火曜会

火曜会は、言葉が帯びる身体性を押し隠すのではなく、それを多焦点的に押し広げることこそが研究行為ではないか考えています。また研究分野の境界は、分野の前提を再度議論する中で、連結器になるとも考えています。

火曜会通信(62)ー 護照を再考してみる

 

護照を再考してみる(2018年1月31日)

 

篠原由華

 

今回のディスカッションペーパーでは、これまでの作業やそれに対する考えを一度すべて整理してみたいと思いながら書き始めた。それは当日も冒頭で話した通り、これまで自分が進めてきた作業から、何が見えているのか、見える可能性があるのかを整理しなければ、今後の展開が描けないと思ったからである。また自分の行き詰っているところや、見過ごしてきた個所を確認したいと考え、ペーパーではなるべく具体的な事例を挙げることは避け、極力自分の考察や現段階で立てられる仮説を述べるようにした。結果、かなり具体性に欠けたペーパーを配布することになってしまい、参加して下さった皆様には、コメントしづらい、不親切な内容となってしまった。ここでお詫び申し上げたいと思います。

 

当日、みなさんから頂いたコメントは多岐に渡り、まだ全てを消化できたわけではないため、ここでは印象に残った点について述べたい。

今回のペーパーでは、これまでの進めてきた作業をなるべくすべて書き出し、そしてどう関連して連なっていくのかを見てみようとした。このようなペーパーに対して頂いたコメントを通して、自分の思考が整理され、また具体的な課題が見えてきたように感じる。ペーパーでは語彙の変遷や制度の内容、そして当時の実態等、様々な角度の論点を列挙したつもりである。それぞれ抱える課題はあるものの、共通して自分が前進できずにいた原因が見つかったように思う。それは「掴めそうで掴めない」、「あるようで無い」、「無くてもよい」、「グレーゾーン」等といった、曖昧な領域をどう描くかということだったように思う。

例えば語彙で言えば、時期によって名称や用途が変わっていった、また制度においては条約条文で規定されていること以外は国が時期によってさまざまな条件が設けられていたし、交付される「外国人」という定義も決して明確とは言えない。このような数々の「曖昧」がある状態があるということは、当然と言えば当然なのだろうが、これまでこのような曖昧さを描くことを避けようとしてきたような気がする。しかし今はこのような曖昧さのある状態を面白いと思うし、また面白さを丁寧にそのまま書いてみたいと思っている。ちょうど一年前の報告時に頂いたコメントで、「曖昧がある状態が面白い」というものがあったのを思い出し、今になってようやくその意味が少しだけ分かったような気がしている。

今回の議論で得たヒントは極めてシンプルで、さまざまな角度における曖昧さを集めて、その「制度」ないし「書類」の実態を炙り出すしかないということなのではないかと思っている。それはちょうど細いケーブルを何本も寄せ集めて大きくて頑丈な一本のケーブルに仕立てる作業に似ているのかもしれない。護照の曖昧さ、あるいは多面性を描けたらと思っている。