火曜会

火曜会は、言葉が帯びる身体性を押し隠すのではなく、それを多焦点的に押し広げることこそが研究行為ではないか考えています。また研究分野の境界は、分野の前提を再度議論する中で、連結器になるとも考えています。

 火曜会通信(69)ー大阪の婦人会館を考える

 

「大阪の婦人会館を考える-20周年の記念誌を中心に」

Mairead Hynes (6/6/2018)

 

今回のディスカッションペーパーでは、大阪府立婦人会館の1980年代の状況を考えるため、20周年の記念誌である『平等・発展・平和をめざして―大阪府立婦人会館の20年』(大阪府立婦人会館、1983)を取り上げました。そこでは、婦人会館という空間において誰が安心感を抱くのか、誰が威圧感を抱くのか、それは(会館の名義でも登場する)「婦人」という集団性にいかにかかわるのか、という問いを抱え込みながら書きました。

このような問題意識に基づいて書いたディスカッションペーパーを皆様と議論する中で、記念誌の中で登場する名乗り方についての指摘をいくつかいただきました。そこでは、「婦人」という名乗り方に限らず、「一般の婦人」や「主婦」など、そして婦人会館の前史が記述される時にしか登場しない「なにわ女」という名乗り方によっていかなる集団性が構築されるのかという問いが浮かび上がりました。そこでは会館の名義には「婦人」という一語が含まれていることは、その空間にいた人たちにとっていかなる意味を持ったのかという問いも、議論を通して言語化できたように思います。

名乗り方によって構築される集団性という問題は、女性専用車両についてのコメントとして議論の中で現れました。女性専用車両は、「女性」としてみなされる人にとっては安心感を抱くような空間(セーフスペース)になる可能性も有しながら、それは「女性」としてみなされていない人(「女性」として認めてもらえない人、「女性」及び「男性」というカテゴリー自体を拒否する人)の排除につながる可能性も有するという指摘をいただきました。「女性」や「婦人」など、排除によって構築されるカテゴリー/集団性を(ただの「属性」として捉えるのではなく)批判的に問いながらも、そこから生み出される可能性にも焦点を当てるような議論が、あの「場」ではできたように思います。

あの「場」での議論の中で、(ディスカッションペーパーの問題意識としてあった)ある空間で経験される安心感/威圧感という問題は、不慣れな席に「報告者」として座った私にとって、身近な問題のように感じました。しかし、一人で考えていたときに言語化できなかったことが指摘されながら、あれもこれも調べたくなることが聞かれながら、(明らかに緊張している私が励まされ&笑われながら)、ある空間で生じる「場」の重要性を実感しました。皆様、本当にありがとうございます。