火曜会通信(66)ー「引きこもりからの社会運動」
「引きこもりからの社会運動」(2018年5月16日)を終えて
高橋淳敏
今回、改めて「引きこもり」とその「運動」について考えた。
「引きこもり」という言葉は引きこもるという動作を、名詞化する中であるものないものを、その言葉の中に詰め込まれた。そうと名指された方は抗うこともできず、政治的・社会的、一方的に利用されたようなところがある。その例を、「医学モデル」と「福祉モデル」として批判的に考えた文を発表した。
「引きこもり」をその名詞から解放すれば単純に引きこもるという動詞に戻るだろうか?そうだった、引きこもりはちゃんと引きこもれていないことにこそ問題があった。いったん名指された「引きこもり」はどのようにすれば、そこからの「運動」を考えられるのか?「引きこもり」を無いものとするのでもなく、皆にあることだと美化するのでもなく、当事者たちの苦しみはどのようにあって、「引きこもり」として救済されるならばそれがいかにして可能なのか。当事者とは誰なのか。
「引きこもり」というアイデンティティは成立しない。アイデンティティが成立するためには、「引きこもり」とそうでないものとの二者間の関係だけでは成り立たないはずである。「引きこもり」と引きこもる自分との差異があって、はじめて引きこもりアイデンティティについて考えることができるのである。引きこもりの定義によると他者との関わりがないとされている。はじめからこの言葉には当事者性としての無理があったのだ。皆の前に出てきて、私は引きこもりだと出てきたとたん、その人は引きこもりではなくなってしまうような。今でも「引きこもり」はそうではないものに一方的に名指され続けている2者間で苦悩し続けている。「幽霊」のようにして見えもしないのに、言葉としてあるのだ。当事者とはいったい誰であったのか。
問題として声をあげるのは誰か。それはまずは親だった。他者性もその定義で「家族以外の他人と関わりがない…」として、家族は除外されている。親の苦悩は分かりやすいものであった。自らは企業社会の中で生かされ、我が子をその中に正社員などとしてあるいはその家族として参入させたいのだが、うまくいかないのである。親は村から出て死者を乗り越え、学生運動や社会運動に見切りをつけ、自由経済に乗っかったが、そこには核家族と消費しかなかったのであった。なんとも情けのない話である。親が引きこもり問題の核にあるのだが、子が名指されることによって親自身の生は問題にされない。引きこもる人を同じように情けのないものにしてはいけない。親の生き方に異議申し立てをする第三者との関係と共に、引きこもっている人が自ら行う「引きこもり」からの解放運動が重要になる。