火曜会

火曜会は、言葉が帯びる身体性を押し隠すのではなく、それを多焦点的に押し広げることこそが研究行為ではないか考えています。また研究分野の境界は、分野の前提を再度議論する中で、連結器になるとも考えています。

火曜会通信(号外)―『無知な教師』をめぐって―

                   

 

火曜会・精読会   2013/6/19        

                                                

『無知な教師』より、あるいは火曜会という時空間の痕跡

柚鎮

 

*知、または知り方―差異について議論するということ

 

知とは、知り尽くして手に入れることのできる対象というより権力に対する敏感な対話であり、批判的な解釈過程である。超越的ではなく部分的知、「状況に置かれた知」。-ハラウェイ

知や知的営みは、私的所有や個人業績(量)において意味づけられるというよりも、また私的所有物としての知を前提にした社会のニーズや社会的影響、あるいは所有者(知識人)による啓蒙ということでもなく、知それ自体が他者との関係性や集団性にかかわる行為遂行的な営みであり、意味作用である。 -冨山一郎

知るとは、傷つけられることでなければならないと考える。知るということ、それに決定的に重要であるがゆえに意図的に削除されたある歴史を知るということは、知らずに済んでいたことで守られてきた自分の生(生き方)に対する恥ずかしさ、秩序に対する憤怒、意思疎通に対する絶望が生じるため、傷付けられるしかないのだ。 -鄭喜鎮

 

かかる知に関わる考察を前提にするなら、知から始まるすべては、それが知性であれ、知識であれ、知覚であれ、知恵であれ、立ち止まる、または黙るというある静態性を絡む動態(運動?)としてしか語れないだろう。

で、問われるのは、読み方の差異に対する主張(読み方の正しさをめぐるとりあい?)というより、異なる立場が意味するのはなにか、相互の立場はどのように作られたのかというある知識の経路(経験、感情、論理の参照事項など)をあぶり出すことであるだろう。

要は、知自体(定義や分類)というより、知り方、知の組み立て方をめぐる議論であり、それらを議論することによって見い出される互いの思考の交差点のことである。陳腐だった、元気をもらったといった『無知な教師』に対する所感は、まず、論議の起点(要素)として確保しなければならない身体の標識である。

テクストに対する手触りを味わう場所、あるいは情動をせめぎあう場としての批評空間(議論時間)に対する拘りにおいてふと垣間見られる世界、「意思」を交流するという営みを通じて生み出される共同作業での途上の知。それらに対する想像という「注意」や実践が「知的教育と道徳的しつけを結びつける愚鈍化の関係を覆す」知につながっていくのではないだろうか。

「人間は平等である」というある「臆見」を「信じる者たちとともに、それを確認しようと努める」とき、証明しきれい価値を明らかにしようとするとき、「書物」が「知性の平等」として意味作用するとき、感情は連累する感覚の、蛍の光のようなヒントとして再発見され、また再構成されるだろう(身体の変容を伴う知の生成?)。

 

 


「『無知な教師』より、あるいは火曜会という時空間の痕跡」(2)

2013/06/24

門野 里栄子

 

*思考の物質化―言葉にすることから始める

 

『無知な教師』を精読会で読み始めた時、やはり書き残したい、と思うようになった。「やはり」というのは、以前から議論の内容をどのように記録していくかが課題として上がっていたからではあるが、私にとって記録することの意味が変わったからだ。「書き残したい」というのは、単にあったことを記録するのではなく、ランシエールが言うように「思考を言葉に、言葉を思考に翻訳し、そして翻訳し返すため」(p.95)に必要な作業としてということである。

柚鎮さんは先の書簡でこう述べている。

 

要は、知自体(定義や分類)というより、知り方、知の組み立て方をめぐる議論であり、それらを議論することによって見い出される互いの思考の交差点のことである。陳腐だった、元気をもらったといった『無知な教師』に対する所感は、まず、論議の起点(要素)として確保しなければならない身体の標識である。

 

議論の起点として、『無知な教師』に対する所感から始めたいと思う。それは、ランシエールの言葉に倣うなら、たとえ社会が理性に適ったものとなることは決してないにしても、理性的瞬間という奇跡を信じたいからであり、その瞬間とは知性が一致する瞬間ではなく、理性的な意志がお互いを承認する瞬間(p.145)である限り、まずは各々の所感を確保しておきたいからだ。

妙に聞こえるかもしれないが、『無知な教師』を読んでいて、心が満たされ何とも言えない幸福感に包まれる箇所に何度か出くわした。最近、いわゆる学術書と呼ばれるものに、こうした感覚を味わうことがある。おそらくそれ以前は、どこかで言葉を手段としてとらえ、特に学術書からは何か(知識に限らないし、反面教師の場合もある)を教えてもらうという認識だったのだろうと思う。私が『無知な教師』から「元気をもらった」と思えるのは、一言でいえばこれが「解放の書」と感じられたからであり、解放が「知性の平等」を前提とすることに発しているからだ。

 

知性の発現〔manifestations〕には不平等があるが、知的能力には序列は存在しない。自然本性上のこの平等を自覚することこそ解放と呼ばれるところのものであり、それこそが知の国におけるあらゆる冒険の道を開くのである(p.42)。

 

社会にある不平等を前提に、それをいかに埋めていくかを考えるのではなく、知性の平等を前提にして実践を繰り返す。平等を「自然本性上の」と言いつつ、一方で「平等は与えられるものでも権利として要求されるものでもなく、実践され、確認されるものである」(p.202-203)という。この表現の矛盾の中に、知性は平等であるという「臆見」を引き受けようとするランシエールの強い意志を感じる。そうであるからこそ、すべきことは決まっている。

 

文章の一つ一つ、行いの一つ一つのなかに平等の局面を捉えるという、この常軌を逸した道を執拗に示し続ける以外に、すべきことは何もない。平等は到達すべき目標ではなく、出発点であり、どのような事態においても維持すべき前提なのである(p.204)。

 

私が本書の中で、幸福感に包まれる箇所に何度か出くわしたのは、内容の豊富さというよりは表現の豊かさゆえである。同じことを違う表現で繰り返し述べていると感じながら、その違う表現の一つ一つに心惹かれた。唯一なすべきことを実践しようとするとき、異なる表現であらわされた一つ一つの文章が、「思考を言葉に、言葉を思考に翻訳し、そして翻訳し返すための」活路をいくつも示してくれる。

その一つを、具体的に私が引いた傍線の箇所から示してみよう。

 

口に出されたものであれ書かれたものであれ、あらゆる発言は一つの翻訳であり、それが意味を持つのは、翻訳し返すこと、つまり聞こえた音や書き込まれた痕跡の原因でありうるものを考え出すことによってのみなのである(p.96)。

 

文書に対して口述は、常に補足的なものとして扱われてきた。私は経験の継承という課題を考える中で、両者の間に本質的な差は認められないと確信しつつ、それを適当な言葉で説明するに留まっていた。他の研究者の論考を参考に、なんとなく自分を納得させてきたと思う。語りというものを、「知性の平等」という前提と「推し量ろうという意志」、そして伝えようとする意志において考え直し、いつか言葉にしてみたいと思う。

議論の起点となる各々の所感を、私は聞きたい。それが、つぶやきのような感想であっても。「すべてがすべてのなかにある」(p.40)のだから。