火曜会

火曜会は、言葉が帯びる身体性を押し隠すのではなく、それを多焦点的に押し広げることこそが研究行為ではないか考えています。また研究分野の境界は、分野の前提を再度議論する中で、連結器になるとも考えています。

火曜会通信(70)ー日本における所謂「混血児」に対するまなざしを考える

 

 

日本における所謂「混血児」に対するまなざしを考える

~映画『キクとイサム』の上映を通して~

2018年7月4日(水)池原えりこ

 

 

 

今回は沖縄のテーマではなく日本における混血児/またはアメラジアンの歴史を反映する、1959年に制作された映画『キクとイサム』を通して過去と現在との関連性を考えてみたい旨でディスカッションを提供しました。始めに「混血児」という言葉を示すアメラジアン、ハーフ、Hapa, Mixed-Bloodという呼称について簡単に説明します。

 

「アメラジアン」という表現は1946年にアメリカの人道主義者、パール・S・バック(Pearl S. Buck)によって作られた用語で、アジア人(例えば日本、タイ、韓国、ベトナム、カンボジア、ラオス、フィリピンの)母親と米軍人父親との間に生まれた子供たちを指す。その前に、フィリピン・アメリカ戦争期に1898年にもアメリカ人として生まれた子供たちは存在していたが、その子供たちはメスティサヘとして知られていた。 1941年から1945年の間における日本の植民地支配のために、フィリピン人と日本人の混合子供もいたが、その他にフィリピン人と中国人、スペイン人、アフリカ人、メキシコ人のインド人などの混合子供もいた。また、ユーラシア人という用語もあり、アジア(南、東南アジア)、と英国、ポルトガル、オランダ、フランスなどのヨーロッパ系の混血を定義している。 (通常は)英国の父親とインドの母親の中に生まれた人物を特定するために使用されていたが、アメリカ人/ユーラシア人は全体として人種的な汚れの象徴として見られていた。ベトナムでは「人生の塵」と呼ばれています。翻って日本のアメラジアンは、第二次世界大戦と戦後の占領時代に生まれた子供たちです。佐和田美紀という人物が1964年に日本のアメラジンを助けるために、エリザベス・サンダース・ホームという育児院を設立しました。戦争の赤ちゃんとして象徴される混血の子供達は、白人のアメリカ人、日系アメリカ人、日系人(War Baby, Love Child: Mixed-Race Asian American Art, 2013)からのけもの・他者扱いされ、差別を受けてきました。

 

☆日本のハーフ(Haafu)・米国のハーフ(Hapa、Half, Mixed-Race, Mixed-blood, etc.)

日本のハーフとは1970年代にマスメディアやエンターテイメント世界の中で「ゴールデン・ハーフ」から初まり、紹介された表現である(Okamura, 2017)[1]。ハーフという用語は日本人と外人の間に生まれた子供たちに当たるが、その前に使用されていた用語は「混血児」、「間の子」とか他にもあるが「混血児」は1890年代に使われていて1932年に言葉として小説にデビューした(Okamura, 43)。

他に社会学者の下地ローレンス吉考さんの記事、「「日本人」とは何か?「ハーフ」たちの目に映る日本社会と人種差別の実際」」も添付します。https://www.refugee.or.jp/fukuzatsu/lawrenceyoshitakashimoji01

 

次に、Hapaは元々ハワイの言葉でハワイの先住民族と白人系アメリカ人のハーフを示したが現代はアジア人と他の人種が混じった子・人、いわゆる混血児、を表現する。

Mixed-blood・Mixed-Raceは色々な表現も含んでアメリカの人種差別的な用語で黒人と白人の間に生まれた子供たちを代表する言葉であるがアメリカの先住民とか他の人種と白人系アメリカ人の間に生まれた子供たち・人々も含む。Mixed-bloodはほぼ死語でMixed-Raceは1980年代に新しいハーフとして出発したがまだネガティブなイメージが残ったまま使用されている場合も多い。

 

こうした歴史背景の中で『キクとイサム』は映画批評誌「シネマ句法No. 397 昭和49」において「戦後映画総決算」「新しい20年展望号8句記念特別号」、「戦後20年日本・外国映画操作100選」の一つとして紹介されていた。そこで重要かつ厄介なキーワードとして「差別」、「混血」、「黒人」があった。一般にアメラジアン・ハーフの歴史・イメージ、ディスコースの主な課題は差別や混血性に留まるケースが多いが、こと黒人となるとそういったまなざしが固定すると分かる。同時に、黒人ハーフはエンターテイメント・芸能界での活躍が表象されることがある。事実、キクとイサムを演じた高橋恵美子・キクと奥の山ジョーさんはそのイメージ通り歌手として活躍した。個人的な物語として見れば話はそこで終わる、あるいは満足することができるかもしれないが、この二人の他に存在した・するハーフ、黒人系ハーフと言われる人間は日本社会にてどう反映されているか?という疑問には応えることができない。こうした点を念頭に置きながら、発表当日に皆さまから頂いた示唆的なコメントのいくつかに改めてコメントを残したいと考えます。質疑応答という形で文章をまとめました。

 

火曜会の参加者のコメント1:

・お祭りから帰ってきたイサムの養子縁組に関する郵便が届いたシーンを議論のポイントとしてとらえた。そこから様々な「まなざし」を見ることができ、日本社会における固定化されたものと向き合う時間として捉え直すことができるかもしれない。

 

池原1:

映画の中には少なくとも他者に対する「まなざし」と他者からの「まなざし」の交錯する「場」が存在する。その「場」を私は「時間」として取り上げてみたい。理由は「混血児」は殆ど問題としてあるいは特別な存在を抱くようにイメージ化されることとエンターテイメントという場が限られたハーフの特定な場所であるケースが多い。それはなんなのかと考えさせる「場」も本来であれば必要だが、そういう時間は実際のところ滅多にない場合が多い。

そういった場を設けるためには二項対立として片付けるのではなく、脱植民地的であるサードスペース・隙間から模索する場を模索し、閉ざされた扉(タブー)にあえて入っていく、つまり検討する必要があると考える。

この映画の主題であるアメラジアン・混血児という「他者」ではなく、むしろ日本社会において誰もが持つ「まなざし」を可視化し問題定義することによって、対話の場を作り出したい。そうすることによって今まで見えなかった・信じられない・隠されたもの・本質に近づいていくのではないかと思う。

例えば家族が祭りに行った時にイサムが棒に登って人を困らせたシーンについて考えてみると、彼が棒に登った説明がなかったことに気づく。そのブランクは説明が入らないと理解できないような「場」を二つ作らせた。混血児を演じる彼の行動を二項対立的に(混血児対日本・人)として理解しようとすると、そのシーンには何も理由がない、なかった、あるいは聞かなかった事で終わってしまい、彼が抱えている「黒人系混血のイメージ」が見る側(オーディエンスも含めて)の当たり前のレンズを私たち見る側に仕掛けられることに気づかないでいられる。そこから検討すると見られている側であるイサムの意義もないと解説もできる。だがイサムが語る「場」は映画の中で構成された「沈黙性」によって彼・社会のレンズから「外れる」のではなく「ズレる」重層的な「場」を醸し出していたのかもしれない。その醸し出した空間の「時」と「間」はズレがもたらした「時間」である。二項対立はその時間を失い、混血と社会が分かれて「見る・見られる側」という対立性で検討される傾向がある。だが「まなざし」の「ズレ」から見るとその「場」と「時間」が重層するもう一つの「場」を獲得できる。その時私たちはどう説明し・解釈を加え・議論し・想像を働かせ・理論を立て・語る・語らないのか。

そういった、見られる側としての「アメラジアン・ハーフ」と、見る側としてのハーフと、ハーフでないものなどの説明する場所がないことは、即ち映画でもあり社会でもあるという関連性が見えてくる。サードスペースから吟味するということは二項対立の社会的構造性を無視するのではなく、作り上げられた・固定化されたもの=「まなざし」を定義しながら、見えない部分「複数化された場」を焦点に模索する・考えることである。その観点から検討して見るとイサムと見る側、双方が持つ沈黙はそう簡単には解説・表現できない。クラスで話したようにイサムの役にはセリフがないが、その表情・演技で語っている。彼が何を語っているか、つまりその意味を議論できる場をこの映画は私たち視聴者に提供しているのではないか。その場を私は脱植民地主義可能性を持つサードスペースになっていると捉えられるのではないか、と私は主張しています。

 

火曜会の参加者のコメント2:

・あからさまな差別と目立たない差別とが、町と村という二つの場所で表現されていることに気がついた、という指摘もあった。その視点で考えると「町」と「村」というイメージが、本映画ではどう機能しているかを考える場となる。いわゆる「普通」の概念では町は近代的、開放的で村は未発展の、閉鎖的として描かれることだろう。

 

池原2

二項対立的な象徴として出来上がっている社会構造をそのまま受け入れるということ、つまり既存の固定観念を承認する「場」を作ることは、いわゆる「普通」ではない人・物・場所・文化などがあたかも存在していないかのように語られる・表現される行為を持続する働きがある。例えば差別的な問題を検討するときに加害者・被害者としてこの二つの視点・ポジションで取り上げようとするケースが多いであろう。だがこの映画は二つにとどまらない、複数の異なる「場」・道を提供している。映画の中のキクは町で人に見られる側でもあり見る側でもあるが、それは彼女が住む場所・村でも共通している。ディスカッションで誰かが指摘したように映画が語る差別的なシーンの中で彼女はごまかしながら自分の世界を作る。それが彼女なりの社会に対する反抗でもあり、彼女自身の存在を保つための居場所でもあると言えるだろう。あるシーンで男性のクラスメート三名がキクをからかう。そのときに近所の赤ちゃんを子守していたキクはその赤ちゃんをトラックの上に乗せてクラスメートを追いかけてその3人と喧嘩になる。そのシーンを見かけた学校の先生が男子生徒を追い払いキクと人生話をする。肌の色が喧嘩の元になる中、先生は彼女にそれを乗り越えて新しい人生を歩むというアドバイスを捧げるが、それに対してキクは「面倒臭い」という。もしキクの態度を「普通」に解釈すると、なんとも悪い性格だと判断される向きもあるかもしれない。彼女自身を一個人として見るならなおさら、彼女の性格に原因・問題・責任があると思われるだろう。しかし、「混血」と「黒人」のスティグマを常に背負う人間としてはもちろん面倒臭いはずであるだろうと火曜会のメンバー一人の声もあった。そこで被害者・加害者ではなく、両側を暗示するキクのポジションを通して概念・社会と「混血」・個人の複雑な関係性を考える「場」ができていた。社会が悪いとか個人に責任がない、という二項対立的な判断ではなく、この映画は重層的に考える・吟味する・議論する時間・空間を与えている。その意味で、キクというキャラクターは方法論としての役割さえも果たしていると私は考える。

ここで言うところの「方法論」とはサードスペース理論(脱植民地主義)とパフォーマンス・アート方法論(アートと人生、あるいは身体と場所との関係性、それらを混合して現実世界に「ずれ」を及ぼす)を組みたてた方法論として構成・工夫されている。それはクリティカル、クリエイティブ、と日常性を含めた脱植民地主義を活かすサードスペースである。キクを表徴する真正性・虚構性・二重性といったものは、まさにサードスペース・パフォーマンス・アートの「場」として「出演」・定義できるのだ。彼女が象徴する全てがパンドラの箱のように扉を開く可能性がある。その意味で私は彼女を方法論として使用しています。

 

ここで、ある参加者の追記コメント「二律背反的な判断とは距離を置く「場」に関わる方法論ということでしょうか?」というものに呼応して、その通りだと私の立場を表明した上で次のコメントに進みます。

 

・ジェンダーとパフォーマティビティ (ジュディスバトラー)(Performativity, Judith Butler)

 

火曜会の参加者のコメント3

キクというキャラクターが象徴する人種性・体型を通して、新たな議論の可能性・視点が湧いてきた。典型的な日本人女性の小柄な体格とは違い、キクの体型と素直になれない性格は、男女の差異に加えて日米という二国家を超える存在となっている。その点に関連して、「彼女が自ら演じるパフォーマンスの場と他者に応じるエンターテイメントの場の違い・複数性」という指摘もありました。キクは「男性的」な演じかたをするため、既製のジェンダーに固定されない柔軟性・機動性がある。「櫛」と「化粧」という典型的な女性的に描かれているシーンと彼女の「男性的な」演技は複数のジェンダー的、あるいはジェンダー以上のパフォーマンスを表しているのではないか。

 

池原3:

そのパフォーマンスは、パフォーマティビティとしてInterdisciplinary学際的な方法論として取り上げている。例えばジェンダーのパフォーマティビティを始めセクシャリティー、人種、経済、階級の複合性Intersectionality(Kimberlé Crenshawを始め)と私は特にパフォーマンス学(主にPerformance Art)とComparative Ethnic Studiesの脱植民地主義理論が交差する学際的な理論・方法論である。

パフォーマンス・パフォーマティビティの特徴は、対象になる物(例:ジェンダーや人種など)が及ぼす、あるいはそれに依拠するイデオロギー、概念、意味、感情、歴史などを再確認した上で、現在にはびこる差別的、植民地的な権力の働きを問題化する方法論として使用されてきた。前述のコメント3はキクのパフォーマティビティ・パフォーマンスを問題化している中、特にジェンダー・女性性というコンセプトを異なった角度から捉えている。それはこれまで固定化されてきた女性性・ジェンダーの枠から見るのではなく、その枠との「ずれ」を強調しているのだと思う。キクというキャラクターが醸し出す「ずれ」から見える相対化された「場」を脱植民地的な可能性として提供している。その「ずれ」あるいは「隙間・サードスペース」が「二項対立的な判断とは距離を置く「場」に関わる方法論」です。

 

・混血性・人種性

 

彼女の日本人・アメリカ人という人種性は「混血」をそのまま表示しているが、本映画における「混血性」と、従来の固定化されてきた混血のイメージとは別のものだと考えられる。なぜなら本映画において日本社会の中で堂々と生きている彼女の混血性は、1.ひっそりと見えない場所で生きている「ハーフ」の人びと、あるいは2.特定の場所一一一例えばエンターテイメントの世界で一一一活躍する「ハーフ」の人びととの違いがあるからだ。映画で表象された彼女のように堂々と生きるハーフの姿は現実の日本社会には未だに到来していない。キクとイサムを演じた高橋恵美子と藤原喜久男はさまざまな苦難を超えて日本の歌手として活躍してきただろう。イサムを演じた藤原喜久男(芸名:奥の山ジョージ)はシンガーソングライターとして活躍して、エンターテイメント世界では知られている。彼が所属していたバンド、ピートマック・ジュニアのボーカルであった藤原は1978年にリリーしたルパン三世のテーマ曲のボーカルであった。ルパン三世は日本のポップカルチャーを代表するテレビ、映画、漫画などで世界を渡る大きな影響を与えた文化財とも言える。だが日本伝統的な歌手の場所、紅白歌合戦にはその二人の姿は見えない。

 

そこでジェロという、アメリカで生まれたハーフの人物を見てみたい。彼は2003年に日本の演歌界にデビューする。そして第59回NHK紅白歌合戦に出演する。アメリカ人として生まれ育つジェロと日本人として生まれ育つ藤原喜と高橋が象徴する混血性(黒人性・日本人性)の違うところは勿論のことながら場所・言葉・歴史などである。日本人として生まれた二人はアメリカ性を出さなければならないかのように、限られた場所で歌う。それはキクの「面倒臭い」が指摘する混血児・ハーフに対する不平等な社会構造である。つまり彼女の肌色と黒人性・ハーフ性に対する社会の眼差しがスティグマとして構造化・恒常化し、その「荷物・問題」を当事者が常に背負わないといけない、我慢しないといけないという不平等な条件・現象・現実を示唆している。そこに潜む問題や責任はまだ眠っているようだ。彼らの日本人性は彼らの混血性を同時に表徴しているのだがそれが混血と日本を分裂して混血性の中に存在する日本性を見えないようにしているのが、現在の日本社会で支配的な、二項対立的な見方である。それは何故なのか。社会が1959年から今までどう変化して/あるいはしなかったのだろうか。日本社会における混血児とその周囲の人びととの歴史を忘れさせないようにこの映画が未だに機能しているのはなぜか。1959年に作られた映画「キクとイサム」はその見えない社会構造が約60年間閉ざされてきた扉を開く鍵を持っている。その扉というのはキクとイサムが表象する「場」と「時間」である。1995年に出版された本のタイトル、「戦争の落とし子ララバイ:「キクとイサムのヒロイン」高椅エミの戦後50年」」(本間 健彦 ・著者)は何を示唆しているのか、そして何を表徴しているのか。本を読んだ後に考えて見たい。

ここで引用したいのは阿久戸光歩の論文、「キクとイサム:脚本からみる水木イズム」。今回のディスカションで初めて知った女性脚本家、水木洋子がこの映画のシナリオを書いて今井正監督と直接関わった重要な人物だ。この論文と火曜会で話した内容に異なる場合もあったがほぼ重なることが多かったため、通信を書いた後にこの論文に出会い、読むことができ、良かったと思う。論文によると水木は今井と手を組んで数々の映画を作り、その作品において、阿久戸はこう述べた:「その時々に世界に見え隠れしているさまざまな問題をテーマにしている。それは多くの場合、誰もが実は心の中に引っかかっているが、堂々と口にすることを憚っている問題である」(200)。それは今まで議論した、「語られない」もう一つの「場」に関連する。ここでは全文に対する感想・議論ではなく、阿久戸が使用する「水木イズム」の特徴「反戦ではなく,厭戦をテーマにしている」 、「すっきりしない結末」、「キクやイサムたちに対する人々の,差別で はないが同族ではない存在への接し方」に少し触れたい。この三つの手段は阿久戸がいうように社会に至る「問題提起に徹している」。そして終わらない・終わらせないのはその映画のシナリオであり社会の日常生活でもある。最後の文はそのまま引用します:

「混血児」たちに同情を寄せ,「自分は優しくしてあげよう」と思ってもらいたい,というような ことではない。この作品のなかで描かれているのは,キクやイサムたちに対する人々の,差別で はないが同族ではない存在への接し方である。舞台となった山間部,そして今現在の日本でも, 異質な存在に対する怖れや気後れが戦後 60 年を経てもいまだ残っている。時間を経ても人は成 長しないということではないが,異質な存在への恐れや気後れやそれを排除しようといった感情は,なかなか抜けないものなのだろう。ゆえに彼らがコンビを組んだ作品は,戦後 60 年を経 た今もなお,戦争をまったく知らず当時とはまた違った感性を持つようになった人々にも新たな 感動や衝撃を与えている。(200)

 

・個人的に一番刺激的だったコメント・感想はこの映画が描く場所が東北であったということです。阿久戸の論文によると舞台は山間部だったそうだ。火曜会の参加者に寄るとイサムが電車に乗ってさようならという場面で彼に弁当を渡すシーンと、キクが赤ちゃんの行方不明事件の責任を問われた時に「勘弁してくれる」と何回も言った時、東北の文化を知らない人から見たら無責任に映るのが、東北の人にとっては「普通」の表現であったということを教えてくれたことが私にとって大きな発見です。こういう視点は「混血児」でキクとイサムの物語を終わらすのではなく、彼らの存在にある環境・背景・言葉・身振り・表現などを含めて全体的な意味や状況が把握できる。そこで上記に引用した、「キクやイサムたちに対する人々の,差別で はないが同族ではない存在への接し方である」の複雑性の意味が映画で表現・表明する。阿久戸によるとイサムの存在は「海外養子縁組プロジェクトという当時の「混血児」の行く末の一例を提示させるものであり,同時にキクに家族の離別のトラウマを与えるためのものであったのである」(198)。著者は「カメラ」と「イサム」の相互性を「写真を取られたら養子になる」と連想して、イサムがアメリカに行った後のキクの行動とイサムの存在を明らかにした。キクが表現した、写真を撮られそうになった時の怒りや首を釣ろうとする程の絶望とイサムが写真を撮られた後にアメリカに去った現実に関連した。しかし、火曜会のディスカションではイサムの役割を違う角度から見たことにより、彼の無口さ・無言のパフォーマンスを議論したので、阿久戸の分析とはまた別の分析ができたことが本当に良かったと思う。

 

・火曜会の参加者からこの映画の主人公は従来のステレオタイプ的「混血」ではなく、当時の日本社会における混血児童へのまなざし、あるいは一少女の青春時代物語としてさえも分析できるという視点もあった。こういう視点は滅多にないので感動しました。そこでまた水木洋子という女性の視点を生かした女性脚本家の働きがある。論文によるとこういう作品の中で今までのヒロインは男性であり年下であるが、水木の影響でヒロインは女性であり年上のキクになる。高橋恵美子がキクのキャラクターに成り立つまでのプロセスはそれなりのドラマがあるがそれについては添付された論文を参考にしてください。

 

本映画の制作経緯や映画に関わる背景の不足があったという声がありましたのでその反省もありながら阿久戸光歩の論文を引用しました。この映画の原作として水木洋子の脚本があったという貴重な情報をこの場で知ることに感謝します。そして時間の足りないことにより取り上げられなかったテーマもあったのが残念でした。例えば火曜会の参加者が映画の展開として弟が南方向・エリザベス・サンダース行き、姉は百姓の道を歩むという視点を議論したかったです。

 

この通信では、火曜会の参加者全員から頂いた全てのコメントに対応できていませんが、皆さまからの示唆に富む貴重なコメントは全てメモしました。今回の上映会とディスカッションを機に次回もディープな議論ができるかと楽しみにしています。

 

池原えりこ

 

 

[1] Okamura, Hyoue. “The Language of “Racial Mixture” in Japan: How Ainoko became Haafu, and the Haafu-gao Makeup Fad”, Asia Pacific Perspectives, a publication of the Center for Asia Pacific Studies, Vol. 14, No. 2, Spring 2017.