火曜会通信(71)ー「「料理することの哲学」に向けて」
「「料理することの哲学」に向けて」後記
西川和樹
今回は「「料理することの哲学」に向けて」という文章を書きました。「哲学」という言葉を使ったのは、本文でも触れたように『食べることの哲学』という本を最近読んだからと料理という営みについてここで改めて考えてみたいと思ったからでした。
したがって今回の文章は、多くの文章において自分がそうするように出発点と到着点を見定めてから書き始めるというよりはむしろ、自分がこれまで読んだことや考えたことを漫然と引っ張りだしてきて、連想のおもむくままにそれを結び付け、さらに「料理」という視点からそれらを整理し直す――このような経過をたどって書くことになりました。
思い返せば自分は美術史という知の形式に強く引き付けられていました。それがいつしか、「生活」という領域における美しさの問題にたどり着き(「美術」と「生活」は学知の問題として扱うとき、ともにある種の言葉にならなさを抱え込む点で共通しているのかもしれません)、花森安治や『暮しの手帖』に出会い、料理家の存在について考え、料理本やレシピを読み解き、生活運動という問題系にたどり着きました。こうした研究の経過をたどり、さらにここからどこへ展開するのかについて考えるとき、ここで改めて「料理」という営みを捉えることで何を描き出したいのかという問いに行き当たりました。研究上の行き止まりに突き当たったともいえます。
そのような状況から手さぐりに文章を記しはじめ、詳しくは本文にあるように、「食べること」がもたらす問題系、石牟礼道子の言葉、美術家にとっての料理、東佐与子という料理家、そして生活運動や集団食堂のことなどに触れながら、料理という営みの多面性をできる限り引き出すことを試みました(が、議論を終えてみると、自分の見ているものはほんの一部分でしかないことを思い知らされます)。
議論の部では、料理を哲学するというのはどのようなことであるのか、ということを考えるような時間になりました。自分には目の前の漠然とした問いを大仰な言葉にかぶせようとする傾向があるようで、今回も深く考えもせず使った「哲学」という言葉についての説明を求められ、なかなかに大変な時間になりました(以前にも「レシピを文学する」という題の文章を書き、同様の反省をしたことを失念していました)。
しかし議論が進むにつれてわかってきたことは、料理という営みを正面から考察することで、食や生活の領域が扱われる際に――議論のなかで出た言葉をそのまま使わせてもらうならば――料理をする過程が不可視化されるという問題を焦点化できるのではないかということです。食や生活に関わる問題が扱われる際に「食べることは人間にとって必要不可欠なことだ」、あるいは「食や台所は国家や政治と直接結び付けられている」というのはよく言われることです。こうした視点は、自分の研究にとっても欠かせないものになっている一方で、このような言い回しによって、ほぼ例外なく「食べる」という行為の手前にあるはずの「料理」という行為が視界の外へと追いやられてしまいます。それは、その料理が誰によってつくられ、その調理方法がどのように編み出され、料理ができるまでの時間が何によって秩序づけられているのかといった種々の問いを覆い隠してしまうことにもなります。料理から問いを立てることによって見えてくるのは、少し大げさにいえば、台所から立ち上がる別の歴史なのかもしれません。
今回これまで考えてきたことを一つなぎに書いたことで、それだけ一層、自分の考えられていないことが議論を通して明らかとなりました。例えば、「料理人」とは誰のことか。料理をつくる人、それぞれが人種やジェンダー、階級の網の目なかにいる。それによって様々な力関係が生じるとするならば、料理を作る人をその場所、その時代の状況に即してより精緻に考察しなければならないのではないか。あるいは「やらないといけない」料理。自分の記述はどうしても、料理を創造の営みとする観点に偏ってしまう。料理は創造であると同時に、労働であり、時に強制力を伴って人々の苦しみのもととなる。こうした点をどのように引き受けるか。他にも料理における「集団性」の問題など、いつも傍らにあるけれど、すぐには言葉にならない問いを多数頂いた。少し時間はかかるかもしれないが、ゆっくりと応答していきたい。