火曜会

火曜会は、言葉が帯びる身体性を押し隠すのではなく、それを多焦点的に押し広げることこそが研究行為ではないか考えています。また研究分野の境界は、分野の前提を再度議論する中で、連結器になるとも考えています。

火曜会通信(67)ー「『真謝日記』をよむ」、の準備

 

「『真謝日記』をよむ」、の準備(2018年5月23日)

岡本直美

 

今回は、「『真謝日記』をよむ、の準備」というタイトルで、二部構成のディスカッションペーパーを作成しました。前半では、現在の問題として、沖縄県伊江島で調査する報告者自身の立場からこの日記を考えました。そして後半は、日記が書かれた1955年当時の伊江島(米軍統治下で強制的な軍用地収用を経験)において、この日記をどのように位置づけられるのかを探ろうとしました。

『真謝日記』というのは、昨年発刊された『阿波根昌鴻資料1 真謝日記』[1]のことで、伊江島で反戦平和運動を実践し続けた阿波根昌鴻(あはごん・しょうこう:1901-2002)氏が遺した膨大な資料の中にあった1冊のノートを活字化したものです。現物のノートの表紙には「日記帳 真謝区民 一九五五年四月二十八日以降 区長(区長名)」と書かれています。ここには、米軍統治下の1955年4月28日から7月25日までの出来事が記録されていて、筆跡から複数の記録者によって綴られたものであることが分かります。記録された内容は議事録のようなもので、生活空間を軍用地として収用された真謝区の人びとが、離島である伊江島で問題に対応するために集まって話し合った決議事項等が書き込まれています。

みなさまと議論したことの一つは、この『真謝日記』―1冊のノートに綴られた議事録的なもの―は何か、ということだったと思います。一般に伊江島土地闘争は、全沖縄的な軍用地反対運動である「島ぐるみ」の土地闘争(1956年)の源流として、また、反戦平和運動の象徴として捉えられる傾向があります。そのような文脈で参照されるのは、主として那覇(沖縄本島)での伊江島の行動で、それは琉球政府や米国民政府が入る庁舎内外での座り込み陳情や乞食行進(街頭行動)といった、被接収者たちの生活のごく一部分です。

議論を通して、この日記の背景や内容を説明することの困難さを痛感しました。いちいち、「あれもこれも」と説明が長くなってしますのです。ですがそこから、『真謝日記』は、ある場面を切り取ってそれをあたかも全体であるかのように意義付けてしまうような姿勢自体を拒否するような記録であるような気がしてきました。それは、伊江島を「書く」私が、自身に強いていたい緊張感だと思いました。加えて、歴史を「書く」私―資料を用いて書く私。私が書いたものが一つの意味付けになり得ること。―にとって、アーカイブとは何かということでもあると思います。

火曜会で一人ひとりが出してくださったコメントは、どれも取りこぼしたくないものでしたが、それらが大きすぎて、この場で返答することができずにいます。お許しください。ですが、抱えきれないほどの議論ができたことに、心から感謝いたします。ありがとうございました。

 

[1]㈶わびあいの里反戦平和資料館ヌチドゥタカラの家発行、2017年12月。