすることにより、世代の特色を本質化してしまう可能性や世代を語ることにどういう意味があるのかという問いを挙げられた。これに対し、私は各世代を特色づけること(レッテルを貼ることにも通じる)が目的なのではなく、そのことを通して自身が出会うことのできなかったひとびとを可視化し、沖縄・南洋群島に生きたひとびとの経験を同時代に別の空間に生きていたひとびとの経験と繋いでいきたいのだと答えた。冨山先生が使われた<媒介>という言葉を借用させてもらうと、様々なひとびとの経験を分断するのではなくつなぐ<媒介としての世代>というものを考えたいのだと、議論を通して改めて認識することになった。
【植民者について語るということ】沖縄のひとびとの<植民者性>とは何か、それを問うことの難しさに関しても論点として挙げられた。この点に関して、私は、ひとびとを植民地へ駆り立て、加害者の立場へ追い込んでいった戦前の構造や、帝国からの引揚者の存在を忌避したり忘却した戦後日本社会の忘却の問題を問わずして、あたかも植民地へ渡ったひとびとにのみ植民地支配の責任があるかのような論への違和感を述べた。最も問いたいのは、兵士・引揚者など帝国の前線に立たされたひとびとの経験・存在を社会化することなく、むしろそれを孤立させ、封印することによって成り立ってきた戦後日本の民主主義の問題であるのかもしれない。
【お化けの力】お化けは本当にいるのか?という疑問も挙げられつつ…、やはりお化けはすごいという議論もなされた。私がお化けの例で指摘したのは、証言に向き合っていると、次第に<証言者>個人の輪郭があいまいになり、複数のひとびとや声が立ち現れてくるという点だった。議論の中で印象的だったのは、これに加えて、主客の転倒(?)も起きているのではないかという指摘である。死者が生者の口を借りて語っていたのか、生者が死者の力を借りて無念を語っていたのか。証言者は語っていたのか、語らされていたのか。証言という場においては、個人/他者、生者/死者の境が越境されてしまうのかもしれない。
【起点を創る】議論を終えて、いったい私は何をやりたかったのか・やろうとしているのかが少しわかった気がする。冨山先生が指摘された、新たな動きを生み出す<媒介としての私>。質問の中で出た、『はじまりの光景』というタイトルの<はじまり>はどこにあるのかという問い。「もう来るなよ」と言われても訪ねて行く<邪魔者による攪乱>。私がやりたかった/やってしまったのは、「もう終わった」と思われていた出来事・者たちの中に飛び込んで、<起点を創る>ことだったのかもしれない。