火曜会

火曜会は、言葉が帯びる身体性を押し隠すのではなく、それを多焦点的に押し広げることこそが研究行為ではないか考えています。また研究分野の境界は、分野の前提を再度議論する中で、連結器になるとも考えています。

火曜会通信(65)ー別所梅之助の民衆神学を読むー

 

 

「民衆史の歴史哲学――別所梅之助の民衆神学を読む」を終えて

 

2018年5月13日  森 宣雄

 

今回は『福音と世界』(新教出版社、2018年4月号~2019年3月号予定)に連載中の「野に咲く民衆の神学――別所梅之助を読む」の原稿を検討いただきました。

もっとも強く受け取らせていただいたのは、アカデミック・サークルの外の知とは何だろう、よりよい交流や接続のしかたとは何だろうといった問いです(「アカデミック・サークル」は「アカデミズム」よりも広いもの、研究者だけでなく「市民」「読書人」=市井の知識人も含むものとして使いたいと思います)。

今の時代状況として、90年代以降のIT革命で知的情報がインフレを起こしていること、対人関係などの社会関係が機械化(空疎化?)していること、そのなかで19世紀以来のアカデミズムも先の見えない変容を強いられていることなどが思い浮かびます。それらを背景にして、私は、日本のアカデミック・サークルではマイナーな存在である(あった)沖縄、台湾、信仰の知に生きる民衆などをテーマにして、またその方面の人びとを読み手として、ものを書いてきました。

もともと、幼いときから学校や教会などでの知のつかい方はダメだと思って、知と思想は市井の庶民の生き方のなかで生き、ためされてもいると思ってきましたが、最初から悟りきって脱俗し超越的になってしまっては自分が思想的におごってしまうので、10代の半ばすぎから日本社会の学校的勉強にも少しとりくむようになり、結果としてアカデミックな知も修得してきました。だいたい第二次大戦前までは、まっとうな人間は学問などするべきではないという格言が広く世界的に流通していたと思いますが、私にもその考えが根底的にあります(「頭がいい人」「賢い人」というのは、別所梅之助も連載第9回の「常に新しいイエス」でも言っていますが、悪口でもあったと思います)。アカデミックな知はそれ自体ではむしろ人間を悪くするものだ、その良いところを何か従来とは違う別の形に振り向けなければいけないという思いで、研究にとりくんできたのでしょう。そういう課題意識から、アカデミックな方法論の検討をくぐって思想的にも鍛えられたかたちの文章を、一般の方むけに書くことを、しぜんに追求してきました。新聞に書いたり、本を出したり、人にお願いして多元的な共著を編んだり、そして今は雑誌に人の文章を連載したりと。

火曜会は冨山一郎さんのかじ取りのもと、学知をアカデミズムの外に、個々人の生き方や社会構成、社会変革のためにつかみ直そうと試みている場だとイメージしてきました(だいたいのところですが)。学知をアカデミズムの支配の道具である状態から解き放とうとするのは私も同じで、この点で志を同じくする者として参加させて頂いてきました。しかし前に『沖縄戦後民衆史』を検討いただいたときも思ったのですが、なかなか噛みあわないところがありますね。そして今回、やっぱりそうかなと思ったのは、学知あるいは知性では世の中が良くなったり人が解放されたりすることはないと思っている私の価値信条が、ネックになっているのかなということでした。

ではお前自身はどう思っているのかといえば、自分の心身を長期的巨視的な時空間のなかに現われているものと見て、自己の個体的な生死のかなたにある超越的な論理を常に意識しつつ、身を御したり生を発揮させようとする、敬虔の知こそ人間とその社会が重視すべきもの(また重視することで生き延びてきたもの)だと考えています。近代的な知では個人主義的な自我が中心で、生死のかなたにある超越領域をめぐる知や信仰を、科学信仰のもとに排除してきましたが、近代科学文明のたそがれ時の今、どうなのでしょう。

別所梅之助という人も、聖書学や宗教思想をめぐってアカデミックになろうとする欲望を内に感じつつ、大学や教会などの近代的機構の外に希望を見いだした人でした。自然や流浪の民、そして農民の無名の者としての生き方に。自他ともに学校や教会の「異端」と呼びましたが、それなりに多くの人に読まれ、民衆史や民俗学といったアカデミズムの外縁部の学問の成立を鼓舞したりしました。今はすでに民衆史や民俗学といったかつての異端的な学問さえ活力を失っていますが、そのなかで、「呪術や迷信からの解放」を目ざした科学的知の身の置き所を、もういちど根底的に検討しなおしてみたいと考え、連載をはじめ、また火曜会にも問題提起してみました。

脱宗教は近代的知識人サークルの習俗であり、ことに日本社会では天皇制のもと宗教的批判性は抑圧されつづけていますが、やはり被支配者の民衆が眼前の秩序のいきづまりを突破する際には知性ではない何か、個体の生死を超える価値観がカナメなのではないかと思っています。ベネディクト・アンダーソンも『想像の共同体』の冒頭で、マルクス主義の欠陥として言っていましたね。まだこの知の再検討は入り口あたりです。それでもよいのですが、許されれば、これからもともに検討や討論を深めてゆければと思います。